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2024.7.15<新版>4-4.記紀の皇朝初期を集約した前期の神武朝から雄略朝まで(倭国初代~第25代)、4-4-1~4-4-7

写真:兵庫県朝来市の天空の城・竹田城跡。


4-4.記紀の皇朝初期を集約した前期の神武朝から雄略朝まで(倭国初代~第25代)

4-4-1.宗主の神武B朝ニニギ族と新羅金氏始祖・第3代安寧(227年~292年)

・宗主・ニニギ族(初代神武B、2綏靖、第4代懿徳)
・新羅金氏7世代・新羅金氏始祖・第3代安寧=新羅葛文王未鄒=高句麗・蜜友(ミツユウ)
 
新羅金氏7代・新羅金氏始祖・第3代安寧=新羅葛文王未鄒=高句麗・蜜友(ミツユウ)は、宗主・ニニギ族の高句麗の臣下であったので、新羅王の王位正統性を宗主・ニニギ族を継承元とすることによって補います。
    48年、匈奴が分裂し、南の匈奴勢力が南匈奴になります。これに対して北に残った勢力を北匈奴といいます。南匈奴は後漢に服属し、後漢と共に北匈奴や鮮卑族と戦いました。南匈奴は19の種族によって構成されており、種族の下には部族があり、更にその下には氏族という単位がありましたが、それぞれ雑じりあうことがなかったと言われています。少なくても、南匈奴時代、「DNA匈奴休氏ニニギ族」は、「DNA匈奴金氏」の宗主でした。

2世紀中頃、「DNA匈奴休氏」ニニギ族・Y-DNA「O2a1c系」は、「DNA匈奴金氏」族・Y-DNA「O2a1a系」と共に南海ルートの海路を通って奄美経由で南九州日向に入島しました。そこで、ニニギは「DNA呉系倭人」である中国江南海人族のコノハナサクヤ媛との間にヒコホホデミを儲けました。ヒコホホデミはそこで海神の豊玉媛との間に「DNA匈奴休氏ニニギ族」である初代神武天皇B憂位居の父のウガヤフキアエズ[後に高句麗第10代山上王位宮(在位:197~227年)]を儲けました。
   しかし、ニニギ族は、卑弥呼を同盟女王とする北九州には「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(O-F316)」である後漢が管轄していて入れず、一旦朝鮮半島に移動します。朝鮮半島南部で休氏ニニギ族と金氏とは反目し、匈奴金氏は離反して金官加羅国を建国します。
 この後、ニニギ族は、更に朝鮮半島を経由して元の山東半島に移動し、体勢を立て直します。後に、宗主ニニギ族は、金氏のこの時の背反を許さず、二度に渡って、伽耶、新羅に侵攻し、滅ぼします。
 この時にニニギ族の伽耶、新羅の侵攻に同行したのが、新羅王族分国の金官加羅国出自で、高句麗休氏朝の臣下となった高句麗・蜜友(ミツユウ)[=新羅葛文王未鄒]です。この時の功労で、新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)[=第3代安寧]に擁立されます。
 
 金氏始祖の皇位正統化のために、記紀編纂者達の祖の新羅金氏始祖第3代安寧の継承元として、宗主である「DNA匈奴休氏」の神武B朝をおきました。初代神武B、第2代綏靖、第3代安寧、第4代懿徳の誰も、倭国に来島したことはないし、為政したこともありません。
 日本列島に来島したのは、ニニギ族の同盟軍(源流匈奴、大伴氏)で、これにより、尾張氏とニギハヤヒは畿内から追放されます。

4-4-2.百済系垂仁朝と並立する高句麗呉系倭人朝系の古志朝(300年~391年)

・第6代孝安、第7代孝霊、第8代孝元、皇朝接続王・第9代開化。
 
呉系「トベ」系統の倭国『大后』の日本列島での父系祖を集約した皇朝で、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の日本列島での父系祖を集約した皇朝で、尾張氏、大伴氏、物部氏、和邇氏が父系祖です。倭国『大后』の始祖の世襲足(ヨソタラシ)媛=赤留(アカル)比売命=余曾多本(ヨソタモト)毘売(ビメ)命=旧事)日置日女(ヒオキヒメ)命は、母が尾張氏葛城国造・剣根(ツルギネ)命の娘の賀奈良知(カナラチ)姫、父が尾張連祖の天忍男(アメヨシオ)=天忍人、伴侶が「DNA源流鮮卑族和邇氏」の彦国葺(ヒコクニフク)命=天足彦国押人(オス)命=春日親君(第6代孝安天皇は異母弟?)と大伴氏・角比古命です。
新羅名は全員未詳です。

