見出し画像

小説無題#13過去の記憶

 美幸は小さな頃から泳ぐのが好きだった。
 中学、高校と水泳部に所属し、医大の看護科に入った後も大学水泳部で日々真面目に練習し、大会ではなかなか良い結果を残した。大学二年の夏季休暇でダイバーのライセンスを取得してからは海に潜るようにもなった。そこで美幸はこれまで見たこともない様な美しい景色と海中を漂う大量の海洋プラスチックを目の当たりにしたのだという。その頃から美幸は環境保護活動を熱心に取組み始めた。
 その頃柳は美幸と既に交際関係にあったのだが、事ある毎にその活動の手伝いをさせられた。美幸はミクシィというSNSを使って同志を集め、半年に一度関東近辺の浜辺へおしかけゴミ拾いをした。柳はその時のレンタカーのドライバーだった(美幸は運転免許を持って無かった)。柳は当時金の無い苦学生でアルバイトに明け暮れる生活を送っていたのだが、毎月のその日は美幸によって強制的にシフトを空けさせられた。代わりにその日一日のご飯代は美幸が持ってくれた。
 柳はこの活動について一度だけ美幸に苦言を呈した事がある。この活動になんの意味があるのか? たった十数人でゴミ拾いをしたところで世界中の海洋ゴミのうちの何パーセント集まるのだろう? 人間が今の便利さを追求する限りプラスチックゴミは減ることなんて無い、第一この活動は君の利益になって無いじゃないか。
 すると美幸は刃物のような視線をこちらに向けたのを覚えている。
「馬鹿言わないで。私は自分の利益の為にこんな事してる訳じゃ無い。…私はただ愛してるの、広大で美しい海を愛してるのよ」

 そして美幸は毎年夏に沖縄旅行に行った。柳も一度だけその旅行に同行した事がある。美幸はミクシィで知り合った現地のダイバー仲間達とダイビングを楽しんでいた。柳はその間、ひとりで国際通りを散策した。通りをぶらぶらと歩きながら柳は美幸の交友関係の広さに関心したものだ。人懐っこく大抵の人と直ぐに打ち解ける事ができる。それは彼女が天から賜った才能だった。対して柳はと言うと、あまり周囲と馴れ合う事が得意では無かったし人との関わりをあまり必要としなかった。
 ブルーシールアイスを食べ歩きしながら、何を見るでも無く特にほしい物もなく、持ち主が手離した風船のようにふらふらと彷徨っている時、柳の携帯電話が着信のバイブレーションを鳴らした。今でこそガラパゴス携帯と呼ばれている二つ折りのちゃちな通信機器だ。ポケットから携帯を取り出し、サイドボタンを押して焼き上がったホタテのようにぱかっと端末を開き着信内容を確認する。それは美幸からのメールだった。
 
 『この後一杯だけ付き合う事になったから(私はノンアルだけど)先に部屋に戻ってて、夕飯は帰ってから食べるからお店選んどいて』

 柳はブルーシールアイスの残りを一気に頬張った。冷たさで頭蓋骨の内側がずきずきと痛む。空を見上げると雲ひとつ無くその濁りのない青さに押しつぶされそうになる。その空を一羽の海鳥が消え入りそうな声で鳴きながら横切った。
 
 なんて自由なんだ。

 真っ先に浮かんだ言葉が柳の脳内でじっくりと反芻され消化されていった。半日のあいだ待ちぼうけを食らった挙句、更に待てというのか。
 美幸はあの海鳥のように自由だった。行きたいところに行き、やりたい事をやる。対照的な柳は、行きたいところもやりたい事も無くただ周りに振り回されるだけだ。真の自由とは自分が能動的になって初めて得られるものなのかも知れない。

 柳は国際通りを離れ、ホテルへと向かった。その途中でコンビニエンスストアに寄り、人生で初めて煙草を買った。使い捨てのガスライターも。年齢確認をされたが、その時既に二十歳を越えていたし、車の免許も持っていたのであっさりと、この依存度の高い合法薬物を入手する事が出来た。
 ホテルのロータリーの隅に喫煙所を見つけ柳は早速中に入り、真新しい煙草の梱包フィルムを剥がした。銘柄などはよく分からなかったので適当に買ったのだが、最初に買った煙草はラッキーストライクだったと記憶している。真っ赤な丸いロゴマークが自然と目を引いたからだ。
 ぎこち無い所作で煙草を一本口に加え、ガスライターで火をつけた。加減が分からず思いっきり煙を吸い込んだ瞬間にむせて激しく咳き込んだ。こんなものはただの渋い煙だと柳は思った。煙草にしろビールにしろコーヒーにしろ大人というものは苦いものや渋いものが大好物なのだ(当時のの柳にはその良さが全く理解出来なかった)。今度はゆっくり吸い込んでみたがそれでもごほごほと咳き込んでしまった。まるで柳の肺が主流煙の侵入を拒んでいるみたいだ。
 三口目にしてようやく煙を肺に入れることが出来たが、まるで風邪のひきはじめみたいに喉がいがいがし、脳みそはじりじりと痺れた。こんなもののどこが良いのか分からないと一瞬思ったが、自分の思考領域の隅に空白が生じた事に気付いた。さっきまで領域の大部分を支配していた感情。嫉妬、悲しみ、怒り…。柳を放ったらかし、楽しそうに笑う美幸の顔、柳の知らないところで知らない男と親しげな美幸。それらの雑念は空白の一部になり、気付けば凪のようなニュートラルな感情に支配されている。

 無。

 泣き疲れて涙が出ない時と少し似ている。感情の暴風雨に晒されるより幾分ましな感じ。真夏の台風の目の中で拍子抜けするような。
 でも柳は知っている。煙草に含まれるニコチンが脳の報酬系に働きかけ偽りの安心感を創りだしている事を。煙草を吸ったところで現実は何も変わらないという事を。

 柳はこの感覚をじっくりと味わいながら煙草を吸い終えた。人間の脳の働きというのは意外とシンプルなのかもしれない。難しく考えすぎてるのは人間自身なのだ。

 柳はホテルの部屋に戻ったあともベランダに出て煙草を吸った。今度は気分が悪くなり、吐き気がした。やはりこんなもののどこが良いのか分からない。しかし柳は最後まで吸い切り、吸い殻をベランダの隅にあるたて樋に捨てた。全身がプレートアーマーで覆われたように重い。柳は部屋に入りベッドの上に身を投げた。それから指一本動かすことなく柳は眠った…のだと思う。
 気づいた時には部屋のドアがノックされていた。最初は小さなノックで間隔は開いていた。
 柳が重い身体を起こしている間にノックは大きく、激しくなっていった。
 柳は這い出るようにベッドから出てドアの方へ歩いて行った。ノックは今やドアを壊す勢いで鳴り響いている。

柳がオートロックのドアノブを捻り、ドアを少し開けるとドアはひとりでに勢いよく開いた。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?