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2024.7.15<新版>4-3.倭国前史


4-3.倭国前史

4-3-1.倭国部族同盟統括者の「DNA縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏の概要

  「DNA呉越系倭人混血縄文人」族は父系制ですが、「母系DNA呉越系倭人」である母系の氏族名とトーテムも使っていました。つまり、父系だけでなく母系からも考えることが肝要です。
   日本列島統括者は、圧倒的な人力、兵力、財力、輸送力、情報伝達力をもっていた「DNA呉越系倭人混血縄文人」で、尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族に限られ、皆軍事も管掌していました。その筆頭統括の氏族は、尾張氏、大伴氏、物部氏と移っていきます。
   先ず、ニギハヤヒのヤマト東遷に参画したのは、尾張氏です。次に、初代神武B時代のヤマト東遷に参画したのは、大伴氏です。そして、第11代垂仁時代のヤマト東遷に参画したのは、物部氏です。 
    尾張氏が最初の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である倭国部族同盟盟主であったと考えて良いと思われます。初代神武B時代のヤマト東遷の時に敗れた尾張氏は、大和から追放され、日本海沿岸北部の古志、関東、新羅に拠点を移しました。
     物部氏の時代が長く続きましたが、親新羅の第37代斉明A淵蓋蘇文の『大后』と第38代天智の『妃』となった新羅真骨正統第4代首主・額田王(37斉明Aの、38天智の妃)から、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)まで、尾張氏外戚の時代になりました。

4-3-2.倭国鮮卑族の象徴神の「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」である初代神武A八前(ヤサキ)氏脱解(タレ)

   「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」と「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」は、弥生時代に日本列島に渡来した二大勢力です。
    1~3世紀(弥生時代後期)の島根県・出雲地域には、南方揚子江と北方黄河との融合漢族(鮮卑族)系と北方黄河の漢族(匈奴)系の2大勢力がいました。
    1983年に発見された荒神谷遺跡(200~250年頃)から発見された中国産原材料(紀元前200年頃製造)の358本の銅剣、銅鐸、銅矛や、1996年に発見された賀茂岩倉遺跡(3世紀頃)の史上最多の39個の「入れ子」状態を含む銅鐸から、3世紀頃に出雲の地を征服した部族がいたと考えられます。銅鐸の製造時期は、いずれも弥生中期、紀元前1世紀から1世紀前半頃に作られたもので、弥生後期のものは含まれていません。銅剣、青銅器など江南文明の特徴が濃いです。
   
北方系と南方系の融合漢族(鮮卑族)系は、特異な方形の四隅突出型墳丘墓文化をつくり、日本海沿岸一帯に広めていました。北京市周辺に見られる「DNA鮮卑族拓跋部」解(ヘ)氏・Y-DNA「O2a2b1系」は、四隅突出型古墳です。四隅突出型墳丘墓は、バイカル湖周辺、中国東北部で見られます。高句麗の最初の都があった中国東北部の桓仁県でも見られます。北朝鮮が起源地だという説もあります。韓国では四隅突出型古墳は未発見です。
    韓国では、金海市の王陵級である金海(キメ)大成洞(テソンドン)古墳群から現中国東北地方の鮮卑族系統の銅椀(銅製の器)と銅鈴(青銅鈴)、殉葬人骨などが確認されました。91号木槨墓は、4世紀第2四半期築造と見られ、墓の規模と出土遺物からみて王級墓に該当し、龍文金銅辻金具、金銅鈴など慕容鮮卑系の遺物が出土しました。88号墳は4世紀第3四半期築造とみられ、巴形銅器2点、銅鏃など倭系の遺物が出土しました。
    国内の四隅突出型墳丘墓の初期のものは、1969年(昭和44年)に確認された島根県邑南町瑞穂の順庵原(ジュンナンバラ)一号墳です。北陸地方では、1974年(昭和49年)に富山市杉谷の杉谷4号墳が確認されたのが最初です。鳥取県淀江(ヨドエ)町と大山(ダイセン)町にまたがる四隅突出型墳丘墓のある妻木・晩田(ムキ・バンダ)遺跡は、1世紀始め頃から3世紀末に栄えました。3世紀前後の時期では、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)・2号墓・4号墓・9号墓、小型墓として青木・中野美保・西谷1号・6号墓と安来市の荒島墳墓群(宮山、仲仙寺、大型として塩津山6・10号墓、小型墓としてカワカツ墓)や鳥取県の西桂見墳丘墓が代表的大型墳丘墓です。

