小説無題#3無愛想な店主


 奥村弁護士は柳を自宅の最寄り駅までタクシーで送ってくれた。柳はタクシー代として多めに奥村に現金を手渡し、手短に感謝を述べてタクシーを見送った。
 空は相変わらず雨足を強めており、柳は傘を持ってきて無かった。無理も無い今朝は大寝坊をかまし、公判に遅刻したのだ。悠長に天気予報を見る時間など柳には無かった。それでも彼には急いで出廷する理由があった。妻が傍聴に来てるかも知れないと思ったのだ。ただ何となくそんな予感がした、それだけの理由でだ。それは柳の一方的な期待だったのかも知れない。しかし柳にはそれしか為す術が無いのだ。今現在、妻とは連絡が取れない状態にある。恐らく妻は、柳の事をブロックしている。電話を掛けてもワンコールすら鳴らずに、繋がらない旨を伝える電子音声に切り替わる。LINEやショートメールも既読が付か無い。TwitterやFacebookに至っては明らかにブロックされ、妻のプロフィール画面には【あなたはブロックされています】と非常にショッキングな文言が表示される。何故欧米企業は直接的表現を避けないのだろうか? ブロックされた側への配慮が足りないのではないか(とは言えブロックされた事実が無くなることは無いのだが……)。柳はそうこう考えを巡らせているうちに自分が腹を空かせている事に気づいた。
 無理も無い今はお昼時だ。おまけに朝飯にありつけてないし、雨に濡れて寒い。
 柳はすぐ近くに行きつけの喫茶店がある事を思い出した。
「そうだ、あそこへ行こう」柳はひとりでに呟いた。
 ──最近独り言が増えた気がする……しょうがない、独りなんだ──

 その喫茶店は駅前の繁華街のはずれにある雑居ビルの地下一階に店を構えていた。有難いことにいつ行っても騒がしいことは無い。いる客と言えば、営業職らしき三十代くらいのスーツの男や、なんの仕事をしているのか分からないずっとノートパソコンで作業をしている私服の若い女くらいだ。
 この日も店内に入ると、ドアベルが乾いた音をたてた。今日は他に客は居ないらしい。カウンターのスツールに腰掛けてスマートフォンを眺めていた肥えた中年の店主が、のっそり立ち上がって迎えてくれた。この店主とはすっかり顔馴染みになっていた。
「やぁ柳さんいらっしゃい」
 店主がいかにもめんどくさげに柳を歓迎した。(いつもこんな調子なのだ)柳はカウンターに腰掛けながら軽く挨拶をし、ブレンドコーヒーとナポリタンのランチセットを注文した。店主が『コーヒーは食後でいいか?』と聞いてきたので『そうして欲しい』と答えた。それを聞いた店主は無言で灰皿をこちらに寄こすと巨体を揺らしながらキッチンへと下がった。
 柳は上着のポケットから煙草を取り出して一本口に咥え、マッチを擦った(そういえばタバコも朝に一本吸ったきりだ)。先端に火が付くと柳は軽く煙を蒸かし、改めて口いっぱいに含むと、大きく息を吸う。そしてゆっくりと吐き出した。自分の感じていた不安や焦燥が、安寧の泥の中に沈み込んでゆく。束の間の平穏だ。柳はとろけた眼で天井を仰いだ。天井ではシャンデリア電球が柔らかな光を放っている。
 ふと妻の姿が頭に浮かんだ。はっきりとした実体を持たなかったが、柳にはそれが妻である事が分かった。現れた抽象的な妻は柳に対し、煙草を辞めるよう説得している。おぼろげな輪郭は時に悲しみ、怒りを露わにした。しかしそれもまた、吐き出した煙と共にばらばらに解けてしまう。
 妻の名前は美幸と言った。美幸は超が付くほどの健康志向だ。『有機栽培』や『無農薬』と言ったワードは彼女の大好物だった。たとえ割高でも有機野菜を通信販売で取り寄せては薄味で調理し、玄米と共に食卓に並べた。仕事が忙しく、フードデリバリーを頼む時ですら自然食品を謳う店の料理しか選ばなかった。『健康にこそお金を使うべし』が彼女の口癖だ。それを裏付けるように彼女の化粧品やアクセサリー類は量販店で買い揃えたシンプルなものばかりだった。そういった一部倹約的なところは柳も大いに賛成だったが、健康志向という一種の禁欲的行動は柳の望む所では無い。煙草や酒を嗜みたいし、焼肉にだって行きたい。柳にとってそれこそが生きる悦びなのだ。
 柳が最後の一口を吐き出しながら煙草の火を消していると、不意にトマトソースの強烈な香りが鼻腔を突いた。耳を澄ますと、熱々のフライパンが水分を蒸発させる心地よい音が聞こえて来る。『もう少しでご馳走にありつける』その事実が柳の口内を唾で満たした。なんせ昨日の夕方以来の食事なのだ。とはいえ出来上がる迄には後数分掛かるだろう。柳は新たな煙草を取り出して火を付けた。
