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2-6. 倭国統治体制、2-7.倭国『大后』は天上の第一位非政事統括者、2-8.「DNA縄文人」は地上の政事統括者


2-6.倭国統治体制の実体は母系制・群婚の倭国『大后』と父系制の倭国部族同盟盟主『大連』との同位共同統治

倭国の中核となる倭国統治体制は、二つの基本条件と見出された多くの記紀が隠蔽・改ざんした論理的事実から、記紀の記述とは全く異なり、以下のように考察されます。

倭国の統治者は、伽耶から渡来した倭国と四韓(高句麗、百済、新羅、加羅)の天上の第一位非政事統括者(祭祀、継嗣出産・生育、非政事統括者の継承者の指定権、政事統括継承者の指定権・承諾権・婚姻者指定権、後宮管理、母系の財産相続権、等)の「母系DNA縄文人混血春秋時代呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である母系制・群婚の倭国『大后』と、日本列島に約4万年前から先住していた地上の倭国政事統括者の「DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」である父系制の倭国部族同盟盟主『大連』との同位の共同統治です。

倭国と四韓を非政事統括した『大后、女王』は母系系譜を、政事統括した倭国『大連』と四韓の『大王』は父系系譜を、それぞれ独立に維持し、共同為政者が同位で共存した世界でも稀有な例です。

倭国は、同位の倭国共同統括者を基軸として、王妃[=倭国『大后』]と母系制によって倭国で生育中の王継嗣を護衛する倭国居留地に常住する四韓の派遣者と、倭国各地に居住する弥生時代以降からの渡来した多くの部族(九夷)からなる部族同盟です。

倭国部族同盟の朝廷は、いわゆるヤマト朝廷後期(第16代仁徳以降)の物部氏と匈奴金氏系部族と原始鮮卑族系部族を中心とする畿内の大阪府の樟葉(クズハ)府/楠葉(ナンバ)府→難波(ナンバ)府、尾張氏と借用昔氏(&金氏)匈奴系大国朝部族を中心とするいわゆる九州王朝の筑紫の太宰府、朝鮮半島統治出先府の加羅の任那府がありました。その後、四韓の渡来系の同盟部族の朝廷の中心は、匈奴金氏系部族から藤原朝の鮮卑族和邇氏系に移ります。

倭国時代のヤマトは、非政事統括した倭国『大后』の拠点地域で、倭国と四韓の男王継嗣の生育拠点であり、「DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者の親衛軍と四韓の王妃護衛軍が居住する地です。これが、願望によって生まれたヤマト男王王権の実体です。

2-7.倭国と四韓の天上の第一位非政事統括者の倭国『大后』


倭国『大后』は、春秋時代越(紀元前600年頃~紀元前306年)の第一位祭祀女王の後裔で、扶余族盟主の高句麗王と百済王にとって王権の人的象徴でありました。それで、高句麗と百済は倭国と宿命的・永続的な対婚族同盟をしました。これが、倭国『大后』が倭国と四韓の天上の非政事統括者となり、群婚した由縁です。

倭国と四韓の天上の第一位非政事統括者である倭国『大后』は、母系制と群婚をし、祭祀、継嗣出産・生育、非政事統括者の継承者の指定権、政事統括継承者の指定権・承諾権・婚姻者指定権、後宮管理、母系の財産相続権、等の大きな権限をもっていました。

四韓の王継嗣は、母系制により倭国で生育されました。スサノオやアカルヒメが言うように「倭国は(四韓の)母の国」なのです。通説の四韓の王子の人質説は間違いです。

倭国『大后』には二つの系統が並存し、①弥生時代から記紀編纂まで続いていた「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系モン族倭人」・Y-DNA相当「O1b2a1系」である「トベ」系統[注:トベの形成漢字は戸畔、戸弁、戸辨、戸辺、戸邊、戸邉、刀俾、戸部、富部、砥部、土部、等多数]と、②古墳時代から第16代仁徳天皇まで続いた第一位祭祀女王の後裔の「母系DNA縄文人混血春秋時代越系ヤオ族倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である「戸売(トメ)」系統がありました。

