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2-4.第40代天武(古事記)と第44代元正(日本書記)の系譜系統変更の正統化、2-5.記紀の人工皇統譜の構成構造



2-4.二つの国史が必要とされた由縁は第40代天武(古事記)と第44代元正の倭国『大后』系(日本書記)のそれぞれの系譜系統変更の正統化

古事記と日本書記という重複した国史が二つ編纂されたということ自体が、非常に異常なことです。最初の古事記はすぐ国史から除外され、一つの国史とされたのは全うですが、国史となる日本書記には、編纂者と編纂経緯を記した序文がない正統性が疑われるものです。これには、それ相応の理由があるにもかかわらず、根拠究明が蓋をされました。

以下は、現時点、もっとも合理的と考えられる根拠です。記紀が扱ったそれぞれの最終『大王』は、直接の継承元を示しています。

記紀は、「DNA匈奴金氏」による高句麗朝を基軸とするものです。高句麗は、朝鮮半島の盟主的存在で、属国的新羅王族、かつ、金官加羅国系王子庶子の出自者(第16代仁徳、第26代継体)が高句麗金氏朝の緒となり、統一新羅の原動力の役割(金官加羅国・金庾信)を果たしました。

先ず、古事記は、親新羅の金氏倭国亡命政権の「DNA匈奴金氏」である第40代天武[=高句麗宰相・将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)]が、「DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者に対抗して権威を示すために編纂発議した皇統譜です。新羅檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の金官加羅国末王(=第26代継体)の後裔で、高句麗宰相であった第40代天武は、継承元として第33代推古B額田部皇女を選んだ古事記の編纂を命じました。第33代推古B額田部皇女は、第33代推古A達頭[=聖徳太子]の身代わりで、第31代用明(ヨウメイ)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)]の倭国『大后』・高句麗王妃で、第40代天武の祖母です。第31代用明(ヨウメイ)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)と高句麗・淵蓋蘇文が弑逆した第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)は、「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」・Y-DNA「D1b2系」である倭国部族同盟盟主で、第40代天武の継承元にはなりえません。達頭(=聖徳太子)の子で、淵蓋蘇文の叔父である第34代舒明(ジョメイ)=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=金官加羅国・金舒玄、第36代孝徳(コウトク)=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)=高句麗宰相・将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)、自分の皇位を簒奪した「DNA原始鮮卑族和邇氏」である第38代天智(テンジ)=新羅波珍飡(4等官)金善品=百済・翹岐(ギョウキ)王子と追嗣(1870年)された第39代弘文(コウブン)は、継承元に適していませんでした。

次に、日本書記は、新羅・尾張氏外戚の女帝・第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と新羅系の「DNA原始鮮卑族和邇氏」である藤原不比等が編纂責任者です。第44代元正の母の藤原宮子は、新羅真骨第4代首主額田王と藤原不比等の子です。藤原宮子は、第42代文武(在位:683~707年)の倭国『大后』の実質待遇を受けましたが、『大后』称号は得られませんでした。新羅真骨第4代首主額田王と第38代天智[=新羅波珍飡(4等官)金善品=百済・翹岐(ギョウキ)王子]の子の第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)は、新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)の新羅王妃・慈儀王后です。女帝・第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]は、女帝・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)に比べ、血統が著しく劣り、皇位正統性が欠けています。古代においては、母系の血統こそが正統性の証しです。女帝・第44代元正(ゲンショウ)にとって、継承元が第40代天武は意味がありません。額田王→藤原宮子と「DNA原始鮮卑族和邇氏」である第38代天智→藤原不比等の直接の継承元に相応しいのは、女帝・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)に対抗できる第38代天智と蘇我遠智娘(オチノイラツメ))=(推測)百済王妃・間人(ハシヒト)皇女との子の第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)です。第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を女帝・第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)の継承元として日本書記が編纂されました。

日本書記は前文は最初から無かったと考えられます。書けなかったのです。「DNA原始鮮卑族和邇氏」という国体に関することが基本変更されています。溝口睦子(「アマテラスの誕生」 岩波新書 2009年)によれば、日本書記の「神代上」の最後に挿入された<大年神-羽山戸神の系譜>は、古事紀になく、日本書記神代上の最後に差し挟まれた異種の形態をもつと論考しています。ペルシャ人混血の「DNA原始鮮卑族和邇氏」である「羽山戸神」の系譜こそ、藤原氏の源流です。藤原氏は「ペルシャ系のスキタイ/サカ族(塞族)である」という説があります。藤原氏の源流は、洛東江上流(後の伽耶の熊成/熊川)の火自振(ヒジフル、日出原)で、西暦561年、新羅の第24代真興王(在位:540~576年)[=第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原王/安岡上好王(在位:531~545年)]によって滅びました。火自振(ヒジフル、日出原)の古地名は、三世紀に見られる「不斯(フシ)」です。「ヒ」とは「日」のこと、「ブル」は「原(バル、注:小さなレベルの国の意)」で、藤原と同音同義です。