金属業の先駆けの濊(ワイ)族[倭名はヤ(八/矢/夜)族]・Y-DNA「O1b1系」は、遊牧狩猟民ではありませんが、金属資源を求めて日本列島の広い地域に居住していました。ヤ(八/矢/夜)族は、国家的志向を望まず、「DNA源流呉系倭人」や「DNA縄文人」や「DNA源流匈奴」野(ノ)族や「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と共存しました。ヤ(八/矢/夜)族の祖神は火と山の神であるカグツチで、愛宕神社として全国的にあります。
 「DNA濊」ヤ(八/矢/夜)族は、出雲では「DNA源流呉系倭人」雲(=蛇)族と同盟して八雲(ヤクモ)族、但馬では「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」と同盟して八前(ヤサキ)族となったと推測されます。
    扶余族の盟主であった濊族の伴侶の越系「戸売(トメ)」系統は、出雲と但馬の両方を拠点とします。

 記紀には、「DNA匈奴」系の祖神である初代神武B憂位居(ユウイキョ)[=高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)]がいます。しかし、「DNA鮮卑族」系の祖神がいないのは不思議なことです。
 小林恵子は、倭国但馬で生まれ育った高句麗第3代(解氏)大武神王脱解(在位:AD18~44年)=辰韓第4代昔(ソク)氏脱解(タレ)尼師今(ニシキン、王の通称)(在位:AD57~80年)=住吉神社祭神・底筒男命がもう一人の「DNA鮮卑族」系の祖神である初代神武天皇Aであることを見出しました。
    本著者は、脱解は倭国・但馬で生まれた但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神と比定しました。
     