4-4-3.高句麗系古志朝と並立する百済鮮卑族慕容部朝系の垂仁朝(304年~375年)

・第11代垂仁、第12代景行、皇朝接続王・第13代成務、第14代仲哀、皇朝接続『大后』・神功皇后。
 
垂仁朝は、百済鮮卑族慕容部朝(百済王第11~13代)を転写して、「トベ」系統の『大后』の父系祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」が居住していた朝鮮半島南部を軸に記しています。垂仁朝では、記紀編纂者達に関係が特に深い和邇氏と新羅の昔氏(倭国の前族が移動した氏族)の宗主鮮卑族慕容部を象徴に使って出来事を記しています。

倭国垂仁朝は、鮮卑族慕容部の為政実体はなく、百済垂仁朝(304年~375年)もほとんど実体がありません。鮮卑族慕容部は早々に百済から引き上げ、前趙(304年~329年)とその後は中国江南地域から東北地域の居住を本拠にします。

畿内を本拠とする東倭国は、大伴氏、物部氏、「DNA源流鮮卑族」和邇氏、「DNA源流鮮卑族」前族が大きな勢力で、宗主の百済系の文化・文明の影響が強いです。 

倭国垂仁朝は、縄文カルチャの分散した部族同盟体の国で、鮮卑族慕容部の先進文明の導入と朝鮮半島の渡来人の侵攻に防御する集権化への変遷期の皇朝です。例えば、大規模古墳や土木事業の施行、越系「戸売」系統から呉系「トベ」系統への変遷期、分散部族同盟から集合化部族同盟への転換、対外的称号(『大連』や倭国名)の導入、先進武具の導入、漢字の導入、朝鮮半島の出先強化、船の高度化、等があります。

鮮卑族慕容部は、元々攻撃的侵攻を行う騎馬民族ですが、同時に、漢族の先進の文化・文明を取り入れました。鮮卑族慕容部の同盟軍に参画し、倭国に回帰侵攻した「DNA源流鮮卑族」の和邇氏と前族、物部氏は、鮮卑族慕容部からこれらを吸収して興隆していきます。

垂仁朝では、越系「戸売」系統から呉系「トベ」系統への倭国『大后』の主系統の変更、そして、出雲からより安全な大和への倭国『大后』の遷都と畿内への政事府の遷都の正統性を記しました。朝鮮半島での出来事と「トベ」系統の倭国『大后』の出来事と系譜を日本列島に転写して集約しました。そのため、垂仁朝の倭国『大后』には、新羅名の別名が見出される倭国『大后』がいます。「DNA呉系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者の遷都本拠地は、交通貿易に便利な楠葉府や難波府などの摂津国、河内国に置きました。当時は、通い婚でした。

四世紀の日本列島の為政体制は、いわゆる欠史八代や空白の四世紀ではなく、既に定義が違う集権国家であり、統一国家でありました。倭国は、孤立した多元性原理(分散為政)に基づく国家であり、高度な情報伝達網と輸送力を基盤にしていました。中国や欧米の単元性原理(唯一専権と覇権主義)に基づく統治体制とは別な原理によるもので、欧米の学説は適用できません。

四世紀の「DNA縄文人」は、もはや狩猟遊牧民のはるか以前の原始性を脱し、渡来弥生人と共存共生した文化、定住と遊牧の混合生活に変わっています。分散為政体制は、前近代的なものではなく、孤立した倭国固有な多元性カルチャによるもので、中国・欧米・朝鮮半島の単元性カルチャで評価判断するのは避けるべきです。三から四世紀の新たな匈奴や鮮卑族の侵攻に備えるために、集合化、集権化の為政体制に入ったものです。巨大な前方後円墳が大和だけでなく日本列島各地に造成されたことが説明できる論理が必要です。記紀の倭国『大王」の誰も、倭国には居住も為政もしていなかったので、倭国ヤマトの巨大古墳は、倭国『大后』族と「DNA縄文人」である倭国部族同盟大首長族の陵として見直す視点が必要です。
 日本列島全体と朝鮮半島との情報・輸送の文明があって、分散為政体制は可能になるものです。四世紀の「DNA縄文人」は、既に中央アジアの情報も直接得ていた可能性が強いです。

