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2-1.記紀の倭国皇統の「DNA種族」の分類、2-2.記紀は高句麗王と百済王を合体した人工系譜、2-3.記紀の倭王『大王』は高句麗王と百済王の付帯称号


2.「第五部 『DNA種族解析法』による倭国皇統の論理的事実」の概要

2-1.記紀の倭国皇統の「DNA種族」の分類

・①-1. 「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」
<新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)>
・初代大国主・スサノオ=新羅第9代借用昔氏伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅初代金首露王。
・第2代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅太子・葛文王骨正=第10代崇神。
・第3代大国主・事代主(兄)=新羅第11代借用昔氏助賁尼師今(在位:230年~247年)。
・第4代大国主・建御名方主(弟)=八坂入彦=新羅第12代借用昔氏沾解尼師今(在位:247~261年)。
<新羅金氏朝>
・第3代安寧:祖父が新羅葛文王骨正=第二代大国主・大歳、父が新羅葛文王金仇道。
・第16代仁徳:3安寧の弟の二男。
・3安寧の弟の長子系の反正朝:18反正、19允恭、20安康、百済第25代武寧王斯麻。
・16仁徳庶子系の継体朝:(雄略朝疑似継承:25武烈)、26継体、27安閑、28宣化、30敏達、32崇峻。
<新羅分国の金官加羅国末代王(=26継体)の後裔朝>
・第26代継体庶子の欽明朝:29欽明=蘇我稲目、33推古A達頭=上宮法王、34舒明、36孝徳。
・第34代舒明傍系の斉明=天武:37斉明A淵蓋蘇文=重祚40天武。
 
・①-2. 「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」
・神武Bニニギ朝:初代神武B憂位居(ユウイキョ)、2綏靖(スイゼイ)、4懿徳(イトク)。
・初代丹波道主・谿羽道(タニハミチ)主命:鮮卑族慕容部に臣属した神武Bニニギ朝後裔の丹波朝。
 
①-3.「DNA秦王・秦氏系」・Y-DNA「O2a1b系」
(注)「DNA秦王・秦氏系」は、2024年1月に、「DNA鮮卑族系」から「DNA匈奴系」に変更されていたのを確認した。
・秦始皇帝(嬴姓趙氏)はY-DNA「O2a1b1a2a1a1a(O-CTS6279)」。
・秦河勝(子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥・世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親など)は、Y-DNA「O2a1b1a2a1a1a1(O-F25545)」。

②「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」
(注)日本列島や朝鮮半島の遊牧狩猟部族が祖であるので「DNA源流鮮卑族」と本論では称します。日本列島を主地盤としたのは「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」と「DNA源流鮮卑族八前(ヤサキ)氏/新羅昔氏」・Y-DNA「O2a2a系」です。これに対し、中国東北部から朝鮮半島南部を主地盤としたのは「DNA源流鮮卑族和邇族/和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」で、後に春秋時代燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)に属しました。Y-DNA「O2a2b系」は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」から「DNA鮮卑族慕容部」に分枝しました。

(注)鮮卑族の近国王朝は、箕子朝鮮(古朝鮮)、漢(紀元前206年~8年、25年~220年)、新羅昔氏、北魏(386年~535年)、前燕(337年~370年)、隋(581年~618年)、唐(618年~907年)、高麗(936年~1392年)、李氏朝鮮(1392年~1897年)、大韓帝国(1897年~1910年)。
 
・②-1.「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」
・鮮卑族初代神武A八前(ヤサキ)氏脱解(タレ)=高句麗第3代大武神(タイブシン)王脱解(タレ)(在位:18~44年)=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏脱解(タレ)王 (在位:57~80年)=但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神=住吉神社祭神・底筒男命。
 