「八前(ヤサキ/ヤマエ)」は、ヤ(八、矢、夜)族=濊族の「母系DNA呉系倭人」の女性と「DNA源流鮮卑族}前(サキ)族の男性が通婚同盟したことを示す氏族名です。
   「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」の祖は、朝鮮半島、日本列島の遊牧狩猟族民族です。このY-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」は、日本で遺伝子変位した日本固有の遺伝子です。
   「DNA源流鮮卑族」は、南海ルートでの日本列島系(推測:「DNA源流鮮卑族前族」・Y-DNA「O2a2a1a1b」)と北回りの大陸系での龍城国(推測:「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a」)とが山東半島で分岐したと推測されます。
    新羅昔氏は、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族の一部が日本列島から朝鮮半島に移動したもので、新羅の「昔」と倭国の「前」は同意語です。
 「三国史記」には、新羅王第四代昔脱解(ソコドケ)には、「脱解(ダレ)、本(モト)、多婆那(タバナ)国の所生なり。其の国は倭国の東北、一千里に在り。」という記事があります。多婆那(タバナ)国は、日本では兵庫県但馬地域、韓国では済州島の説があります。
 鮮卑族初代神武A前(サキ)氏脱解(タレ)は、倭国で生まれるも、高句麗王と新羅王になりました。
 紀元前19年頃、「DNA鮮卑族拓抜(タクバツ)部」・Y-DNA「O2a2系」である高句麗王初代解氏朱蒙(シュモウ)/雛(スウ)の派遣軍が来島しました。朱蒙が出雲勢力を滅ぼしたので、タバナ国(丹波)も朱蒙に臣属しました。
    紀元前7年、脱解はタバナ国(丹波)で生まれます。高句麗第3代大武神(タイブシン)脱解(在位:AD18~44年)は、脱解の名が示すように鮮卑族拓跋部解(ヘ)氏の養子で、血筋は「DNA鮮卑族拓抜(タクバツ)部」・Y-DNA「O2a2系」の近縁種族の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」です。脱解は、母がタバナ国の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」葛城氏・Y-DNA相当「O1a2b系」です。脱解とは解氏を脱する意であれば、父は朱蒙/雛(スウ)でないかもしれません。
   「DNA縄文人混血呉越系源流倭人」の出雲勢力の多数が、朱蒙/雛(スウ)の派遣将軍脱解の攻略から逃れるために、島根県出雲地方から北上(但馬、北陸)したと推定されます。この時の脱解の軍隊の「DNA源流匈奴」熊族は、その後出雲に定住しました(松江市熊野神社)。
    紀元前、脱解は、「DNA縄文人混血呉系倭人」ナガ族が建国した現福岡市・早良(サガラ)国を破り、奴(ヌ)国を建国しました。敗れたナガ族は、新羅(辰韓朴氏王統)、畿内(末裔長髄彦、葛城氏)、等に移動しました。
 「DNAスキタイ混血匈奴」坂族が辰韓そして北九州筑紫に侵入したので、脱解は北九州の奴国を去り、朝鮮半島に移動しました。脱解は、朱蒙/雛(スウ)に服属し、解氏をもらって、朝鮮半島に移動し、龍城国(または黄龍国、平壌の東側)に住みます。
   紀元前、日本列島から朝鮮半島に移動した脱解は、沸流(フツ)も住んでいた大同江下流の龍城国(または黄龍国、平壌の東側)に住みました。その後、沸流(後に、沸流百済を建国)と共に龍城国を脱出し、南下しながら馬韓に入り、現ソウル近傍の漢江南岸に居住しました。
   8年、脱解は、ソウル近郊漢江南岸で、隣に居住していた新羅第2代朴氏南解(ナンカイ/ナカ)次次雄(チャチャウン/ツツオ、王称)(在位:4~24年)の娘の阿孝(アヒョ)夫人を娶り、大輔(官位の一つ)となります。そして、漢江南岸で辰韓第4代昔(ソク)氏脱解(タレ)尼師今(ニシキン、王の通称)(在位:57~80年)に即位しました。その後南下して、韓国尚州(古地名は「沙伐(サル)」)に遷都しました。
 因みに、新羅は、67年から100年まで現韓国尚州に都し、101年に昔氏集団の先住地である現韓国慶州月城に遷都しました。
 57年、脱解64歳の時、漢から辰韓王に承認されます。国名を斯羅(シラ)に変更しました。高句麗王第4代大武神が倭国の奴国王であるので漢は高句麗王の格式を重んじて「金」印を与えました。
 59年、斯羅(シラ)は、倭国と修好しました。
 「DNA源流鮮卑族前族」である高句麗王の継承者は、高句麗王第4代閔中(ビンチュウ)(在位:44~48年)、高句麗王第5代慕本(ボホン)(在位:48~53年)です。
   三国史記新羅本記では、新羅第3代朴氏儒理(ジュリ)尼師今(ニシキン)(在位:24~57年)には子がいなかったので、貴族に推戴されて「DNA源流鮮卑族前族」・Y-DNA「O2a2a系」である新羅第4代昔氏脱解尼師今(在位:AD57~80年)[=高句麗王第3代(解氏)大武神(タイブシン)(在位:18~44年)]が新羅王朝を継承します。
    日本列島の但馬から朝鮮半島に移動し、「DNA鮮卑族拓跋部」解氏朱蒙の養子となった解氏脱解は、辰韓王解氏朱蒙の時代の昔(2~3年)には辰韓は自分の国であったと主張し、辰韓では昔氏と称します。脱解の生まれた地の但馬では、辰韓の新羅漢字「昔」を倭の音韻と形成漢字に変化させて「前(サキ)」としました。
 因みに、「昔」の解字が、「廿日(ハツカ)」、「十十日(トトリ)」です。
金聖昊(キム・ソンホ)による新羅昔氏の指標地名は「牟羅(ムラ)」です。因みに、新羅和邇氏の新羅・朴英失(ヨンシル)=第21代雄略は、百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)に捏造された時には古い氏族名の「牟氏」を称しています。

4-3-3.200~250年頃、「DNA匈奴系」が出雲八雲朝へ侵攻

    松江市の田和山遺跡は、模擬戦争をして祈願する中国・楚の投石祭祀の痕跡です。春秋戦国時代の紀元前300年頃に造営された楚人の楚墓(ソボ)群の「模擬戦争をして祈願する祭祀形態:模擬戦争祭祀」の痕跡は、松江市の田和山遺跡で投石節という投石祭祀と同じ儀式習慣であると思われます。
    松江市新庄町に嵩山(ダケサン、標高331m)という山があります。嵩山は、天孫族系の大島国造の領域にある周防大島(山口県)にもあります。嵩山(スウザン、ピンイン:song-shan)は、中国河南省登封市にある山岳群で、五岳の1つの中岳です。嵩山は、羌族の信仰の対象であり、嵩山の近くに夏王朝の始祖というべき禹(ウ)王が築いたと伝えられる陽城があります。「嵩山」は、匈奴の地名指標でもあります。
     島根県仁多郡奥出雲町郡(コオリ)に「亀嵩(カメダケ)」駅があります。この「亀嵩」は、金官加羅国系匈奴のトーテムである「亀」と匈奴の聖山の「嵩山」を合体した名です。
 