したがって、父系性の亡命政権が編纂した記紀においては、母系制の天上の倭国非政事為政者の倭国『大后』の記述の背後に父系性の地上の「DNA縄文人」である倭国政事統括者『大連』の隠された姿を見ることが肝要です。記紀の視点だけから見ることは間違いを起こします。

鮮卑族慕容部・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」の人は、特別に肌が白く、「白部鮮卑」とか「白捕虜(白虜/白賊)」とか中国では呼ばれました。鮮卑族慕容部の燕人は、ペルシャ人風の風貌があったとの話があります。鮮卑族慕容部は、西の中央アジア(エフタル、突厥系)と東アジア(中国東北部、半島、列島)に分岐し、相互に緊密な往来関係があったとみられます。(黄、厚生、李『慕容燕国史話』 吉林人民出版社 2006年) 
 日本人は、アジアの中では色白だそうです。

4-4-4.第3代安寧の傍系庶子の新羅金氏8世代・第16代仁徳(392年~413年)=倭王讃

 第16代仁徳は、第3代安寧の弟の新羅金氏7世代・新羅角干(1等官)金末仇=(推測)葛城襲津彦の二男であったので、新羅金氏の正統な継嗣者でありませんでしたが、弱小国新羅を大国にし、朝鮮半島を支配した最初の王で、かつ、高句麗の最大版図を築いた偉大な王で、無視できませんでした。
第16代仁徳は、新羅名がまだ見出されていません。
 第26代継体以降、新羅金氏の金官加羅国出自の高句麗王、百済王、新羅王が続きます。
 
第16代仁徳の時に「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』が終焉しました。第16代仁徳の『大后』は、先『大后』が越系「戸売」系統の同父異母妹の葛城国磐(イワイ)之媛命、後『大后』が呉系「トベ」系統の但馬国八田(ヤタ)媛命です。仁徳の同父異母妹の磐(イワイ)之媛命は、第4代戸売・八坂媛命=新羅・金氏保反夫人と葛城襲津(ソツ)彦[(推測)=新羅・角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)]との間の娘です。八坂媛命の父は、新羅第13代味鄒尼師今=第3代安寧です。後『大后』の八田媛命の父は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命=新羅阿飡(6等官)登保=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)です。

談徳(ダントク)[=第16代仁徳]は、成人になると活路を求めて鮮卑族の慕容皝が建国した前燕(337年~370年)に行き、後に王族待遇の臣下になりました。このことは、談徳(ダントク)が新羅王の継嗣でなかったことを裏付けています。
 356年(仁徳は31歳±5歳頃)、「DNA鮮卑族慕容部」である前燕の臣下の「DNA匈奴金氏」である高句麗・談徳[=第16代仁徳]は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である本家の新羅第16代借用昔氏(&和邇氏)訖解(キッカイ)尼師今(在位:310~356年)[=(捏造王)百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)=第13代成務=竹内宿祢 (350年生~384年歿)]を追放し、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)に就きます。この時に、釜山の東側、蔚山(ウルサン)市と接する現機張(キジャン)郡の小さい機張(キジャン)国を滅ぼします。神功皇后は、機張(キジャン)国の媛でした。
 375年(仁徳は50歳±5歳頃)、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳]は、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)[=第14代仲哀]を滅ぼし、百済慕容部朝は終焉します。
 記紀は、384年に「DNA氐(テイ)族」符氏・Y-DNA「O2(M122)」の符洛(フラク)が[捏造王]百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)[=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)・尼師今(在位:310年~356年)=第13代成務]を滅ぼしたと記しました。

