【コンテスト用】未来のためにできること

ビジネスマンを中心に往来が多い大通りで核廃絶、原発反対と叫ぶ人々。久しぶりに聞いたその響きに、すっかり忘れてしまっていた自分に気付いて寒気がした。

忘れられない記憶、わたしは東日本大震災のとき、学校にいた。築100年を越えるオンボロから建て替えられたばかりの新校舎が備えた免震構造のおかげで死ななかった。それでも、あり得ないくらいの揺れに、恐いよりも何が起こっているのかわからないことへの不気味さが勝っていた。その日は停電が起きて、寒くて怖かった。蝋燭を引っ張り出して来て火を付けて、家族と身を寄せて過ごした。
その後のニュースは東日本の太平洋側、海沿いの惨状でさらに不穏になっていった。とんでもないことが起こってしまった、学校で習っていた電力供給の手段のひとつ。原子力発電所がこんな形で現実として迫ってくるとは思っていなかった。

わたしは親の都合で引っ越しを重ねながら育った。あの後、東日本大震災から3年後の福島県内某所に住むことになった。引っ越しに辟易していたわたしは、どこの町とも違う新しい町の様子を見てとてもショックだった。コンビニの駐車場には黒いビニール袋に入れられた土砂のようなものが、柵にもたれるようにぎっちりと並んでいる。車で出かければ前をやたら横幅がある黄色い除染車が走る。"路面の放射線洗浄"だという文章がその車の脇腹にゼッケンみたいに張り付いている。

通うことになった学校のグラウンドは表面の土をブルドーザーで削り取って汚染土を無くすという。その土は一体どこに行くのか。運動会は土埃舞うそこではなく、変な感触のゴムでできた競技場にて開催された。公園に行けば、登山ルートの案内板のような白い看板が刺さっていて、"何マイクロシーベルトか"が手書きのペンで記載されている。どんなタイミングで、どんな間隔で測られたのかはよく分からないし、意味があるのかは微妙な代物だった。公園で遊ぶ楽しそうな子どもは、全然見かけなかった。

2024年になった今、あれから13年。わたしはまた住む場所が変わり、目の前の日常で手一杯になっていった。思い出したように報道される。燃料デブリは取り出せない、汚染水は海洋放出。取り返しが付かなかったにも関わらず、今この国では再び原発が動いている。そんな世に平気で子供を産み落とせるか。わたしにはとても考えられない。

あなたは自分の子どもを原発のある国で育てられますか?

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