荒神谷遺跡(200~250年頃)の358本の銅剣と賀茂岩倉遺跡の銅剣には、匈奴の「×」印が刻印されていました。 
     出雲国、伯耆国における北方文化系(匈奴)の旧跡には、島根県安来市荒島地域[弥生時代末期・3世紀後半頃の仲仙寺(ちゅうせんじ)墓、8・9号墓(国の史跡、十数個の碧玉製管玉が出土)]、宮山4号墓(鉄刀が出土)、米子市安養寺墓、出雲市(3世紀の西谷墓)等があります。

4-3-4.後漢時代、「DNA越系倭人」の倭の面土国王・師升

   「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である漢が「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」である新(紀元8~23年)に変わった時、「DNA呉越系倭人」・Y-DNA「O1b1系」は漢の束縛から逃れて、朝鮮半島、日本列島に移動しました。
   「面土」は、「面(メン)」がミェン族=高志族、「土(ト)」が「地」の意で、越族の土地の意です。 
     107年、「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である漢は、倭の面土国王・師升(スイショウ/スイセイ)に奴(ヌ)国金印を贈りました。破格の金印は、高句麗王族出身であり、後漢からの派遣者であることによる漢の配慮です。この金印は、後に九州の西倭王『大王』が高句王になる遠因と思われます。       因みに、国宝・奴国金印は、江戸時代1784年に捏造されたものとの説が最近強いです。しかし、「金」印の伝承は事実と思います。
    倭の面土国王・遂成(スイセイ/スション)は、「DNA越系倭人」・Y-DNA「O1b1系」である高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:53~146年)の弟で、後に、「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢側として動き、兄の高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:53~146年)から王位を奪い、高句麗第7代次大王遂成(スイセイ/スション)(在位:146~165年)に就きました。その後、家臣に殺されます。
 
「DNA越系倭人」である高句麗越朝の高句麗第9代故國川王(在位:179~197年)は、「DNA匈奴休氏」ニニギ族のウガヤフキアエズ[=高句麗第10代高氏始祖山上王(在位:197~227年)]に滅ぼされ、終焉します。

4-3-5.「母系DNA越系ヤオ族倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」である伊都国女王許(キョ/コ)氏卑弥呼

    「母系DNA越系倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」である伊都国女王許(キョ/コ)氏卑弥呼の祖の許(キョ/コ)氏は、中国江南地方の巫術(フジュツ)者の家系です。因みに、もう一人の金官加羅国始祖の金首露王(在位:42年~199年、42年生)の王妃は、インド阿諛陀(アユダ)国の王女の許(コ)氏黄玉です。
   
卑弥呼の祖は、南方文化系で、左回りの海路移動で奄美、南九州を経て、筑紫に来所しました。祖郷は中国江南地域と同じですが、卑弥呼は「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢と同盟しました。一方、朝鮮半島の伽耶から日本列島に来島した宇賀御魂命は、「DNA匈奴金氏」と同盟しました。これが、「DNA匈奴金氏」が編纂した記紀が卑弥呼を記載しなかった由縁です。