百済慕容部朝の滅亡後、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年)=第16代仁徳]が、百済の覇権を握ったというのが実態です。ただし、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今は、成人後に鮮卑族慕容部の前燕の臣下であったので、鮮卑族慕容部の百済王を滅ぼしたからといって扶余族を国体とする百済王に就くことはできませんでした。こうして、百済王は第一期空位期(375年から420年)となります。 
 386年(仁徳は61歳±5歳頃)、慕容垂は、談徳を「DNA鮮卑族慕容部」の高句麗第18代故国壌王の太子に擁立します。易姓革命の慕容垂にしてみれば、扶余族を国体とする高句麗王の資格など気にすることではありませんでした。
 392年(仁徳は67歳±5歳頃)、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳]は、高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)に就きます。広開土王は、安息国の末裔を称し、安氏を称します。因みに、安息国/アルサケス朝/パルティア帝国は、紀元前238年からサーサーン朝に滅ぼされた226年まで、イラン高原を支配したイラン系民族の国家です。
 413年(仁徳は88歳±5歳頃)、高句麗第19代安氏(&金氏)広開土王/好太王(在位:392~413年)(=第16代仁徳)は、80±5歳の高齢で、「DNA鮮卑族拓跋部」・Y-DNA「O2a2b1a2(F444)」である北魏初代皇帝道武帝(本名:拓跋珪, 在位:371~409年)に擁立された「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」・Y-DNA「O2a(M122)」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により高句麗および朝鮮半島から追放されました。これにより、413年から492年まで金氏高句麗朝は、約80年間中断しました。
 高璉(コウレン)が、倭国淡路島まで侵攻し、第16代仁徳を事実上敗死させたとの説がありますが、同じ檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の原語である現済州島ではないかと推測されます。仮に第16代仁徳が倭国に亡命したとしても、80±5歳の高齢で倭国で偉大な王として待遇されても実際の統治はしていず、多くの逸話は後の作り話です。

古事記のなかの「因幡の素菟(いなばのしろうさぎ)神話」の中で6代目・大国主命は、兄弟(新羅王の王妃の子供達、等)からいじめられたと書かれているのは第16代仁徳の史実ではないでしょうか。初代大国主・スサノオを新羅金氏4代・新羅第9代借用昔氏&金氏伐休(バッキュウ)・尼師今(在位:184~196年)とすれば、第3代と第4代の大国主は兄弟の同世代ですから6世代目の子孫は新羅金氏8世代・新羅第17代鮮卑族系金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳となります。スサノオ=初代大国主の6代目の子孫は、スサノオの娘[第5代戸売・磐(イワイ)之媛命]と結婚した大国主命とされており、一致します。

 4-4-5.第一期百済王空位期(375年から420年)を埋める象徴祖神の和邇氏応神朝

・(和邇氏象徴祖神&百済和邇氏の象徴祖神)第15代応神、(新羅和邇氏の象徴祖神)第17代履中。
 
第一期百済王空位期(375年から420年)を利用して、「トベ」系統の『大后』の父系祖で、二つに分岐した百済の熊川(クマナリ)に拠点をもつ和邇氏(以後、百済系和邇氏と言う)と宇山/羽山国王(現鬱陵島)の後裔の伽耶の熊成/熊川(クマナリ)に拠点をもつ新羅王族待遇の和邇氏(以後、新羅系和邇氏と言う)を、和邇氏の象徴祖神として実在者を百済王に捏造しました。
 百済系和邇氏の象徴祖神は第15代応神としました。新羅系和邇氏の象徴祖神は第17代履中としました。第15代応神は、後の平安時代和邇氏藤原氏と秦氏の同盟を象徴する八幡神宮の主祭神となります。

この応神朝には、時代が重なる「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)が垂仁朝の継承者を装って『大王』側から入れられます。記紀は、第16代仁徳の継嗣がいたにもかかわらず、子がなかったとしました。

4-4-6.新羅金氏正統継承者の反正朝(402年~479年)

・新羅金氏8代・第18代反正=倭王珍、新羅金氏9代・第19代允恭=倭王済、新羅金氏10代・第20代安康=倭王興、新羅金氏11代・百済第25代武寧王(在位:501~523年)=倭王武。
 
第一期百済空位期の和邇氏応神朝(第15、17代)と第二期の百済空位期の和邇氏雄略朝の間を埋めるために、そして、新羅和邇氏の第17代履中の後継皇朝として、新羅金氏の正統継承皇朝の反正朝(第18~20代)が入ります。
 第3代安寧の弟の新羅金氏7世代・新羅角干(1等官)金末仇=葛城襲津彦の長男が第18代反正で、二男が第16代仁徳であったので、反正朝(第18~20代)は金氏新羅王の正統継承皇朝です。
 第16代仁徳と第18代反正とが一代空けられたのは、第16代仁徳が百済慕容部朝を滅ぼしたので、父系祖が新羅系和邇氏である『大后』にとっては一線を画したかったのかもしれません。
 
