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小説無題#14メキシコ料理店

 「早く開けなさいよ、電話にも出ないし」
 ホテルの部屋の前には美幸が立っていた。すっぴんのまま髪を後ろで束ね、蛍光ピンクのUVカットパーカーと白のロングスカートを着て黄色いモンベルの登山用リュックを背負っている。美幸がダイビングに行く時のいつものスタイルだ。美幸はうつむいた柳の顔をじっと覗き込んでいたが柳が想像していたよりも怒っていない様子だった。
「ごめん寝てた」
 声が裏返り柳は軽く咳払いをした。喉の奥が乾燥していたが、それが煙草のせいなのか寝起きだからなのか柳には分からなかった。
「心配したのよ、メール見たなら返事して」
「本当にごめん」
 柳が別の視線に気づき顔を上げると斜め向かいの部屋のドアが半分開いていて臆病そうな中年男性がまるで巣穴から顔を出した兎のようにこちらの様子を様子を伺っている。柳は美幸を部屋に引き入れ静かにドアを閉めた。
「ふてくされてたの?」そう言いながら美幸はいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「別に」
「そう、晩ごはんのお店は決まったの?」
「決まってない」
「だと思った」
 美幸は髪を束ねていたゴムを外し、髪を指でとかした。美幸の髪からは微かに海の匂いがする。
「あれ?煙草なんて吸ってたっけ」
 美幸の視線はサイドテーブルに置かれた煙草の箱に注がれている。
「試しに吸ってみただけ。どんなもんかと思って」
 そう柳が言い終わるが早いか美幸の表情が変わるのがわかった。頭上にあるダウンライトが美幸の顔に影を作り出している。
「ねぇ、もう二度と吸わないで、ほんとに。わたしのおじいさんは肺がんで死んだの」
「分かった。もう吸わないよ」
 柳は時間を確認する為に携帯を開いた。十九時二十四分、夕飯にありつくには遅すぎない時間だ。ホーム画面には美幸からの不在着信が三件表示されている。マナーモードのせいで着信に気付かなかったらしい。
「お腹空いたね」柳は独り言の様に呟いた。

 それから二人は夕飯を食べに行くことにした。柳はホテルの近くにメキシコ料理の店があった事を思い出し、そこに行こうと提案すると彼女からの快い了承が得られた。
 彼女はモンベルのリュックを置き、煙草を箱ごとゴミ箱に捨てた。服は着替えなかった。柳もホテルのスリッパからナイキの白いスニーカーに履き替えただけで、ねずみ色のスエットと着古してよれよれになったレミオロメンのバンドTシャツという格好のままだった。一般的なメキシコ料理店でドレスコードを求められるなんて聞いたことが無いが、店からつまみ出されればそれはそれで逆に諦めがつく。どのみち上品なタキシードやゴージャスなフリル付きのドレスは持っていないのだ。
 メキシコ料理店はホテルから数分のところにあり、赤と緑のネオン管で出来た看板が夜を照らしている。スペイン語で書かれているらしく店名は分からない。ガラスドアを開け店の中に入るとブレイズヘアの若い男の店員が席に案内してくれた。おそらく現地の沖縄民だろう。左腕にはウロボロス、首元には小さな十字架のタトゥーが入っている。店内には柳たちの他に四人の白人の男女がおり、丸テーブルを囲んで英語で何やら盛り上がっている。間違いなくアメリカ人だ。店内の壁の至るところに壁画が描かれていて、その無秩序な雰囲気が柳の危機察知能力をぴりぴりと刺激する。壁画はどれもコラージュをふんだんにあしらったシュルレアリスムだ。
 二人は早速メニューを見ながら注文していった。ワカモレのサラダとチーズたっぷりのナチョス。柳はビーフのタコスにサルサソースとコロナビールを、 美幸はチキンのタコスにチリソースとマテ茶をそれぞれ頼んだ。ブレイズヘアの店員は景気良く注文を読み上げながら厨房へ入っていった。
「何だか海外に来た気分」と美幸がいった。
 店内に流れるスペイン語のヒップホップを聴いていると、何だかハリウッド映画に出てくる麻薬カルテルの一味になったような気分になってくる。
「確かに」
 柳は同意したが美幸は柳を見たままじっとしている。
 いや柳を見ていない。遙か遠くを見ている。その目はいつも以上に好奇心に満ち溢れ、興奮の色が伺えた。
「ねぇ、今日あった事、全部話そうと思う」
 美幸が遠い目をしたまま言った。

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