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2024.7.13<新版>2-27.鮮卑族和邇氏が仕組んだ出雲大社と出雲臣・千家

写真:国宝・松江城。


2-27.鮮卑族和邇氏が仕組んだ出雲大社の建造とヤマト朝廷臣下の「DNA縄文人」の出雲臣・千家の出雲移住

(1)千家は「DNA縄文人」

 千家には、天照大神の子供「天穂日命」を初代とする系図が残されています。ヤマト応神王朝の官吏であった出雲国造・出雲臣の系図ですが、皇統と同様に、とりあえず出雲国統治者の始祖を脚色した歴史系譜とみておいた方がよさそうです。出雲国造・出雲臣の系図は、「DNA種族」からみると万世一系ではありませんが、実系譜は「DNA縄文人」の万世一系であるようです。
 出雲臣第11代阿多命[ =出雲振根=八坂入彦命=建御名方神]、第16代意宇足奴命[=意宇宿禰]は、第10代崇神天皇60年に出雲臣之遠祖とありますが、スサノオ・大歳の後裔の「DNA匈奴金氏」であり、造られたものです。第13代襲髄命は、野見宿禰と同一人物とすれば、「DNA源流鮮卑族和邇氏」です。第17代出雲宮向は、「DNA呉系倭人混血縄文人」で、第19代允恭天皇元年に初めて出雲の姓を賜わりました(一説によれば第18代反正天皇4年という)。第17代出雲宮向から「DNA呉越系倭人混血縄文人」である実系譜になったとみてよいです。
 「DNA縄文人」のY-DNA「D1a2a2系」系統は、祖が北ルートの樺太・北海道経由で入島した系です。北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3,800から3,500年前の縄文人骨・船泊5号は、Y-DNA「D1a2a2a (CTS220)」です。出雲臣・出雲国造の後裔である現出雲大社の神主・千家氏は、NETではY-DNA「D1a2a2系」とされていましたが、NETから削除されました。尾張氏や物部氏の祖のY-DNA「D1a2a1系」は、右回りの海洋ルートによる日本列島への入島です。Y-DNA「D1a2a2系」は、樺太⇒北海道の北方ルートからの入島で、まだ根拠が弱いですが、現出雲大社の神主・千家氏の祖が属しているようです。
 4千年前からの歴史が門外不出の口承伝承されてきた、出雲が居住地であったクナト大神直系の末裔(出雲神族)とする正式出雲名、向(ムカイ)上官出雲臣財富當雄(タカラノトミノマサオ)である元サンケイ新聞編集局次長 富當雄氏(昭和53(1978)年現在67歳、歿)によれば、「出雲神族は、カムチャッカ半島⇒千島列島⇒北海道⇒出雲へと移動した」とする北方ルートからの入島です。参考文献:吉田大洋「謎の出雲帝国」 徳間書店 1980年。

(2)ヤマト朝廷臣下の出雲臣千家と杵築大社の創建の論理的事実

 出雲臣千家は、ヤマト朝廷臣下の後裔であり、南下した後の最初の祖地は山城国愛宕郡[京都府亀岡市の丹波一宮・出雲大神宮]です。出雲風土記を編纂した第25代出雲廣島はヤマト応神朝官僚です。
 奈良時代の山城国には愛宕山からだいぶ離れている愛宕(ウタギ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人が多数住んでいました。その場所は、現在の京都市内で、北区、中京区を含みます。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにあります。
 「寧楽遺文(ナライブン)」に、神亀三年(726年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳」、同じく「雲下里計帳」が掲載されていて、そこに出てくる人名は、ほとんどが「出雲臣」という姓です。多数の出雲臣は本来山城にいたか、あるいは、出雲臣の本拠地はむしろ山城国であって、その後に山城国出雲そのものが現島根県出雲に移住しました。新撰姓氏録では、山城の出雲臣の祖地を山城国愛宕郡としています。出雲大神宮が伝えるとおり、丹波の出雲こそ本来の出雲だったのです。島根県出雲の杵築大社に出雲大神が本格的に遷されたのは和銅年間のことです。現松江市・出雲郷には、神亀三年(726年)になっても出雲臣が大勢住んでいました。

「出雲氏」と言えば、「出雲臣氏」「出雲国造氏」「武藏氏」「武藏国造氏」「土師氏 」「菅原氏」「秋篠氏」「大枝/大江氏」などを総て含むものとされます。
 しかし、朝鮮半島から入島した「素戔嗚(スサノオ)尊-大歳」系の通称「出雲神族」と呼ばれる一族が「出雲氏」に含まれないのは、「DNA縄文人系」・Y-DNA「D1a2系」ではなく、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」であるからです。