 ナポリタンがやって来たのは柳が二本目の煙草を吸い終えるか終えないかと言うタイミングだった。店主は巨体を揺らし、ふうふうと息を切らして料理を持ってきた。額には汗が浮かんでいる。
「はい、お待ちど」
 店主が言った。その声は無骨で抑揚を欠いている。店主の言葉は相変わらず愛想が無いのだ。
「どうも」
 柳も負けじとぶっきらぼうに答えてみた。しかし店主はこれといった反応を示さなかった。
「コーヒーもう淹れちゃうよ」
 店主が言う。もう淹れ始めないと時間が掛かるという意味なのだろう。『是非そうして欲しい』とだけ店主に伝えると、今度はキッチンに下がらずカウンターで作業を始めた。
 柳もご馳走にありつく事にした。肺に溜め込んだ煙を鼻で抜き、名残惜しく煙草の火をもみ消すと、今度はフォークを取り上げ皿を睨みつけた。例の料理はほかほかと湯気を登らせている。想像よりも遥かに量が多い。柳はにやりと笑った。こんなにもにやにやするのはいつ振りだろうか? ……分からない……。或いはネットニュースで有名人のスキャンダルを見ている時にはにやついているのかも知れない。一つ言えるのは、それは目の前のナポリタンとは別次元の話と言う事だ。
 柳はフォークを使って麺をこれでもかとたんまり巻き付けた。そして口いっぱいに頬張る。すると柳の身体は幸福に包まれた。このときに限っては、妻と音信不通である事も犯罪者として懲役に付すかも知れないと言う不安も、まるで他人事の様にどうでもよかった。幸も不幸も他人からすれば些細な事なのだ。濃厚なトマトソースが柔茹での太麺とよく絡み、味わえば味わう程次の一口を欲した。具は厚くスライスした魚肉ソーセージとグリーンピースだけだ。魚肉ソーセージは太麺と相まってもにもにとした食感を醸している。だがそれがいい。それこそがナポリタンであり、ナポリタンのアイデンティティなのだ(グリーンピースの良さは分からない)。しかしこのナポリタンなる食べ物をイタリア・ナポリの人々はどう思うのだろうか? 柳は思考を巡らせたが、途中で考えるのを辞めた。これはナポリの人々がどう思おうと、既にナポリタンと命名されたのだ。
 柳はがつがつと食べ進めた。空腹が満たされて行くと同時に、虚しさが心の空白を満たしていった。こんな美味いものは柳一人で食べるより、喜びを共有出来る人達で食べる方がよっぽど有意義なのだ。一人で食べたところでせいぜい生命維持にしかならない。
 ナポリタンをおおかた平らげた所で柳は一息ついた。紙ナプキンでごっそり口を拭いピッチャーの水を飲み干すと、深いげっぷをはきながら店主の様子を伺った。店主は一通りの作業工程を終えて待ち時間らしく、両肘に体重を預けながらスマートフォンを操作していた。左手で端末を持ち、右手人差し指で独特なスワイプを入力している。恐らくパズルゲームをしているのだろう。その傍らでアルコールランプがフラスコを温めている。
 この喫茶店はサイフォン式のコーヒーを出す店だ。雰囲気と言い味と言い柳の好みにずばり当てはまった。ひとつ不満があるとするならば、店主が余りに外面を持ち合わせていなさ過ぎる事だろう。かと言って愛される名物店主としてメディアに担がれ、店が繁盛してしまったら困るのは柳だ。数少ない憩いの場が無くなってしまう。
 柳は残りの麺をすっかり平らげ、残ったソースもフォークの側面でこそぎとった。水が欲しくて改めて店主を見たが、相変わらず携帯端末に熱中している。柳は諦めてタバコに火を付けた。サイフォンは店主と対照的にせっせと水を沸かし続けている。
 サイフォンの原理はこうだ。──フラスコ内の水が沸騰すると、蒸気がフラスコ内部を圧迫し、圧力により上のロートへと熱湯が押し上げられる。ロート内には挽いた豆がセッティングされ、上がってきた熱湯と混ざりコーヒーが抽出される。後はろ過されたコーヒーがフラスコに戻れば完成だ──ただの説明では面白みに欠けるが、理科の実験さながらの光景は柳にとって、見飽きる事は無い。一方、店主はと言うと、見飽きてしまったのか見向きもしない。むしろ見まいとしているのか完全に背中を向けている。そんな中孤軍奮闘を続けるサイフォンはピクサー映画に出てくるロボットを想起させた。見捨てられ、忘れ去られても黙々と作業を続ける。あのロボットはなんと言う名前だっけ?