*高麗王・王建:Y-DNA「O2a2a1a1(M188, subclade-CTS201)」。
*呉延寵(海州呉氏:始祖は羅州の呉仁裕)、服部保長と服部正成先祖が伊賀国出身である播州姫路藩士・松原夏蔵:Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201, subclade-F4010.2, F1531)」。
*楚の武将、西楚の覇王と呼ばれた項羽(BC232-BC202):Y-DNA「O2a2a1a2(M7)」。
*前漢の高祖・劉邦(BC256-BC195):Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(O-F316)」。

・②-2.「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」
・垂仁朝疑似継承:第13代成務=竹内宿祢=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310年~356年)。
・応神朝:15応神、17履中。
・17履中傍系雄略朝:21雄略、22清寧、23顕宗、重祚24仁賢(=21雄略)。
・17履中系天智朝(34舒明の養子):38天智、39弘文、藤原不比等。
 (注)朝鮮半島中南部を地盤とし、辰王号を借用して使用。
 
・②-3.「DNA鮮卑族慕容部」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」
・垂仁朝:(古志朝疑似継承王:9開化)、11垂仁、12景行、14仲哀。
 (注)朝鮮半島を南下し、伽耶・新羅・百済を侵攻。前燕を建国。
  
③ 「DNA縄文人混血呉系倭人朴氏」・Y-DNA「O1b2系」:高句麗倭人系古志朝
・6孝安=高句麗王族分国の大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)、7孝霊、8孝元。
 (注)高句麗檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の大加羅国出自の高句麗呉系倭人古志朝。「檐魯(タムロ/エンロ)」を語源とする地名には「眈羅(済州)、淡路(兵庫県)」がある。
(注)古志朝の形式的継承元の第5代孝昭は、「DNA匈奴」である前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰に比定。前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰は、第11代垂仁=慕容皝(コウ)が臣族していた宗主。
(注)近国王朝は、春秋時代呉(紀元前585年頃~紀元前473年)、春秋時代越(紀元前600年頃~紀元前306年)、扶余国、高句麗古志朝、新羅朴氏朝。
 
④ 「DNA呉系倭人混血縄文人物部(蘇我)氏」・Y-DNA「D1a2a系」:高句麗物部(蘇我)朝
(注) 「DNA呉系倭人混血縄文人」である8歳の物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子は、「DNA匈奴金氏」である蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)を実父とされて『大連』物部入鹿により高句麗王に擁立された。これが悲劇の原因となった。記紀では物部(蘇我)朝を蘇我朝に改ざんして繰り入れた。本書では、蘇我氏と物部(蘇我)氏とを区別表記した。
 
・31用明A=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551生~628年歿)=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)。
・35皇極A=物部宗本家15代物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)。
・物部宗本家16代・高句麗太子・物部(蘇我)入鹿。
 
⑤『大后族』:「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」
⑤-1.「母系DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA相当「O1b2a1a1(CTS713)」

・ 記紀編纂者達の「トベ」系統の倭国『大后(後の皇后)』。

⑤-2.「母系DNA縄文人混血越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」
・春秋時代越第一位祭祀女王の後裔の「戸売(トメ)」系統の倭国『大后(後の皇后)』。
 
(注)男性はY-DNAで表記される核染色体遺伝子のハプログループ(遺伝子分類群)、女性はミトコンドリア遺伝子のミトコンドリアハプログループ(遺伝子分類群)ですが、女性遺伝子は遺伝子数が少ないため種族分類に対応させられないので、女性は便宜的に同じ種族の男性の「DNA種族」・Y-DNAを援用して、「母系DNA種族」・「Y-DNA相当」の表記を用いました。
(注)中国江南地域に居住していた春秋時代呉人や春秋時代越人は、秦の始皇帝や漢の武帝によりほぼ全員が中国東北地方に強制移住させられ、現在の中国江南地域にはほとんど後裔がいません。

2-2.記紀の皇統譜は歴代高句麗王と歴代百済王を合体させた人工系譜

小林恵子によって証明された「記紀の倭王」は高句麗王と百済王の約26/42=約62%が同一人であるという史料的事実と、記紀の倭王『大王』と倭国『大后』、三国史記の高句麗本記と百済本記の王、新羅本記の王と王妃、新羅金氏の系譜、和邇氏の系譜のそれぞれの父、母、兄弟姉妹、伴侶の家族関係の記載を起点とし、ひとりずつ「DNA種族」を比定しました。