140年代頃、「母系DNA越系倭人」である伊都国女王卑弥呼は、後漢から派遣された「DNA越系倭人」である遂成(スイセイ/スション)と北九州で同盟します。
 160年頃、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族・Y-DNA「O2a1系」である堂谿(ドウコク)氏猿大海(サルノオオミ)が北九州に来島し、熊本県近辺に狗奴(クヌ)国を建国しました。180年前後の倭国大乱の誘因となります。
 「DNA鮮卑族系」である後漢は、220年に滅びます。
 210年に邪馬台国連合の盟主女王となった「母系DNA越系倭人」である伊都国女王許(キョ)氏卑弥呼(248年歿)は、「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である奴国を滅ぼしました。
 248年、女王卑弥呼の邪馬台国連合は、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族である狗奴(クヌ)国との抗争に敗れます。
 248年、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族である狗奴(クヌ)国王猿(サル)大海(オオミ)は、女王卑弥呼の妹の與止日女(ヨドヒメ)を人質として妻に迎え、その子の台与(トヨ)Aが邪馬台国盟主女王に就きます。諸説ありますが、台与(トヨ)Aは宇賀御魂命とは別人です。猿(サル)大海(オオミ)の「猿」は、新羅の別な形成漢字の「サダ(佐太=猿田)」と関係があるのでしょうか、トウチャ(土屋)族のニックネームの「猿」と関係があるのでしょうか。
 卑弥呼の「DNA越系倭人」族は、敗北後大分県宇佐に逃れ、更に奈良県葛城と三重県伊勢(伊勢神宮の伊勢の地縁)に避難移動します。奈良県葛城は後の畿内の日の本同盟の共同盟主の女王族の拠点となります。

因みに、「宇佐(ウサ、usa)」の語源は、「宇山/羽山(ウサン、usan)」です。現韓国の鬱稜(ウルルン、ウツリョウ)島は、古代名は宇山/羽山国で、新羅に併合されます。何か関係があるかもしれません。宇佐神社は秦氏と関係が深いので、秦氏は兎をトーテムとする「ウサ(usan⇒usa)族」です。八幡総本宮宇佐神宮は、当初の「DNA越系倭人」族の根拠地を征服した「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」の本拠地に変わりました。「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第15代応神と、鮮卑族慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)]の庶子の神功皇后と、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=羽山戸神=第17代履中]によって新羅より救出された秦氏が、宇佐八幡宮と縁がある由縁です。八幡総本宮宇佐神宮は卑弥呼と直接の関係がないと思われます。「秦王・秦氏系」・YO2a1b系」である秦氏とは、深い縁があります。

越人系倭国「イソ、iso(伊孑)」の転訛語は非常に多いです。以下、転訛語の一例です。
①イソ、iso(伊孑、石):伊孑志神社、伊蘇、磯(大磯)、石上神社)。
②イト、ito(伊都、伊刀、糸):伊都国、伊刀志神社、糸島郡、イトモ(伊豆毛=伊都の地→伊豆、出雲)。
③イザ、iza(伊邪/伊弉):伊邪那美(イザナミ、伊邪の尊な女の意)、伊邪那岐(イザナギ、伊邪の尊な男の意)。
④イヅ、izu(伊都):伊都志(イヅシ、伊都の地の意)、出石(イヅシ)。
⑤イワ、iwa(伊和、磐、岩):伊和神社、磐座。

4-3-6.新羅金氏朝の原初と伽耶・新羅の金氏朝の国難、および、ヤマト東遷の論理的事実

①184年、金官加羅初代金首露王は新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)を建朝

 184年に、金氏の宗主である休氏ニニギ族は、金氏金官加羅国に報復侵攻しました。金官加羅国初代金首露王[=初代大国主・スサノオ=新羅第9代借用昔氏(&金氏)伐休尼師今(在位:184~196年)]は、新羅に避難移動して、新羅朴氏から王位を簒奪して新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)を建朝します。新羅は、一時的な避難で終わると思っていたのです。

②197年頃、新羅王スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命が九州に避難移動

 197年にニニギ族ウガヤフキアエズが高句麗第10代山上王(在位:197~227年)に即位したので、新羅王スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命が九州に避難移動します。

