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『千と千尋の神隠し』を読みほどく

『僕は子供達に「大丈夫、あなたはちゃんとやっていける」と本気で伝えたくて、この映画を作ったつもりです』

スタジオジブリ2001年夏公開、「千と千尋の神隠し」の完成披露インタビューで、宮崎駿監督はそう締めくくりました。

この映画の主人公・千尋は、かつてのジブリヒロインのような、美少女でも類まれな才能がある訳でもない普通の少女です。

いや、普通どころか正直今までで一番可愛くない。笑

映画冒頭から、ぶちゃむくれの顔。
親への反抗的な態度は、転校先への不安の裏返しもあるが、その顔はどこまでも無気力である。

そんな現代っ子の少女が不思議の世界に迷い込み、大冒険をして帰ってくる話しです。

私がこの映画を読みほどく一つの材料に、千尋の世話をしてくれるリン役の玉井夕海さんのインタビューが目にとまりました。

「千尋の体験した世界が夢で、全部彼女の心の中の世界だと思ったらゾッとしたんです」

勿論これは玉井さんの解釈で、一つの感想に過ぎません。しかし、千尋の体験した世界が彼女の心の中から生まれたのだとしたら、ゾッとするどころか、むしろその想像力の豊かさに驚かされます。

そして私は、それこそが子供達の持つ、一番重要な「生きる力」に繋がるのではないかと思いました。

私たちを取り巻くこの世界の豊かさ、奥深さを知ることは、自分自身の心の豊かさ、奥深さを知ることに他なりません。

そういう意味では千尋が体験した世界が、千尋本人の中に元々ある心の豊かさの証明になるのではないでしょうか。

この映画で描かれる、どこまでも広がりを感じさせる緻密な世界観も、魅力溢れる登場人物も、全て千尋の想像力の一面と捉える事も出来るのです。

心は無限の多面体だ。

今までのジブリ映画に出てきたような美少女でもない、類まれな才能もない普通の少女の中に広がる、無限の想像力。

それはありのままの自分を受け入れ、意思を持って未来を選び、他者を赦すことの出来る勇気を引き出していきます。

そのことに気付ければ、世界はもっと違う景色に見える筈だ。

私にはこの映画がそう訴えかけているように思えてなりません。

だからこそ宮崎監督は全ての子供達に「大丈夫、あなたはちゃんとやっていける」 と本気でエールが送れるのではないでしょうか。

この映画が、もしもハリウッド映画だったならば、きっと湯婆婆を倒す物語になっていたでしょう。

千尋はハクと手を取り、試練を乗り越えて魔法の力に目覚め、湯屋の最上階で湯婆婆と魔法対決。

すんでのところで湯婆婆を倒し、湯屋は大崩壊。ハクの呪いは解け、両親も人間に戻って大団円を迎える。

そんな血湧き肉躍る大冒険活劇こそ、宮崎駿監督の真骨頂だったはずだ。
しかし、この映画はそうはならなかった。
結局、千尋は誰も倒しませんでした。

なぜか。

そこには、この映画を成長物語にはしないという、監督の強い思いがあったからです。

(インタビューより抜粋)
千尋は成長なんかしませんよ。ある状況下で彼女の中にあるものが出てくるだけです。
僕自身、成長していないという事がよく分かった。山手線のようにぐるぐる回ってるだけだと思ってます。せいぜい自分をコントロール出来るくらいで。

千尋が母親にしがみつきながらトンネルの中を歩くシーンは、行きと帰りで同じ絵を使わせるなど、監督の「成長させない」演出は徹底している。

大冒険を経てもなお、千尋は変わらずグズで甘ったれです。

でも、例え千尋は覚えていなくても、全てが夢だったかというと、そうとも言い切れません。

最後のシーンでは、車の上に葉っぱが積もっていて、相当な時間が経過している事、千尋は気付いていないけど、銭婆からもらった髪留めが光っている事は、温かな胸騒ぎを残します。

大冒険の果てに、せっかく認められ自分の居場所を見つけられたのに、千尋は全てを捨てなければいけなかった。

切ないエンディングです。

私たちは日々の生活から得る経験値から、いかにも自分が成長しているように感じますが、それは千尋が呼び覚ました力ほど重要なものではないのかもしれません。

そして、千尋が主人公たる所以はここにあります。

あの世界では、ほとんどの人が「これは夢だ!」としゃがみこんで、消滅するか食べられるかしてしまうでしょう。

しかし千尋はなんとか切り抜け、仕事を獲得し自分の居場所を見つけていきます。

私たちは千尋の大冒険を追体験する中で、自分の中にも生きる力を垣間見る事が出来るのでしょう。

そして、最後に流れるエンディング曲「いつも何度でも」が優しく慰めてくれます。

その最後の歌詞には、

「輝くものは いつもここに

わたしのなかに 見つけられたから」


ファンタジーの持つ力が、この映画にはあります。


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