ここで、記紀、高句麗本記、百済本記、新羅本記のそれぞれの家族関係は必ずしも生物学的なものではなく、養父や義父等の関係を省略した社会的な、あるいは政治的な疑似的家族関係の記載があります。そのため、記紀、高句麗本記、百済本記、新羅本記のそれぞれと本来同一人の他の系とは一致する筈のものがズレが見出される場合があります。この微妙なズレの根拠の妥当性が見出されるまで、「DNA種族」の試行錯誤を繰り返しました。家族関係の検証には、別名も援用しました。

三国史記高句麗本記では、高句麗王の先王との関係は、嫡子、長子(元子)、第二子、子、孫、同母弟、末弟、弟、異母弟、太子と微妙に違う表記があります。極少数の「嫡子」以外は、直接の血縁関係がない場合が多く、「孫」は血縁関係がないとみてよいと思われています。また、倭国『大王』と同一人となる以降の歴代高句麗王の母、王妃の名が全く記載されていません。
三国史記百済本記では、百済王の先王との関係は、嫡男、嫡子、子、弟の子と微妙に違う表記があります。極少数の「嫡男、嫡子」以外は、直接の血縁関係がないとみてよいと思われます。また、倭国『大王』と同一人となる以降の歴代百済王の母、王妃の名が全く記載されていません。

また、高句麗王と百済王には、倭王『大王』の顔をもたない例外がそれぞれ三例見出されました。この例外は、合理的な理由がありました。

まず、表1に、高句麗王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』 の比定結果を示します。

表1.高句麗王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』

(注)〇印は小林恵子が証明したこと。△印は本著者による推論結果あるいは追加したもの。

高句麗第11代高氏始祖東川王憂位居(在位:227~248年)(=神武天皇B憂位居)以降の高句麗王で倭王『大王』の称号をもたないのは高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)=丹波朝初代丹波道主、高句麗第20代氐(テイ)族馮(フウ)氏長寿王(在位:413~491年)と高句麗疑似末王の第28代宝蔵王(在位:642~668年)の三人だけです。いずれも、倭王『大王』の称号をもたない合理的な根拠が以下のようにあります。
 
①高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)
「DNA匈奴休氏ニニギ族」である高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)は、鮮卑族慕容部に滅ぼされて臣属したので、倭王『大王』の称号をもちません。母系の倭国領国の倭国但馬に亡命し、丹波朝初代丹波道主を称しました(但馬国三ノ宮養父神社)。
 
高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~491年)
「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」・Y-DNA「O2a2系」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~491年)は、記紀の皇統とは別な「DNA種族」で、更に、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1系」である高句麗第19代広開土王/好太王(在位:391~412年)[=第16代仁徳]を事実上滅ぼしたので、倭王の称号が承認されませんでした。これは、倭国には、記紀の倭王「大王」を超える別な為政者が存在していることの傍証です。

413年、馮(フウ)氏高璉(レン)は、北魏の命に従って、80歳前後の高齢の高句麗第19代広開土王/好太王(在位:392~413年)[=新羅第17代金氏奈勿尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳]を高句麗と朝鮮半島から追放しました。更に倭国淡路島(事実は、同じタムロの由来がある済州島かもしれません)まで侵攻し、第16代仁徳を事実上敗死させたとの説があります。
427年、北魏が、氐(テイ)族馮(フウ)氏(Y-DNA「O2(M122)」)の高璉(コウレン)を高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(レン)に封じました。
そして、高璉(コウレン)が高句麗王に在位した413年から492年の間は、第16代仁徳の伯父系の百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)=第18代反正(ハンゼイ)、反正の継嗣の百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)=第19代允恭(インギョウ)、允恭(インギョウ)の継嗣の百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=高句麗太子安興(宋書)=第20代安康が百済王に就いています。そして、安康の継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)が倭国に生存しています。

