小説無題#1ある男の裁判

——男は傍聴席を睨んでいた——
 男の目には見たものを石にしてしまう程の鋭さがあった。眉間に皺が寄り口元はへの字に結ばれている。優雅に寝癖を整える余裕など無かったのだろう。強風に煽られたかのように髪が吹き荒れている。男は確実に、そして激く何かを要求していた。もし仮に誰かがこの男と目が合ったのなら、その人は決して見なかった事にして通り過ぎる訳にはいかなくなるだろう。
 しかし視線の先には誰も居なかった。男が見ているのは被告の関係者席辺りだが、その一帯は丁度無人になっている。
 では何故? この男は何を不服として何を要求しているのだろうか? 少なくとも単なる野次馬には分かる筈は無い。ひょっとすると弁護士ですら正確に言い当てる事は難いのではなかろうか。
「静粛に」
 裁判長が厳粛な調子で言った。白い顎髭を蓄えた老練な様子の裁判長だ。手元にあるガベルを取り挙げてガンガン打ちつけたとても、不自然に見えまい。
 しかしここは日本であり裁判長はガベルを持っていない。そもそも日本の裁判長は髭を伸ばしていいのだろうか? 憶測ではあるが、しばらくの間髭を剃り忘れた、もしくは髭が生えてる様に見えるだけなのかも知れない(どういう原理かは置いておいて)
 場内は判決が言い渡された直後で場内はざわついていたが、裁判長の一声で完全に沈黙した。後は空調機の稼働する音が完全なる静寂を妨げるのみだ。
「以上、これを持って閉廷致します」
 裁判長の掛け声と共に傍聴者含め全員お辞儀した。いつのまにか一同立ち上がっている。関係者でも無いただの傍聴者もお辞儀するという事は常識として存在してるのだろうか? 初めて傍聴する人は困惑するに違いない。
 被告である寝癖の男だけお辞儀をしなかった。彼の中ではまだ裁判が続いているのだ。架空の法廷で悪魔の検事と天使の弁護士が延々と言い争いを続けている。
 ——この問題に法律という物差で良悪を測るのは間違いなんじゃありませんか? じゃあ逆に言わせていただきますが、あなたはこれまで法律と言う檻に守られてのうのうと生きて来たんじゃありませんか?——
 裁判長はお辞儀が終わるや否やそそくさと法廷を去った。まだ午前中だ、こなさなければいけない仕事が山ほどあるのだろう。それに続いて検事、傍聴者が出て行った。法廷に残ったのは男と弁護士だけだ。
「柳さん、行きまょうか」
 弁護士が男に声を掛けた。
 この弁護士、名前は奥村唯人と言う。個人事務所を経営している若い青年だ(歳は二十七、まだまだ活気に溢れている)。リベラルな気質があり、ジェンダーギャップの解消や生活困窮者に対する福祉の拡大などを訴える活動もしている。そんな彼を支援する人々は少なからず居るらしい。ややおも長ではあるが、端正な顔立ちをている。身体もがっしりとして背が高い。若くして個人事務所をやりくり出来るのも、彼のもたらす印象が多くの人の信頼を得るからだろう。
「柳さん、聞こえていますか?」
 彼の声からは苛立ちなどは感じられ無い。それは単純に聞こえているかどうかの確認に過ぎなかった。そして柳の目をじっと覗き込んだ。柳は何故だかどきりとて眼を逸らた。
 奥村弁護士の眼差しは何処までも真っ直ぐだった。焦点は狂いなく調整され、確実に柳の姿を捉えている。まるで柳という人物の表層から裏側まで見透かされている様で柳は気味が悪かった。だがその視線に欺瞞は感じられ無い。かと言って彼自身、全て正しいかと問われれば、そうでは無い。子供が正邪ひっくるめて純粋と言われる様に、彼の中に自分を偽ろうと言う気持ちがまるで無いだけなのだ。しかし若いとはいえ、これまでの人生で後ろめたい事や恥をかいた経験が全く無かった訳ではあるまい。それほど人間性が出来ているのか? それとも——
「柳さん」奥村弁護士が語気を強めた。
「……ああ、申し訳ない」柳ははっと気づいて詫びた。
「お気持ちは分かりますけどしっかりて下さい、何も人生が終わった訳じゃ無いんですから」
「もちろんその通りです。でも俺はこれからの人生に絶望か感じ無い」
「そんなそんな……この先何が起こるかわかりませんよ」
 奥村弁護士は慈悲深い顔をした。その顔を見た柳はより自分が惨めに思えた。
「申し訳ない、これだと俺は駄々をこねる子供みたいだ」
 奥村弁護士は柳よりも年下である。年齢で言うと五つか六つ程歳が離れている。そんな彼は今を輝き始め、おそらくこれからもっと輝いて行くであろう。それに対し柳はついさっき懲役の実刑判決が下され、未来に陰りが見え始めている。そんな彼に対して憐憫の眼差しを向ける奥村弁護士に、恥ずかしめられたとやや被害妄想的に柳が捉えたとしても決して不思議では無いだろう。
「奥さんが傍聴に来られなかったのはとても残念です。あなたにとって希望でしたからね」
 柳は身体を硬らせた。
「そんなもんじゃ無いですよ。美幸は今の俺の全てでした、俺にとってただ一人の理解者で血を分けた兄妹の様に隔たりが無かった」
 柳はそこで言葉を切った。顔には疲労の色が見える。
「そう信じて生きて来ました」
 そう付け加えると柳は眼を伏せた。両手の拳は硬く握られている。
「良いじゃ無いですか、そこまで大切な人と出会えた。それはあなただけの宝物ですよ、誰もがそんな人と巡り合える訳じゃ有りませんから」
 奥村弁護士は穏やかに言い、そよ風の様に柳の背中を押した。
「さあ行きますよ。この法廷を独り占めする訳にはいきません」
 気付けば先ほどの裁判の検事とは違う検事が、席について気難い顔で資料に目を通していた。傍聴者もぽつぽつと部屋に入って来ている。
 この二人には関係のない次の裁判が始まろうとしていたのだ。

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