藤原不比等の系図一巻のみが消滅されても論理的事実を明らかにすることは可能なのです。藤原不比等は、父が新羅本貫の第38代天智[=新羅波珍飡(4等官)金善品=百済養太子・翹岐(ギョウキ)王子]、母が尾張氏外戚系新羅真骨第4代首主額田王[新羅第29代武烈王の新羅王妃・文明王后、第37代斉明A淵蓋蘇文の倭国『大后』]で、天武系と天智系との調整役、倭国と統一新羅との調整役としては適任者です。「DNA原始鮮卑族和邇氏」である藤原不比等は、母系の系統の「DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である中臣鎌足の養子となりました。

平安時代に藤原朝となったが故に、日本書記が国史となったのです。日本書記は、720年撰上されていますが、最古写本9世紀までのある期間まで未完成扱い、国史未扱いであったことも考えられます。少なくとも、第50代桓武天皇(在位:781年~806年 )の在位期間は未完成扱い、国史未扱いであったと考えられます。

以上、二つの国史が必要となった由縁です。

2-5.記紀の人工皇統譜の構成構造

記紀の皇統の基軸は、男王系の「DNA匈奴金氏系」である新羅金氏始祖第13代とその後裔高句麗第19、21、24、26代に、「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖を飾るために関係する高句麗および百済の王朝を合体させて、記紀の皇統の基軸としました。

高句麗王は、朝鮮半島の盟主的存在です。
倭国『大后』に関係する王は、王に捏造した人もいますが、いずれも実在者です。いわゆる欠史八代と言われているような非実在者はいません。
 
(a)記紀の倭国『大王』の基軸系譜の男王系の「DNA匈奴金氏」である新羅金氏始祖の第3代安寧とその後裔の金氏高句麗王(第19、21、24、26代)の系譜
・新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧。
・[新羅13味鄒尼師今の甥]高句麗第19代広開土王(在位:391~412年)=第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)。
・[高句麗19広開土王の曾孫]高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=第26代継体=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官加羅国第10代(末王)金氏金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年)。
・[第26代継体の継嗣]高句麗王第22代安蔵王(在位:498~531年)=第27代安閑。
・[第27代安閑の継嗣]高句麗第23代安原王(在位:531~545年)=第28代宣化=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)。
・[第26代継体の金官加羅国系庶子]高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)。
・[第29代欽明の継嗣]高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第34代舒明=百済第30代武王(在位:600~641年)。
 
(b)記紀の倭国『大王』のもう一つの基軸系譜は倭国『大后』の父系祖に関係する皇朝
「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖を飾るためのもう一つの基軸系譜とする倭国『大后』の父系祖に関係する皇朝は、以下です。

①父系祖和邇氏が関係する高句麗倭人系古志朝(高句麗第15~18代=倭王第6~9代)。
②父系祖和邇氏が関係する盟主の百済鮮卑族慕容部垂仁朝(百済第11~14代=倭王第11~14代)。
③父系祖和邇氏には二つの分岐系統があり、それぞれに象徴祖神をおいて王朝化した[捏造王朝]百済和邇氏応神朝(百済第15~18代=倭王第15、17代)。
④父系祖尾張氏外戚(新羅・真骨正統)の新羅および百済の金氏反正朝(百済第19~21代=倭王第18~20代)。
⑤父系祖和邇氏の直祖の新羅・朴英失(ヨンシル)=新羅・朴守知(摂政・只召太后の情人)を百済第22代牟(ム)氏文周王(在位:475~477年)に捏造した百済和邇氏雄略朝(百済第22、23代=倭王第21~22代)。
⑥伴侶の高句麗物部朝(高句麗第25、27代=倭王第31、35代)。
 
父系祖和邇氏の二つの分枝系統とは、居住していた漢江流域の京畿辰韓に沸流百済が侵攻した時に、熊津馬韓(後の百済熊川)と洛東江上流(後の伽耶の熊成/熊川)の二つに分岐しました。熊津馬韓(後の百済熊川)の分枝系統の象徴祖神が第15代応神[百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位:392~405年)であり、洛東江上流(後の伽耶の熊成/熊川)の分枝系統の象徴祖神が第17代履中[=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)]です。

和邇氏の分枝系統の洛東江上流(後の伽耶の熊成/熊川)は後に新羅に併合されましたが、この分枝の出自が朴英失=第21代雄略=[捏造王]百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)であり、第38代天智=新羅波珍飡(4等官)金善品=(養子王子)百済・翹岐(ギョウキ)王子、藤原不比等です。
 