475年、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)は、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)=第20代安康]を百済から追放しました。記紀は、一族皆殺したと記しましたが、実際には、蓋鹵(ガイロ)王は生きており、新羅王に専念します。
 新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)=第20代安康の継嗣も、倭国で生育し、生存していました。記紀編纂者達の直祖の新羅王族分国の新羅王庶子の第26代継体が、正統継嗣の百済武寧王から王位を簒奪したので、記紀は隠蔽・改ざんをしました。

新羅金氏11代・百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)は、新羅金氏10代・新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=第20代安康の継嗣で、朝鮮半島の政情が安定する約39歳頃まで母系の倭国で暮らしていました。
 新羅金氏11代・百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=倭王武[=島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)]は、新羅王子庶子の新羅金氏11世代・第26代継体により、王位継承を長らく阻止されます。高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体と新羅王継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)との王権の継承合意は、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王の死後9年後の501年まで要します。更に、記紀は、百済第25代武寧(ブネイ)王の倭王称号を記紀から抹消します。

「倭の五王」の「倭」とは、日本列島の倭国のことではなく、新羅の対外的別称名が原初です。天上の非政事為政者である新羅王妃でもあった濊の後裔者の倭国『大后』が、新羅が対外称号名として濊を原語とする同音韻の「倭」を用いなくなったので、対外的に威信を示す必要が生じて日本列島の国名に用いたのが由緒です。したがって、新羅は対外別名として「倭王」を、少なくとも新羅反正朝(新羅第18~20代、百済第25代武寧王)の402年から523年までは用いていたと推察されます。それは、偉大な第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=倭王讃=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)が、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により朝鮮半島から追放されて、新羅が馮(フウ)氏高璉(コウレン)の大きな脅威に面し、自国を権威付け誇大化する必要が生じたからです。

4-4-7.第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して捏造された和邇氏雄略朝

・和邇氏:第21代雄略、第22代清寧、第23代顕宗、第24代仁賢(=第21雄略)。
・和邇氏雄略朝から第26代金氏継体への継承王で、秘密の事情をもった第25代金氏武烈。
 
金氏反正朝(402年~479年)の後、「トベ」系統の『大后』の父系の直祖の実在者の新羅王族待遇の新羅和邇氏朴英失(ヨンシル)が、第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して、百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)=第21代雄略に捏造されます。
 和邇氏応神朝(第15、17代)と和邇氏雄略朝(第21~24代)が分離したのは、利用した第一期百済王空位期(375年から420年)と第二期百済王空位期(475年から501年)が分離していたからです。これは、和邇氏応神朝と和邇氏雄略朝が捏造された傍証の一つです。
 百済和邇氏雄略朝(475年~479年)は、朴英失(ヨンシル)のみでは第二期百済王空位期(475年から501年)を埋めることができないので、子の第22代清寧、双子と推測される第23代顕宗、朴英失(ヨンシル)と同一人である第24代仁賢(新羅の花郎世紀)が考えられました。雄略朝の四代皆が新羅王に就いていないのは、捏造王であるからです。

更に、まだ埋めることができないので、第26代継体の子の新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)=第25代武烈を百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)の養子百済太子にし、百済第24代牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)に捏造しました。王が養子となって氏族名を変えることは、正統性を失うことを意味します。新羅第21代金氏炤知麻立干は、尾張目子媛[=新羅摂政只召太后=新羅・息道夫人=金官加羅王妃・金桂花]の出生の秘密と関係があるかもしれません。
 記紀の常套として、大きな隠蔽と改ざんをする『大王』を挿入する時は、非常に不自然な造られた逸話を、しかも多く入れます。例えば、神功皇后、日本国内を制覇旅行したヤマトタケル[=第12代景行=前燕第2代景昭帝慕容儁(シュン)(在位:348~360年)]、胎中天皇の第15代応神、第16代仁徳の善政、第26代継体の倭国内流浪、等、枚挙することができます。
<以上>