 やがてそのシンプルな機構の中で沸騰が始まった。熱湯がロートに満たされて行き、挽きたてのコーヒー豆は荒れ狂う気泡と踊った。そこでキッチンタイマーが鳴り、店主はようやく顔を上げた。スマートフォンをおもむろにポケットへ突っ込むと、今度はへらを手に取りサイフォンに振り返った。この一連の動作を見る限り手際がよく、無駄な動きは無かった。この人はでたらめに仕事をしているわけでは決して無いのだろう。それからへらを使い、ぼこぼこと泡立つロートをじっくりかくはんした。辺りにつんとエロティックな香りが拡がる。柳の精神はぎらぎらと昂ぶった。しかし今は理性を保たなければならない。柳はしゃぶりつくように煙草を咥え、煙をめいいっぱい吸いこんだ。先端がちりちりと赤く燻る。するとたかぶりもまた、音の無い泥の中へと沈んでゆく。
 コーヒーが出されたのはそれから間もなくの事だった。抽出されたコーヒーはマグカップに移され、ミルクと共に運ばれて来た。柳はそれを受け取ると、香りを楽しむべく鼻の下に持ってきた。立ちのぼる湯気は危険な香りがする。それからマグカップを覗き込んでみた。すると水面に映る柳の顔もこっちを覗いている。
 ──深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗いているのだ──
 空想のニーチェが警告する。まさに柳はコーヒーの深淵を覗き、同時に鏡写しの自分に覗かれているのだ。そしてそれが危険な状態である事も直感で理解出来た。しかしもうその時には目を逸らす事が出来なくなっていた。内在するもう一人の自分が目を背ける事を拒んでいる。そして柳自身もそれを望んでいた。あくまで傍観者として事の顛末を見届けたかった。マグカップに映る柳の顔は、最初こそ恐怖と困惑の色を浮かべていたが、やがてにんまりとした笑みに変わった。その笑みは柳の作った表情では無いはずだった。実際その顔に恐怖していたのは柳自身であり、到底笑みをこぼす余裕なんて無い。どうやら現象と認知との間に誤差が生じているらしい。柳の手は小刻みに震えた。その振動が水面を波打たせ、柳の顔はぐにゃぐにゃと歪んだ。その揺れが激しくなるにつれ、目は見開かれ唇は歯を剥いた。その顔には何がしかの意図があり、何かを訴えているように見えた。しかし柳にはそれがどんな意図なのか分からなかった。それからその口はゆっくりと開かれた。
「いずれお前は真実を知ることになる」
 その声は平静を装っていたが、声の震え具合から興奮の色が伺えた。果たしてその声は柳の内部で発せられ、内部にのみ響く声だろうか? それとも実際に発語され、店主にも聴こえているのだろうか? 柳は次の言葉を待ったが、鏡写しの自分がもう言葉を発する事は無かった。不気味な笑みを浮かべたまま水面に揺れるだけだ。
「柳さん」
 不意に店主が声を掛けた。柳は反射的に店主を見た。店主は用心深い目でこちらを見ている。
「大丈夫?」
 店主が尋ねる。先程の声も店主に聞かれたのかもしれない。
「大丈夫です。何でもありません」
 柳は笑って誤魔化そうとしたが、果たして自分の顔が笑っているかどうか、今ひとつ自信が持てなかった。手にした煙草はフィルターを焦がして火が消えている。柳は焦げ残ったフィルターを灰皿に投げ、テーブルに落ちた灰を紙ナプキンで拭いた。
「それにしても生憎の雨ですね」
 何とか言葉を繋げたが店主が雨に対してどんな感想を持っているのかは勿論柳の知る所では無い。
「それよりも最近、物騒だから気を付けた方がいい」