③251年頃、ニギハヤヒと宇賀御魂命は辺境の大和に避難移動

 251年頃のニニギ族の伽耶への報復再侵攻により、ニギハヤヒと宇賀御魂命は更に安全を求めて、辺境の大和に避難移動します。これが、第一期大和東遷とヤマト初王朝の論理的事実です。
 「DNA匈奴金氏」は、本来、スキタイ/ペルシア人混血のエフタルの騎馬民族の出自で、好戦的ですが、朝鮮半島には報復侵攻する宗主の高句麗匈奴休氏ニニギ族がおり、日本列島には強大な「DNA縄文人」に挟まれ、日本列島で生き残るためには平和的な共存・共生が必要でした。これには、伴侶が「DNA縄文人」とも通婚同盟し、重要な役割をしました。「DNA匈奴金氏」である大国主族は、ヤマト東遷にあたって、平和的で戦闘せず、現在までも平和的な渡来人として好意的に受け入れられています。
 この時、ヤマト登美には、物部氏の祖の部族首長の長髓彦(ナガスネヒコ)の拠点があり、大歳は同盟しました。長髓彦(ナガスネヒコ)は、「DNA呉系モン族倭人」であるナガ族の村主(スネ)の意ですから、「DNA縄文人」である長髓彦(ナガスネヒコ)の伴侶の「母系DNA呉系倭人」である御炊屋姫が名付けた名です。この後裔が物部氏祖の宇摩志麻治(ウマチマチ)命です。「DNA匈奴金氏」である大歳は、御炊屋姫と同盟通婚をしただけで、長髓彦(ナガスネヒコ)の義父です。  
 
251年頃の尾張氏、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命の第一期ヤマト東遷を記紀はヤマトで集権化部族同盟を初樹立したと脚色しました。

④261年、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の滅亡、そして、262年頃のニニギ族同盟軍の第二期大和東遷[出雲の国譲り神話の元となる出来事]

    261年のニニギ族の報復侵攻による新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主は滅ぼされます。
 新羅王族分国の金官加羅国出自で高句麗の臣下になっていた高句麗・蜜友(ミツユウ)=新羅葛文王未鄒が、261年のニニギ族による新羅侵攻に同行した時の功により、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)滅亡後の262年に新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)に擁立されます。

262年直後に、ニニギ族の日本列島に地盤をもつ同盟軍(源流匈奴、大伴氏)は、第二期ヤマト東遷[出雲の国譲り神話の元となる出来事]をし、尾張氏、ニギハヤヒを畿内から追放します。この第二期ヤマト東遷には、神武Bニニギ族と第3代安寧は、参加していません。
    日本列島の部族同盟盟主の尾張氏の力は強く、ヤマトになかなか入れませんでした。熊野から入って成功したのは、「DNA源流匈奴」野族(注:「牛」と同音韻の形成漢字)の拠点(熊野大社)があったからです。

新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧の在位期間は、252年から290年までの金官加羅国王の空位時代に対応しています。新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今は、新羅王統譜で系統の異なる1代限りの不自然な王です。 

⑤300年頃の鮮卑族慕容部の伽耶逗留と304年に百済慕容部朝建朝、その後の慕容部同盟軍の第三期ヤマト東遷

 「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(カイ)(269年生~333年歿、大人(タイジン)即位:285年)と慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]の親子は、高句麗王族分国の大賀羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)と同盟して、高句麗第14代休氏烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波道主・谿羽(タニハ)道主命]を征服します。大賀羅国王子・天日槍は、高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安(コウアン)に即位し、高句麗呉系倭人朝を建朝します。
 300年直後に、慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)の親子は、伽耶に逗留し、力をつけて、鮮卑族慕容部を宗主とする同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)と共に、「DNA鮮卑族拓跋部」真氏(&解氏)の沸流百済第10代汾西(フンセイ)王(在位:298~304年)を滅亡させました。慕容皝(コウ)は、304年に百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)[=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]に就きます。
 その304年の後、同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)は倭国に回帰侵攻し、畿内の匈奴系から覇権を奪います。鮮卑族慕容部は、倭国には来島せず、したがって、第三期ヤマト東遷にも参画していません。アジア大陸が祖以来の地盤であり、日本列島の征服・統治は関心がなかったのです。
     
日本列島を地盤にした「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と朝鮮半島を地盤にしていた「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、「DNA鮮卑族慕容部」の第11代垂仁を宗主とし、垂仁朝時代に新文明(漢字、土木、馬、等)を吸収して日本列島で飛躍的に興隆しました。九州、出雲、瀬戸内、畿内で勢力をもっていた「DNA匈奴」系と新興の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族系が倭国各地で戦闘を展開し、畿内、瀬戸内と朝鮮半島の窓口となる博多(音韻は百済と同じペクチェ)を「DNA源流鮮卑族」系が征しました。「DNA源流匈奴」と金官加羅国分国の「DNA匈奴金氏」は、原国の九州と関東以北に支配地域を縮小しました。
 以上が、「出雲の国譲り神話」の元となる出来事です。
<以上>