③高句麗(架空末王)第28代宝蔵王(在位:642~668年)
高句麗第28代(架空末王)宝蔵王(在位:642~668年)は、叔父の高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)[=第40代天武(テンム)]に疑似擁立されました。高句麗・淵蓋蘇文は、「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷]を642年に高句麗で殺害しました。また、「DNA匈奴金氏」である高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=金官加羅国金舒玄=第34代舒明(ジョメイ)]の継嗣の高句麗・大陽王(生歿年不詳)を、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]に追放移動しました。

高句麗第28代宝蔵王は唐の捕虜になりましたが、疑似王と判明し、唐は戦争捕虜から解放し、王族待遇をします。高句麗第28代(架空末王)宝蔵王(在位:642~668年)は、倭王『大王』の称号をもっていないことが疑似王を裏付けています。同じように唐の捕虜となった百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]は唐の捕虜中に歿しましたが、倭王『大王』の称号を有しています。

次に、表2に百済王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』 の比定結果を示します。

表2.百済王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』

(注)〇印は小林恵子が証明したこと。△印は本著者による推論結果あるいは追加したもの。

記紀の倭王『大王』の顔がない百済王は、以下の三人です。いずれも、倭王『大王』の称号をもたない合理的な根拠が以下のようにあります。
 
①百済第12代契(ケイ)王(在位:344~346年)=前燕皇太子慕容曄(ヨウ)
前燕皇太子慕容曄(ヨウ)が356年に早逝したので、三国史記百済本記が百済第12代に追諡しました。したがって、倭王『大王』の称号がありません。

②百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)=和邇氏難波根子建振熊(タテフルクマ)命
百済第15代枕流(チンリュウ)王(在位:384~385年)=第15代応神天皇A品夜和気(ホムヤワケ)が385年に早逝したので、父の「DNA原始鮮卑族和邇氏」である難波根子建振熊(タテフルクマ)命を百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)に捏造して、穴埋めをしました。百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)は倭王『大王』に就いていないことが示すように、記紀編纂時に捏造された百済王です。難波根子建振熊が実際に百済王に即位したのであれば、少なくとも倭王『大王』が追諡(ツイシ)されている筈です。

③百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)
「DNA匈奴金氏」である百済第25代武寧王斯麻(在位:501~523年)(462生まれ~523年歿)は、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=第20代安康=高句麗・太子安興]の継嗣です。そして、第26代継体の甥で、「摩腹子(注:新羅では、身分の低い官吏が妊娠した妻を自分の上役に贈る制度。)」になります。斯摩が倭国で生育していることが、正統な継嗣であることを示しています。高句麗、百済の混迷のため、斯摩は39歳頃まで倭国にいました。
武寧王の新羅王即位を阻止するために、第26代継体は、実子を新羅第21代金氏炤知(ショウチ)麻立干(在位:479~500年)=第25代武烈に擁立しました。高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)が375年に百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=第20代安康]を滅ぼしてから百済第25代武寧王(在位:501~523年)が即位する501年までは、第二期百済王空白期(375年から501年)です。
高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)が394年に歿した後、第26代継体は高句麗王、百済王、新羅王の正統な継嗣である島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)との王権の棲み分け合意が成立するまで、島君(セマキシ)の朝鮮半島回帰を阻止しました。第二期百済王空白期(375年から501年)の394年以降の空白を埋めるために、記紀は、第26代継体の実子である新羅第21代金氏炤知(ショウチ)麻立干(在位:479~500年)[=第25代武烈]を牟氏の養子として百済第24代東城王牟大(ムタイ、在位:479~501年)に捏造しました。記紀は、百済第24代東城王は、百済王位を剥奪して王位についたので、百済臣下から追放された、と記しています。
島君(セマキシ)/斯麻(シマ)(462年生~523年歿)は百済第25代武寧王(在位:501~523年)にやっと即位できました。実際には、武寧王は倭国在住時代から倭王『大王』の待遇を倭国で受けています。第26代継体は、正統な継嗣である武寧王には倭王『大王』の称号を認めようとしませんでした。第26代継体を直祖とする記紀編纂者達は、武寧王の倭王『大王』の称号を隠蔽したと考えられます。