『大后等』の人数をみると、「トベ」系統が圧倒的に多い約9割以上です。日本列島に先住していた「DNA縄文人」は、弥生時代から入島した「母系DNA春秋時代呉系モン族倭人」である「トベ」系統とは通婚同盟をし、後から入島した「母系DNA春秋時代越系ヤオ族倭人」である「戸売(トメ)」系統とも通婚同盟をしました。
「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』の系譜が終焉した後、「トベ」系統の倭国『大后』が第一位祭祀女王の文化を継承しました。

倭国『大后』の外戚氏族には、「DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人」である尾張氏と大伴氏と物部氏、「DNA原始鮮卑族」和邇氏、「DNA匈奴」金氏の五つがあり、伴侶でもあります。

倭国『大后』は、流浪のトラウマがあり、安全な倭国と原国の加羅・新羅の二拠点国体制をとりました。ほとんどの倭国『大后』に新羅名を見出すことができたように、倭国『大后』族と加羅・新羅王妃族は同体家族です。新羅は高句麗王と百済王との通婚の出先国であるとも言えます。

記紀の「二つの顔の倭王」の原初は「二つの顔をもつ倭国『大后』」の模倣で、倭国『大王』が海を渡って高句麗王や百済王になったのではなく、記紀が高句麗王や百済王を倭国『大王』に仕立てたものです。四韓は、他国からの日常的侵略状況に置かれており、倭国に来島して統治する余裕はありませんでした。また、四韓から追放された王は、倭国ではなく、中央アジアやペルシアに永住移動しており、これを裏付けています。

表4.「トベ」系統の『大后等』の系譜と見出された新羅名

注:〇数字は、相対的な世代数。

表5.「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』の系譜と見出された新羅名

注:〇数字は、相対的な世代数。

表6.継体朝以降の「トベ」系統の『大后等』の血縁系統図 ∶修正中

(注)〇数字は相対的代数。

2-8.倭国の地上の政事統括者は「DNA縄文人」である倭国部族同盟盟主『大連』

倭国の地上の政事統括者は、縄文時代以来圧倒的な人口、財力、軍事力をもっていた「DNA縄文人」である倭国部族同盟盟主『大連』で、物部氏、大伴氏、尾張氏の三氏族のみが資格をもち、現在まで万世一系で続いています。この三氏族は、伴侶である四韓の王妃と王の親衛軍を管掌して実権をもち、四韓は倭国との二重政事構造になりました。

倭国は、倭国部族同盟盟主『大連』の資格を有する物部氏、大伴氏、尾張氏と「母系DNA縄文人混血春秋時代呉越系倭人混血縄文人」である倭国『大后』とが領有する地域から成っています。古代日本での新羅系とか百済系とか高句麗系とかの地域呼称は適当ではなく、物部氏(但馬、吉備、出雲、播磨、等)、大伴氏(紀、但馬、出雲、阿波、等)、尾張氏(九州、出雲、古志、尾張、関東、等)、『大后』(吉備、ヤマト葛城、ヤマト山城、等)の領地国からなっています。高句麗と百済が滅亡しても新羅の出自である「DNA匈奴金氏」の王統と「DNA原始鮮卑族」や九夷の土豪は、統一新羅から排除・殲滅されることがないことは、その後の朝鮮半島の歴史が示しています。
 これらの領有地域は、「DNA縄文人」である天皇の賜姓(シセイ)氏族である平氏、源氏、平氏系北条氏、源氏系足利氏、源氏系新田氏、源氏系徳川氏、等の武家統領に引き継がれ、幕藩体制の元になっています。織田氏(「Y-DNA「O1b2系」説」)は、「DNA縄文人」の母系氏族の可能性があります。豊臣氏(「Y-DNA「C1a1(M8)」説」)は、約4万年前に狩猟遊牧民の「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a系」と共に少数の漁労・農業系の「DNAツングース系」・Y-DNA「C系」が南方島嶼(トウショ、台湾と中国の間の沈んだ大陸)から日本列島に来島した末裔の可能性があります。

「DNA縄文人」である天皇の賜姓(シセイ)氏族の系統である武家政権が、天皇にならなかったのは「DNA縄文人」の宗主が天皇であったからです。

現在、藤原氏の上級摂家は、「DNA縄文人」とする天皇の父系血統です。第107代後陽成天皇(在位:1571年~1617年)の男系12世子孫の近衞文麿、伏見宮家は、Y-DNA「D1a2a1系」です。

表7.物部宗本家『大連』関係の系譜

 (注)〇数字は、世代数。

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