「出雲」という地域名や神社名が島根県に広く使われたのは1871年以降のことです。古代は、意宇(オウ)郡とか、杵築(キズキ)大社の名でした。
 第19代允恭天皇元年[=新羅:第19代金氏訥祇(トツギ) 麻立干(マリツカン)(在位:417~458年)=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)]、出雲氏は、ヤマト王朝の臣下の山城国の国造第17代出雲宮向に対して「出雲」の姓を賜ったのが始まりです(一説によれば第19代反正天皇4年という)。第17代出雲宮向は、本貫地は山城国愛宕郡と考えられ、出雲風土記を編纂した第25代出雲廣島はヤマト応神王朝官僚です。
 709年(和銅二年)、第24代国造出雲臣果安の時、「丹波一之宮出雲神社」の主祭神・大己貴神だけを現在の出雲の杵築(キズキ)神社(明治時代に出雲大社と名称変更)に遷しました。「大己貴(オオナムジ)」は「オオ族の貴人の意」で、「スサノオ」とは本来別人です。
 716年、現島根県出雲市・杵築(キズキ)大社が創建されます。716年に出雲大社の建造が完成したとすれば、建造は表面上第43代元正、第44代元明ですが、その計画者及び実行者は藤原不比等と見られます。
 724年(第43代元正)および746年(第45代聖武)、出雲国造第25代出雲臣広島、および、出雲国造26代出雲臣弟山(オトヤマ)が、出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命、杵築宮(出雲大社のこと)に静まり坐しき」と記載があるので、平安時代前期までの祭神は大穴持命でした。
 731年、第24代出雲廣島が「出雲風土記」を編纂しました。ヤマト応神朝の臣下である「出雲臣」は、出雲国造氏とも言われ、国譲り以後、大和朝廷の出雲管理者の現出雲大社神主・千家です。意宇(オウ)出雲族のヤマト応神朝に協力する者は千家の臣下となり、一祭祀者として生き永らえました。祖をスサノオの子で、意宇郡(現島根県松江市)と大原郡(現島根県大東市)を統治した青旗佐久佐日子命(アオハタサクサヒコノミコト)の後裔の佐草氏や神魂神社の物部氏系の秋上氏は、八重垣神社、出雲大社の上級神主を現在も続けています。
 733年(第45代聖武)、和邇氏応神朝の臣下の第27代出雲国造広島は、出雲風土記を編上します。出雲廣島は、出雲風土記を山城国で編纂したとの説があります。
 798年(延暦17年)、出雲国造が島根県・杵築大社に移住しました。出雲臣は、島根県東部に移動し、杵築大社の宮司となりましたが、祖地は山城国愛宕郡[京都府亀岡市の丹波一宮・出雲大神宮]です。
 970年、源為憲の「口遊(クチズサミ)」に、建築物の規模を「雲太・和二(当時の東大寺大仏殿が高さ15丈(45m)・京三」と表現する俚謡があるように、本殿の高さは十六丈(48メートル)と歌われました。2000年に出雲大社境内において巨大な柱根が発見されました。その柱は、直径1.35mもある杉を3本束ねて1本とした宇豆柱(ウズバシラ)でした。3本束ねた直径は3mです。
 1871年(明治4年)、杵築(キツキ)神社は出雲大社と改称しました。現在「出雲大社」と称されている神社は、江戸時代まで杵築(キツキ)神社と称されていました。「出雲」という地域名や神社名が島根県に広く使われたのは1871年以降のことです。古代は、意宇(オウ)郡とか、杵築(キズキ)大社の名でした。
 1915年(大正4年)、 神門通りの宇迦(ウガ)橋のたもとに、出雲大社大鳥居が北九州市小倉の篤志家小林徳一朗により寄進されました。

現存する文献上で島根県・杵築大社の造営に関する記事が見える最初のものは日本書紀です。659年第37代斉明5是歳条に、出雲国造第22代出雲臣叡屋に令して厳神之宮を修造とあります。出雲大社の社伝においては、第11代垂仁天皇23年の時が第1回、659年(第37代斉明天皇5年)の時が第2回の造営とされていますが、第1回は現松江市・神魂神社あるいは現熊野神社の造営であり、第2回は現松江市・熊野大社か現八重垣神社と考えられています。

古事記によれば、第11代垂仁天皇の皇子・本牟智和気(ホムチワケ)[=前燕第2代景昭帝慕容儁(シュン)(在位:348~360年)=第12代景行]は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになりました。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮(これは、松江市・神魂神社あるいは熊野神社)」を造らせたと、脚色しています。
 杵築大社の平安時代前期までの初期[霊亀二年(716年)~724年~平安時代前期]の主祭神は、大穴持主命です。
 杵築大社の現主祭神は大国主命(匈奴系第三代九州倭国王)です。
 
