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2024.7.9<新版>2-10.高句麗系呉系倭人朝(第6~9代)と百済系垂仁朝(第11~14代)は並立皇朝、       2-11,12,13,14,15

写真:兵庫県西宮市の和邇氏系広田神社、初の斉殿(トキドノ)は葉山媛命。


2-10.『大后』皇統の父系祖の日本列島を集約した高句麗系呉系倭人朝(第6~9代、300年~391年)と朝鮮半島を集約した百済系垂仁朝(第11~14代、304年~375年)は並立皇朝

表14.記紀の皇朝前期の皇朝期間

2-11.国祖第10代崇神はニギハヤヒ[=第二代大国主・大歳]

 記紀には、初代神武Bと第10代崇神の二人の国祖が記されていることは不思議なことと思われていますが、その論理的根拠は解明されていませんでした。
 史料から分析した小林説は、第10代崇神天皇は非実在としました。的を得ています。

「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(ボヨウカイ、Murong Hui 、生没年:269年~333年)、慕容皝(コウ)[=第11代垂仁天皇=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝(在位:337~348年)]は、「DNA鮮卑族」劉氏系の前趙(漢)の臣下であったため、倭国では皇位継承の正統性がありませんでした。しかし、第11代垂仁は、百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)であり、前燕を建国した前燕初代文明帝(在位:337~348年)です。第11代垂仁には継承元が必要であるとは思われません

第10代崇神天皇がニギハヤヒ=大歳であることは、『大妃』「妃」が同一人等から比定した根拠を次に示します。
 第10代崇神天皇の和風諡号・御間城(ミマキ)入彦五十瓊殖(イニエノ)天皇は①任那加羅出身をあらわし、『大后』は②御間城(ミマキ)姫、『妃』は③意富阿麻(オオアマ)比売(日本書記)=尾張大海媛(古事記)であり、これらはらニギハヤヒ=第二代大国主大歳=大物主Bと同じ条件①②③であります。「御間城(ミマキ)」は「加羅=任那」の意ですので、『大后』御間城(ミマキ)姫は、②伽耶生まれの「母系DNA縄文人混血越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」の第二代戸賣・沙本(サホ)之大闇見(クラミ)戸賣=宇迦御魂命=新羅・玉帽夫人ですので、父は「DNA匈奴金氏」である新羅金氏6代・新羅葛文王骨正の同父母の弟の新羅王子借用昔氏伊買の子の新羅金氏7世代・新羅第10代借用昔氏(&金氏)奈解尼師今、母は「母系DNA越系倭人」春日氏である新羅・述礼夫人=初代戸賣・春日建国勝戸賣=(加羅名)初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)です。
 伽耶生まれの第二代戸賣・沙本(サホ)之大闇見(クラミ)戸賣=宇迦御魂命の伴侶は、①加羅生まれの大歳=ニギハヤヒです。
 『妃』の③意富阿麻(オオアマ)比売(日本書記)=尾張大海媛(古事記)=尾張大倭媛 (先代旧事本紀)=高志沼河姫 (先代旧事本紀)=葛木高名姫命 (先代旧事本紀)は、第二代戸賣・沙本(サホ)之大闇見(クラミ)戸賣=宇迦御魂命の部族同盟名です。

従って、『大后』御間城(ミマキ)姫=『妃』意富阿麻(オオアマ)比売(日本書記)の伴侶である渡来弥生人系の第10代崇神は、「DNA匈奴金氏」である大和祖王のニギハヤヒ=大歳となります。

もう一つ、第10代崇神がニギハヤヒである別な根拠が、尾張氏と海部氏の系図の中にあります。尾張氏と海部氏は、同祖を天火明天命(=ニギハヤヒ)とする通婚同盟氏族です。第2代綏靖(スイゼイ)の時代の第4代尾張氏から「DNA縄文人」尾張氏と「DNA縄文人混血呉系倭人」海部氏は分岐した系図になります。天火明天命(=ニギハヤヒ)は、「DNA匈奴金氏」です。第10代崇神の時代、尾張氏と海部氏の両氏族に突然同一人の第12代建稲種(タケイナダネ)命が記載されます。第12代建稲種命は尾張氏と海部氏の共通宗主であるということは、ニギハヤヒ=大歳を指します。

