見出し画像

私の好きな本『桜桃』

今回は私の好きな本を紹介しようと思う。
新潮文庫の太宰治『ヴィヨンの妻』の中に収録されている『桜桃』という作品だ。

あらすじ

子供より親が大事、と思いたいと考えている夫は、家庭の父としての悩みや、子供たちへの思いを読者に打ち明けていく。物語の中盤からは、夫婦喧嘩の話になり、居心地が悪くなった夫は、まっすぐ酒を飲む場所に行く。そこで出た桜桃を、極めてまずそうに食べながら、心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親は大事。自分の人間としてのエゴイズムと、エゴイズムを捨てて、子供にしなければいけないこととの葛藤が見られる短編小説。

この本を読んだ感想

親が抱える子供への気持ちと、自分のエゴイズムがぶつかり合い、そこに人の弱さやあまりに人間らしい姿が見える。これを読んだのは中学生の頃だったが、当時の私は親というものはいかに自分という存在を捨てて、子供に尽くしていたのかということを思った。また、もしかすると自分の親も、似たようなことを考えているのかもしれないということも思った。現在自分は大人に近づいているが、大人になるにつれて、自分勝手に何かをするということは出来なくなっていくということを思わせるような作品だと思った。

何かを感じた部分、文章

そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、そう言ったのだろうが、しかし、泣いているのはお前だけでない。おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんな咳一つしても、きっと眼がさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻わらないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、凶暴な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひまが無いのだ。……父は、そう心の中で呟つぶやき、しかし、それを言い出す自信も無く、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうの音も出ないような気もして、
「誰か、ひとを雇いなさい」
 と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた次第なのだ。

太宰治『桜桃』角川文庫

ここの文章は、最初に「夫」という人称、中に「おれ」「お前」という人称、最後に「父」という人称が使われている。

この作品では人称が変化するが、その人称の変化で、誰に語り掛けているのかというのが明確にわかるようになっている。特にここでは「おれ」「お前」という人称が使われている箇所は、「妻」に対して本音を漏らしているシーンだと考えることが出来るだろう。

このシーンでは、自分だって家庭を大事だと思っているけれど、そこまで手が回らず、いろいろなことを知る暇もないから、仕方がないという主張を持ってはいるものの、それを「妻」に直接口に出して言うことは出来ないで、心の中で「妻」に叫んでいるという流れになっている。

いかに「父」という身分が自分自身のエゴを捨てないといけないのかということが、明確に太宰治の文章によって書かれたと言えるだろう。また、テンションの違いもここの数行ではかなり上下しており、読んでいて心地がいい。

私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。

太宰治『桜桃』角川文庫

この引用は『桜桃』の最後の文章だ。ここに『桜桃』の伝えたいことが詰まっていると考えている。ここでは子供たちに食べさせたら喜ぶであろう『桜桃』を、父が食べてしまうという場面である。これは恐らく、子供のために行動すべき親なのに、人としてのエゴイズムを優先してしまったということを示唆しているものだと思われる。そしてその後、父は桜桃を極めてまずそうに食べているが、これは子供に対する罪悪感のようなものだろう。このように自分のエゴと子供への気持ちの対立が書かれている。

ただこのシーンに書かれている罪悪感を抱いていると感じさせられる描写だが、もしかすると、罪悪感なんてものはほとんどなく、うわべだけの行動にだけ現れているとも考えられる。

最後の三行を見ていただきたい。行動ではまずそうに「桜桃」を食べている。しかし、最後には「心の中」で子供より親が大事だと言っているのだ。もしかすると、とっくにこの小説の「父」は子供よりも自分の方が大事だ! と心の底から思ってしまっているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?