 店主が注意深い目をこちらに向けたまま言った。柳には意味がわからなかった。何故店主は唐突にこんな話題を持ち出すのだろうか? もしかするとこれまでの柳の行動に思い当たる節があったのかもしれない。
「どういう事でしょう?」柳は聞いた。
「あんたはなんにも知らないんだな」
 店主はため息混じりに言った。
「あんた気づいて無いのか? 世界の異変に。最近その歪みが大きくなった。その歪みに呑まれた人達が元の世界に戻ることは無い」
 そう言うと店主は食器を洗い始めた。空のピッチャーもいつの間にか水が補充されている。
「異変?」
「例えば人殺しとかな、ここら一帯でもそんな輩が増えてるらしい」
 柳はどきりとした。店主は柳の事を言ってるのだろうか? そもそも店主の言ってる事は周知の事実なのか? 
 柳は習慣として雑多なネット記事を読み漁っているが、店主の言うような報道は記憶にない。ともすれば、恐らく陰謀論の類だろう。それも政治的意図を持った誰かが吹聴する様な。
「そうなんですね。それは気を付けなければ」
 柳は当たり障り無く答えたが、結果として店主の注意深い視線をまた浴びることになった。
「柳さん。あんた事態を甘く見てるでしょ。そんなことじゃいざ自分の身に降り掛かると手遅れになる」
「あの……自分には何の事だかさっぱり分からないんですが。一体世界に何が起きているんでしょう?」
 しかし柳の質問に対して充分な回答は得られなかった。
「あんたね、さっきは随分と酷い顔してた。だから忠告してんだ。世界の悪意に呑まれちゃいけない」
 店主の顔には血が昇った様に赤みが差している。口調からは相変わらず情緒を感じられないが興奮状態に有るのかもしれない。
「具体的には何をすればいいんでしょうか?」
「背後に気を付けろ」店主が言った。
 柳は後ろに振り返って辺りを見回したが、危険や異変の様なものは感じられない。ラックに置かれたルイ・アームストロングの首振り人形が、首を傾げたままこちらを見ているだけだ(店主はジャズが好きなのだろう。しかし店内は無音だった)。
「奴は背後から近付いて来る。そして気付かぬうちに入れ替わる。容赦無くな」
 店主は容赦なく話を進めた。
「俺やあんたもある日を境に人が変わっちまう。そんな事が充分に有り得る世界に居るってのを忘れちゃいけない」
 確かにそうかもしれないと柳は思った。店主の話は具体性に欠けるが、頷ける部分も無くはない。一方店主の言う『異変』について、ひとつも根拠が示されていない。あるいは『異変』なるものの証拠は無いが、自分だけが気付いているという単なる匂わせかもしれない。柳にはどの程度話を受け止めればいいか分からなかった。
「ありがとうございます」
 それだけ言うと柳はコーヒーを一口啜った。全体的にすっきりとした味わいだった。口当たりは酸味が強く、後から来るまろやかな苦味が後頭部をぐいぐい押し上げる感覚があった。一口でも充分に効く。柳はまた妻の事を思い出そうとした。しかし姿や顔をはっきりと思い出すことが出来なかった。例えるならば焦点の合ってない双眼鏡を覗いてる様な感覚だ。全体がぼやけ、実像を捉えることが出来ない。しかしそれが妻だと柳にははっきりと分かるのだ。柳は暫く目を凝らしてみたが諦め、煙草に火を付けた。
 果たして俺はこれまでの夫婦生活の中で本当の妻の姿を見ていたのだろうか? 理想ばかりに溺れ、妻の幻を追いかけていたんじゃ無いか。
 柳は深い息をついた。吐き出た煙は帳の様に妻の姿を覆い隠す。
 ──柳の背後に何か近付いている気がした。

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