私見ですが、武寧王の王陵に同葬されていた<王太妃(注:残っていた歯から名が唯一未詳とされた孫が代葬されていた)>とは、第24代仁賢[=第21代雄略=新羅・朴英失(ヨンシル)]と第26代継体=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証麻立干(マリツカン) (在位:500~514年)=金官加羅第10代末王金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~ 532年)の『大后、王妃』の春日大娘皇女=新羅・玉珍(オクチン)娘主と比定しました。百済第25代武寧王の棺材は、倭国から送られた高野槙である由縁です。<王太妃>は<壽終>と記され、享年が記されていないのは、まだ生き永らえていたからです。20代の初婚の武寧王と春日大娘皇女との息子は、淳陀太子(482年頃生~513年歿)と考えられます。

韓国の民間伝承[韓国ドラマ:帝王の娘スベクヒャン]は、百済王女・スベクヒャン(漢字名:守百香/手白香)は、父が百済第25代武寧王としています。スベクヒャンの母は、武寧王陵に王太妃と記載された春日大娘皇女=新羅・興道/吾道(オド)娘主と推測されます。

新羅大元正統の祖である手白香皇女の母系系譜(〇数字は相対的世代数を表わす)は、⑧春日和珥童女君(カスガ・ワニ・オミナ・ギミ)=⑧新羅・玉珍(オクチン)娘主、⑨春日大娘皇女=和珥糠君郎娘(ワニノヌカキミノイラツメ)=新羅・興道/吾道(オド)娘主、⑩手白香皇女(第24代仁賢天皇&第26代継体天皇の大后名)=春日山田皇女(第27代安閑(アンカン)天皇の大后名)=橘仲皇女(第28代宣化天皇の大后名)=新羅・朴氏思道夫人(?~614年2月歿)、⑪皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主、⑫額田部皇女(554年生~628年歿)=第33代推古B額田部皇女=新羅・善花公主=百済王妃・善花、⑬宝皇女(593年生~661年歿)=第35代皇極B宝皇女=重祚第37代斉明B宝皇女=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)[注:第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]=百済王妃・宝公主です。

新羅王の系譜は、高句麗王や百済王の顔をもたない新羅王朴氏初代~第3代、新羅王昔氏第4代、新羅王朴氏第5~8代、新羅王借用昔氏第9~12、14~15代、新羅王金氏第23、25~29代は、新羅王金氏始祖第13代味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=高句麗・蜜友(ミツユウ)=第3代安寧を除いて、倭王『大王』の称号をもっていません。つまり、新羅の国体は扶余族でないので、扶余族盟主を象徴する倭王『大王』の称号を新羅王は付帯しません。

<論理考察と結論>
以上の記紀の倭国『大王』、高句麗王、百済王、新羅王の「DNA種族」の比定結果から、記紀の倭国『大王』の皇統譜は、高句麗第11代以降の歴代高句麗王(227年~642/668年)と百済第11代以降の歴代百済王(304年~660年)を倭名にして、約2倍(外した王や兼務王や追加王を考慮すると合算855年を641年に短縮)となる年数を無視して一本化合成したものであることが明らかになりました。つまり、記紀の倭国『大王』の皇統譜は高句麗王統と百済王統を人工的に合成した虚構です。この論理的結論は、シンプルな二つの基本条件だけから導きだされたものですが、論理的な不完全さが何かあったのかと一瞬戸惑うほどです。しかし、この後、記紀の多くの隠蔽と改ざんが露呈し、そして、多くの論理的事実が次々と見出されていき、この論理的結論は本質であることがますます確かになっていきました。人工的に作成された皇統譜の記紀は、当然の帰結として、多くの隠蔽と改ざんがなされており、なんでもありの解釈が罷り通るのは必然です。