第10代崇神=ニギハヤヒは、中国王朝の支配力が強い西倭国の『大王』は形式上前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰(在位:310~318年)を第5代孝昭天皇においたのに合わせたものにするためと、記紀編纂者達の遠祖のヤマト初統一したニギハヤヒの権威を挙げるためでもあったのでしょう。
 
(注)天理市石上(イソノカミ)神社に伝承される大歳の家族の古代高句麗名
「石上(イソノカミ)神社」の「石(イソ)」は、「越=高志」と同義語です。石上(イソノカミ)神社は、当時通い婚であった「母系DNA越系倭人」である妻宅です。
・祖父:古代扶余名:フツ。
・父:古代高句麗名:フツシ[=スサノオ]。
・母:古代高句麗名なし。初代伽耶媛・神大市比賣(カミオオイチヒメ)=初代戸賣・春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)。
・息子:古代扶余名:フル[=オオトシ(大歳)=ニギハヤヒ(饒速日尊)=大物主神B(三輪明神)]。
・大歳妻:古代扶余名:ウガ[=ウガノミタマ(宇迦御魂)=トヨB=加羅国名:天知迦流美豆比賣(アメノチカルミズヒメ、伽耶生まれ)=第二代戸賣・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)]。
 

2-12.第10代崇神が派遣した四道将軍の実体は、古くからの東倭国の呉系「トベ」系統の倭国『大后』系の領国の示威が目的

 日本書記は、第10代崇神が倭国を制覇するために、四道将軍を派遣したと記しました。何故か、これには重要地域の九州地域と出雲地域と四国が入っていません。記紀の四道将軍は、対応する出来事がない不自然な記載です。

記紀の第10代崇神が倭国平定と称して派遣した四道将軍の実体は、東倭国の呉系「トベ」系統の倭国『大后』系の支配国を表し、男嗣子が政事統治していた地域です。これらの地域は、①尾張氏系東海道、②物部氏系丹波、③女王国吉備、④尾張氏系古志国です。
 これは、越系「戸売(トメ)」系統に対する呉系「トベ」系統の倭国『大后』の権勢誇示をするためです。派遣将軍から主要地の九州と出雲と四国が外されているのは、国譲り後も東倭国の直接支配外の地域であったからです。

2-13.神功皇后と第13代成務の役割は垂仁朝の応神朝への継承性の象徴化

 「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁の庶子の神功皇后と「DNA源流鮮卑族和邇氏」である竹内宿祢=新羅第16代借用昔氏訖解泥師今(在位:310~356年)=第13代成務[=(捏造王)百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)]の記紀の役割は、「DNA鮮卑族」の慕容部垂仁朝の和邇氏応神朝への皇朝の継承性の象徴化です。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后は、和邇氏応神朝を創作するために必要でした。つまり、鮮卑族慕容部の垂仁朝と和邇氏応神朝を繋ぐ役割です。このため、神功皇后は、記紀では大天皇並みに扱いました。
  
 「神功」は朝鮮語読みで、「機張」「気長」と同じ音の「キジャン」です。「気長足姫尊」とは、「気長(キジャン)の国の姫尊」という意味です。古代朝鮮では、国、次に小さい国は「原」、その次に小さい国は「足」です。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后は、長門国二之宮忌宮(キノミヤ)の伝承と釜山の東側、蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡の古代の伝説で、「匈奴金氏」である新羅に攻め滅ぼされた機張(キジャン)国の媛があります。それで、第11代垂仁の庶子である「気長足姫尊」は、百済、倭国に亡命しました。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后の父は、記紀では息長宿祢(=丹波・陳安=高句麗・陳安)とされていますが、実際は母方祖父です。実父は「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)]です。第11代垂仁(スイニン)が、神功(ジングウ/キジャン)皇后の実父を暗示する息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)]の別名をもつ由縁です。息長宿祢(=丹波・陳安=高句麗・陳安)は、母方の祖父ですが、神功(ジングウ/キジャン)皇后が庶子ゆえに父の役割をしていました。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后は「DNA鮮卑族慕容部」である第9代開化天皇の玄孫とあるのは、時代的には逆ですが、同じ「DNA種族」を表わして、父が第11代垂仁(スイニン)であることを暗示しています。