島根県松江市東出雲町「出雲郷」という地名があります。ところが、この「出雲郷」は「イズモゴウ」でなく、「アダカエ」と読みます。近くには阿太加夜(アダカヤ)神社があり、これが地名の由来です。匈奴系の呼音「アダカエ」の地を新たな支配者の鮮卑族が「出雲(呼音:イズモ)郷」という新地名に変えたのですが、先住者は、新漢字「出雲(呼音:イズモ)郷」を内輪では旧呼音の「アダカエ」で呼びました。

以上のように、和邇氏応神朝廷の臣下であり、山城国愛宕郡[京都府亀岡市の丹波一宮・出雲大神宮]が祖地であった出雲臣千家の現島根県出雲地域への移住と杵築大社(現出雲大社)の創建は、「出雲の国譲り」後も依然先住者(尾張氏、匈奴)の力が強く、新たな政事支配者である「DNA源流鮮卑族」和邇氏である藤原朝の支配体制の強化を図るためです。しかし、「出雲の国譲り」前の先住者の力が非常に強く、鮮卑族和邇氏の直接支配が困難であり、また、「DNA種族」の同系統の物部氏も困難で、北方ルートから日本列島に入島した現出雲臣千家を現地支配者にせざるを得ませんでした。
 「出雲の国譲り」の実際の場所と推測される出雲二ノ宮佐太神社の神主が、後世に大伴氏系に変わったことは、興味深いことです。

(3)出雲大社に関する粉飾

 出雲大社は、その原初の由緒が隠されたために、多くの虚飾と虚像が罷り通っています。それは、杵築大社の巨大建造物に関することと、統一以前の特別でない一つの慣習を「出雲の国譲り」の怨念と結びつけた出雲大社の特別な慣習とするエンターテーナー知識人の吹聴です。
 
①出雲大社の高層建築
 日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたといいます。非常に高層の神社は、「DNA縄文人」の巨木建築様式で、匈奴・大国主の様式ではありません。実は、ヤマト朝廷が出雲の復権を阻止するために、たびたびの倒壊を復興させ、先住の「DNA縄文人」尾張氏等の財力を使わせる征服者(鮮卑族和邇氏)の政治的な意図によるものです。杵築大社以前の松江市の古神社は、普通の高さのものだけです。この方法は、日本の歴史上、徳川幕府による諸大名による大阪城の造営、江戸城造営、等に見られる政治手法です。古代の出雲大社の巨大建築は、被征服者によって懇願されたものではなく、旧勢力を疲弊させるためです。
 
②出雲大社の特別でない四柏手の慣習
  出雲大社参拝の時には、四柏手を打ちます。四柏手と二柏手との違いは「怨霊を封じるための神社」と「その他の神社」の違いではなく国家神道絶対主義とそれと相容れなかった古式神社神道主義の違いの現れです。
 現在も四柏手などの古式の柏手を続けている出雲大社や、出雲以外でも、宇佐八幡宮、弥彦神社などでも現在も行われている事、また神道の国家神道で最高位ともいうべき伊勢神宮は八開手(八拍手)で、これらを「長手」と言っている事から推定すれば、四柏手以上の柏手を打つ事こそが古代からの正式な神に対する儀礼かもしれません。「縁結び」「出雲講」などなどそれぞれの神社が社地以外でも布教活動を行い、遠隔地にも熱心な信者を集めていた事が古式作法の保存に大きな力となったと思われます。
 「四」が「死」に通じるとして、出雲大社は「大国主という怨霊を封じ込める為の神社」であるという説がありますが、事実は四柏手以上の柏手を打つ事こそが古代からの正式な神に対する儀礼です。まず、「四」の古代の読み方は「し」ではなく「よ」または「よん」です。古代においての読み方からは「死」はありえないという事です。そもそも「よん」「よ」は古代日本において聖なる数なのです。人や神の魂には四つの種類があると考えられていました。「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」です。この四つの魂それぞれに柏手を打つのが四柏手の原型だと思われます。四が聖なる数だということをしのばせる例としては、遣唐使・遣隋使の船も四艘一組なのです。危険な旅にわざわざ不吉な数字を用いるでしょうか。むしろ四という数字が縁起のよい数字だと考えられていたからこそ「縁起担ぎ」のため四艘で船出したのではないでしょうか。古代神道における「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」の四つの概念を、江戸神学は精神をつかさどる陽の気の魂(こん)と肉体をつかさどるという陰の霊気「魄(タマシイ)」の二つの概念に改めたことによると思われます。
 明治初年、国学によって理論づけされた明治政府は「神社祭式」を発布します。「神社祭式」はそれぞれ独立した教義やご利益、縁起由緒をもっていた神社神道を国家神道へと変換するのが目的でした。「伊勢神宮を頂点とする国家神道」の概念を、そしてそれに準じた祭式を新たに作り上げたのです。  
 この「神社祭式」によって伊勢神宮以外の神社での参拝の作法として「二柏手」が正式なものとして定められました。金光教や天理教といった幕末に発生した「教派神道」の神前参拝のときの柏手も「四柏手」です。また、この「四柏手」を根拠にして成り立つ大国主・怨霊説は、非常に疑わしい信用できない説です。エンターテーナー知識人には、注意しましょう。
 