本論では、記紀の皇統の西暦換算の在位年は、原理的に換算不能のため、表示をしません。

世界趨勢のDNA科学の倭国皇統の考察結論は、古代の本人からの直接データによるものでなく、多くの後裔からのDNA分析によるものであるため、本論から得られた解析から修正が必要で、記紀に記された倭国『大王』は朝鮮半島に常住している高句麗王や百済王のことで、現在まで続いている倭国の政事統括者である『DNA春秋時代呉越系倭人混血縄文人』ではありません。高句麗王や百済王が海を渡って倭国の政事為政者になったことも、倭国の政事為政者が海を渡って高句麗王や百済王になったこともないとするほうが論理的です。朝鮮半島の国々は他国の侵攻が日常的な状況にあり、海を越えて倭国を為政する余裕があったと解釈するのはかなり無理があります。また、朝鮮半島の国王達は、歴史的なルーツから日本列島ではなく大陸を向いています。朝鮮半島を追放された第26代継体、第29代欽明、第31代用明、第33代推古A達頭(=聖徳太子)は皆、倭国への避難移動ではなく、中央アジアを選択しています。第16代仁徳は、80歳頃の高齢で、倭国に避難移動して為政をしたように記紀は記していますが、事実かどうか疑問です。第16代仁徳は、倭国の淡路島ではなく、同じように檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)を語源とする済州島への避難移動とし、そこで歿したとするほうが合理的です。

日本列島には、日本人の約半数を占める九夷[夫餘(フヨ)、高句麗、東沃沮(ヨクソ)、邑婁(ユウロウ)、濊(ワイ)、馬韓、辰韓、弁辰、倭人]と呼ばれている多くの弥生人部族が渡来してきました。彼らは、それぞれの自分たちの祖郷の朝鮮半島の始祖や宗主を倭国のそれぞれの神社に祭祀しました。そして、倭国でのそれぞれの部族の出来事は、自分たちの始祖や宗主の名で伝承していきました。

2-3.記紀の倭王『大王』とは高句麗王と百済王に付帯する倭国との対婚族同盟を示す称号

表1、表2に示すように、高句麗王と百済王は、記紀の倭王『大王』の顔をもっています。
しかし、表3に示すように、高句麗王と百済王の顔をもっていない新羅王は、新羅王金氏始祖・新羅王第13代味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)を除いて、記紀の倭王『大王』の顔をもっていません。

私見では、新羅王金氏始祖・新羅王第13代味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)は一代限りの別系統で、不自然な王統譜です。後世、新羅金氏が挿入した架空王と推測されます。新羅王第13代味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)は、実際は出自国の金官加羅国王であったことが考えられます。

表3.高句麗王と百済王の顔がない新羅王のリスト

表1、2、3から言えることは、国体が扶余族である高句麗王と百済王は記紀の倭王『大王』の称号をもっていますが、国体が扶余族でない新羅王は記紀の倭王『大王』の称号をもっていません。

倭国『大后』は春秋時代越の第一位祭祀女王の後裔で、扶余族盟主の高句麗王と百済王にとって王権の人的象徴でしたので、高句麗と百済は倭国と宿命的・永続的な対婚族同盟をしました。

新羅は、当初高句麗や伽耶の属国的であったので扶余族を国体にできず、新羅王は倭王『大王』称号を付帯しません。

つまり、記紀の虚構の倭王『大王』の皇統譜は、国体が扶余族である高句麗王と百済王の倭国との対婚族同盟を元にしたもので、倭国の統括者であることを意味しません。高句麗王と百済王が倭国の為政者となったことはありません。倭国王との二つの顔をもつ高句麗王と百済王とは、倭国と四韓との顔をもつ倭国『大后』の模倣です。
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