神功(ジングウ/キジャン)皇后が、「DNA源流鮮卑族」和邇氏である第13代成務天皇[=竹内宿祢(百済木羅氏、蘇我氏祖、384年歿)=(捏造王)百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)・尼師今(在位:310年~356年)]と共に百済に亡命し、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)[=第14代仲哀=慕容 臧(ボヨウゾウ)]の王妃となったのは、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)の庶子である血統によるものです。

神功(ジングウ/キジャン)皇后の母は葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛、父は息長宿祢(=丹波・陳安=高句麗・陳安)とされていますが祖父で、実父は第11代垂仁(スイニン)です。
 神功皇后は、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)の庶子で、母が「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍(=第6代孝安天皇)の孫の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」葛城氏である葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛で、母方祖母が「母系DNA縄文人混血呉系倭人」葛城氏である菅竈由良度美(スガカマユラドミ)、母方祖父が「DNA縄文人混血源流鮮卑族昔氏/前族」と推測される息長宿祢=丹波・陳安=高句麗・陳安です。因みに、「DNA縄文人混血呉系倭人」の新羅葛城氏の倭国通名は「葛城鴨氏」、新羅名は「朴氏」です。
 また、神功皇后は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏である百済豪族の難波根子建振熊(タテフルクマ)=第15代応神・品陀(ホンダ)真若王=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王 (在位:385~392年)と同盟しました。
 
2-14.和邇氏応神朝(第15、17代)と和邇氏雄略朝(第21~25代)は、百済王空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)を利用して和邇氏実在者を百済王に捏造した呉系「トベ」系統『大后』の父系祖の粉飾
 
2-15.「倭の武王」は反正朝(倭国第18~20代)の正統継嗣の百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)
 倭の五王についてはいろいろな説があり、特に倭王武については強い説がありません。これは、国内の記紀の皇統内で比定しようとすることに原因があります。そして、古代は特に強いですが、現在の王統でも血統の継承性が基本になります。血統の継承性がないものが易姓(エキセイ)革命です。
 「倭の武王」は、新羅金氏7世代・新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今の弟の長男系の反正朝(倭国第18~20代)の正統継嗣の「DNA匈奴金氏」である新羅金氏11世代・百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)です。
 本来、斯麻(シマ)は記紀の皇統に記載されるべきでありましたが、庶子系統の第26代継体により王位を簒奪され、記紀に記載されなかった『大王』です。

日本列島の「倭国」の名の由来が国史に残されていないのは不思議なことです。倭の武王が百済武寧王であれば、「倭」とは日本列島の倭国を指していないことになります。

四韓の王統は、血統が王の正統性を示します。王統が変わった場合、「宋書(ソウジョ)」は明記すると考えられますので、「倭の五王」は同じ血統と考えるのが自然です。つまり、「DNA種族」が違う第15代応神や第21代雄略は候補者にはなりません。

讃・珍・済・興は新羅王として、武は新羅王継嗣の百済王として実在しています。
「倭の五王」のそれぞれは、倭王讃=第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)]、仁徳の兄の倭王珍=第18代反正(ハンゼイ)=新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)[=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)]、第18代反正の継嗣の倭王済=第19代允恭(インギョウ)=新羅第19代金氏訥祇(トツギ) 麻立干(在位:417~458年)[=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)]、第19代允恭の継嗣の倭王興=第20代安康=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)[=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)]、第20代安康の継嗣の倭王武=百済第25代武寧(ブネイ)王島君(セマキシ)/斯麻(在位:501~523年)]と比定されます。

百済第武寧(ブネイ)王島君(セマキシ)/斯麻は、新羅王族傍系庶子の第26代継体に王位を簒奪・阻止をされ、朝鮮半島の難を避けて39歳頃まで倭国に居住しました。
「倭の五王」とは、記紀の人為的に創作された倭国『大王』が該当しないことことは本論からも明白で、新羅王ないし新羅王継嗣に対する称号と考えるのが自然です。
<以上>