(c)皇位正統性を補うために継承元として付加した倭王『大王』 
①南匈奴および高句麗休氏ニニギ族朝の時代に「DNA匈奴金氏」の宗主であった「DNA匈奴休氏ニニギ族」である国祖の初代神武B憂位居(ユウイキョ)
  「DNA匈奴金氏」である新羅王金氏始祖の新羅第13代味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)[=第3代安寧]は若い時代に高句麗王に臣属していたこともあって、皇位正統性を補う必要があり、継承元に「DNA匈奴休氏」である神武B憂位居(ユウイキョ)[=高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)]を置きました。神武B憂位居(ユウイキョ)は、扶余族盟主の王位正統性を有しています。そして、第3代安寧を神武朝(高句麗第11~13代=初代神武B、2綏靖、4代懿徳)の一員に偽装しました。

②古志朝(第6~9代)の継承元は第11代垂仁の宗主であった「DNA匈奴」である第5代孝昭(コウショウ)[=前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰 (在位:310~318年)]
 男王の継承元の初代神武B憂位居(ユウイキョ)とバランスをとるために、「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖が関係する「DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である高句麗古志朝の継承元は、鮮卑族慕容部第11代垂仁の宗主であった「DNA匈奴」である前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰 (在位:310~318年)を第5代孝昭(コウショウ)にしました。
 
③垂仁朝(第11~14代)の継承元は国祖としてヤマト初統一をした「DNA匈奴金氏」である第10代崇神[=ニギハヤヒ=第2代大国主・大歳]
高句麗高志朝と並立している百済垂仁朝の継承元は、ヤマトを初集権化部族同盟した盟主の一人の「DNA匈奴金氏」であるニギハヤヒ=第二代大国主・大歳=新羅葛文王骨正を第10代崇神とし、初代神武B憂位居(ユウイキョ)と共に国祖としました。
 
④「DNA原始鮮卑族和邇氏」の象徴祖神の第15代応神と第17代履中
「DNA原始鮮卑族和邇氏」を象徴する祖神として、百済王位の空位期(375年~420年)を利用して第15代応神[=[捏造王]百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王在位:392~405年)]と第17代履中[=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)を置きました。

父系祖和邇氏の分枝の洛東江上流(後の伽耶の熊成/熊川)は第26代継体によって新羅に併合されましたが、この分枝の出自が朴英失=第21代雄略=[捏造王]百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)であり、第38代天智=新羅波珍飡(4等官)金善品=(養子王子)百済・翹岐(ギョウキ)王子、藤原不比等です。
伽耶の熊成/熊川は、宇山国(現鬱陵島で、第26代継体時代に新羅に併合された)系和邇氏と秦氏が深く親交した地です。秦氏が、宇治神社、宇佐神宮[注:宇佐(usa)の語源は宇山(usan)]を深く造詣した背景です。

倭国『大后』の父系祖であり、数多倭国『大后』を輩出した和邇氏が第26代継体時代から突然消えたのは、和邇氏が朝鮮半島に地盤を置いていたので不思議なことではありません。新羅と百済の中で存続したと考えられます。

「DNA原始鮮卑族和邇氏」を象徴する祖神の第17代履中[=[捏造王]百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)は、藤原朝の象徴祖神であるので、後世付け加えられたこともあり得ます。
 
(d)皇朝の継承正統性を示すために前皇朝と次皇朝を繋ぐ役割の『大王』、あるいは、『大后』を挿入
記紀の皇朝の継承正統性を示す繋の役割をしたのは、古志朝から垂仁朝への第9代開化、垂仁朝から第16代仁徳への第13代成務、垂仁朝から応神朝への神功皇后、雄略朝から継体朝への第25代武烈、雄略朝から継体朝への重祚第24代仁賢(ジンケン)[=新羅・朴英失(新羅・花郎世紀)]の倭国『大后』手白香(タシラカ)皇女、継体朝から欽明朝への第27代安閑(アンカン)の倭国『大后』春日山田皇女[=手白香(タシラカ)皇女]です。
 
(e)和邇氏応神朝と和邇氏雄略朝の倭国『大王』と百済王は百済王の空位期を利用して捏造
百済王の空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)を利用して、「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖を粉飾するために、和邇氏応神朝(第一期)と和邇氏雄略朝(第二期)の倭国『大王』と百済王を捏造しました。 
   
百済和邇氏朝が二つに分離したのは、百済王の空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)が分離したことによります。
 
(f)「DNA縄文人」である高句麗物部朝を「DNA匈奴金氏」である欽明朝に改ざんして繰り込む
「DNA匈奴金氏」である第40代天武が「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]を暗殺した不都合な事実を隠すために、高句麗物部朝は蘇我氏欽明朝に改ざんして繰り込みました。そして、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=第31代用明(ヨウメイ)と同一人の蘇我馬子(551年生~628年歿) と高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷と同一人の蘇我蝦夷を記紀は別人として扱いました。
 
(g)男王『大王』の不都合な出来事を隠すために『大后』を「女帝」に改ざん
男王『大王』の不都合な出来事を隠すために、伴侶等の倭国『大后』を身代わりの「女帝」に改ざんしました。
天上の非政事統括者である『大后』が、地上の政事統括者である男王「大王」になり下がることは、論理的にあり得ないことです。
<2-5以上>