③出雲大社の注連縄の結び方は特別でない「左本右末」
 出雲大社の注連縄の結び方は「左本右末」といい、全国の神社のほぼ一割がこの形式を踏襲しています。出雲大社型の左本右末型注連縄を持つ代表的な神社としては、愛知県津島市の津島神社(祭神は牛頭天王つまりスサノオ)、同じくスサノオ(クシミケヌ)を祀る熊野大社、大物主を祀る三輪山の大神神社、愛媛の大三島町にある大山祇神社などが挙げられます。少数の結び方ですが、大国主怨霊説を振りかざす人々のいうような決して出雲大社だけのものではありません。
 注連縄の原型は蛇の交尾の形でもあります。これは吉野裕子氏の「蛇」(講談社学術文庫)に上げられていた説で、蛇の交尾の写真をみるとまさしく注連縄そのものです。注連縄が蛇の交尾を神格化したものであれば、左右の上位意識が成立する前に右本左末の形式をしていて(つまりは、もともと左右のどちらが上位であるかとか、正式な注連縄の在り方なんてものができる前から、あの形であったということ。)、出雲大社は、その古祇を踏襲したに過ぎないと考えられます。
 吉野裕子氏の「蛇」日本の蛇信仰という本によれば、蛇信仰は世界各地にその存在を残しています。

④大国主の神座は特別でない本殿正面向きでなく西向き
 出雲大社は、神座が参拝者へ向かって正面を向かず横を向いている(つまり西向きである)というのがあります。出雲大社本殿に祭られている大国主命は参拝者側から見ると横を向いた格好になり、参拝者の正面には「客座五神」が正面(参拝者の方)を向いて鎮座しています。
 大国主が横を向いているのと同じで参拝者に対して横を向いた形の神座をもち、しかも出雲國造が直接祭祀する神社は他にもあります。出雲にある「神魂神社」は、宍道湖の東西に参拝者に対して横向きで鎮座している神が居ます。ただしこちらの祭神イザナギは出雲大社とは逆で東向きだそうです。鹿島神宮の神座の配置も大社造の神座に似ています。
 出雲大社は大社造りであって、天孫の鎮座する神社とは、根本的に建築思想もその伝統も違うものです。大社造は、アマテラスの神明造やその他の神社建築とは根本的に違います。大社造にしても、鹿島神宮にしても古くから伝えられてきた建築様式を維持しつづけてきたと考えるべきではないかと思われます。
 「客座五神」は、大国主のいるさらに奥の方に五神の神座は正面を向きならんでいます。大国主の正面奥側に大国主に向かって横(つまり参拝者側・南)を向いて並んでいるのです。向かって左から、天之御中主神、高御産巣立日神、 神産巣立日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の五神です。
この神座の配置から「客座五神」こそが参拝をうける対象であると考え、大国主は、いわば「囚われの神」であるとして、怨霊説に広げていくのですが、これもどうかと思います。
 客座五神とは、古事記において神々の一番初めに登場する「別天神」と同一であり、何もないところから現れ出でる神で、森羅万象全ての元です。大国主や素戔嗚、天照、月読などの人格神ではなく「世界と人間、神の根本」を象徴している神のことです。これらの神名は古事記では天孫の祖先神としてえがかれる一方(タカミムスビ)、出雲の祖先神(カミムスビ)としても現われています。他の三柱の神は天神地祇とそれを結ぶ柱を表しているとも考えられています。これらの五神の神名は世界の要素を象徴する神名であり、出雲族や天孫族の祖神というよりむしろ、古代人の世界観を表すものではないかと思われます。ということは出雲・天孫のどちらもが崇めていた「自然神」であるのではないでしょうか。五神は出雲大社や伊勢神宮といった神社建築物の大柱にも見たてられているのかもしれません。そして、神統譜上の系譜から考えれば、これらの神の神格は、決して天孫族とその被支配民だけが崇めるものでなく、日本列島に住む人々にとって普遍的な自然信仰(精霊信仰)の対象です。

つまり、「天孫族がまつる五神」によって大国主の怨霊を封じているとはいいきれないということです。むしろ見方を変えれば大国主の正面に居並ぶ五神は大国主によって祭祀されている支配されているという形にもとれるのです。
 現在の韓国の会食時のマナーとして、目上の人とお酒を飲む時には正面を向かず、体と顔を横向きにして飲みます。出雲大社はこの流れでしょうか。
<以上>