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映画「ルックバック」を観た

映画の「ルックバック」を観てきた。よかったです。(藤本タツキ作品に触れると、感想がながやまこはる口調になりがち)


まず、ファーストカットから原作とはまったく違うことをやっていたので、そこで軽く驚かされた。冒頭、原作では「学校新聞」が教室で配られるシーンからいきなり始まるのだが、この劇場アニメーション版では、夜空に浮かぶ月をとらえた画からカメラが回転しながら地上の方に落ちていき、住宅街の灯りの一つに吸い込まれていくカットから始まった。その家の一室にあったのは、もはや原作既読者には見慣れてしまった、マンガを書いている藤野の背中の姿。


目を見張ったのが、このときの藤野が「背伸びをしたり」、「貧乏ゆすりをしたり」、「頭を掻いたり」、逆に「動きが止まったり」と、1カット内での時間経過をたっぷり見せるという、マンガではできなかった(しなかった)表現に着手していたことだ。そして、やや間が空いて、アイデアが閃いた「あっ」という小さな声が漏れると藤野のペンが動き出し、その瞬間に「ルックバック」のタイトルが画面に大きく現れる。ここだけでもうグッときて感動してしまった。


前回の記事で原作「ルックバック」は漫画にしかできない表現を達成した作品だということを書いたが、それに対してこの劇場アニメ版では、冒頭からアニメーション/映像表現にしかできないことをぶつけており、この時点ですごく頼もしかった。(「映像表現にしかできないこと」でいうと、「音」をつかった演出もよかった。「無音」の使いかただったり、「少年ジャンプ」が床に落ちる「ドン」という鈍い音だったり)



「原作リスペクト」を超えた、その先にある「(原作を借りて)ひたすらいいものを作りたい」という想い。


また、原作を読んだときは、あまりにも卓越した技巧とか構造にばかり目移りしてしまったため、今作の本来的な「物語」である藤野と京本の関係性や彼女たちの成長譚にはあまり意識が向かなかったのだが、この劇場アニメ版はそこに対して今一度スポットを当てることにより「感動青春物語」としての性質が強められていると感じた。


haruka nakamuraが手がけた主題歌「Light Song」が象徴しているように、この劇場アニメ版は非常にエモーショナルに訴えてくる作品だった。ピアノとストリングスをバックに聖歌隊が歌っているようなこの曲は、讃美歌でありながら鎮魂歌のようにも響いてくる。と同時に、非常に童心にタッチしてくる印象もあった。(卒業式の合唱っぽくもある?)


「自分が創作を始めたきっかけ」まで遡って語られるこの物語は、タイトルが「ふり返る、顧みる」などの意味をもつ「look back」であるように、どこか現在進行形で語られる物語というよりも、だれかの過去を回想しつつ組み上げられた物語のように見える。藤野と京本の2人が出会い、そこから共作の作品を生み出し続ける期間というのは、若い漫画家が成長していく様子としても、そして2人だけの思い出が積み重なっていく過程の記録としても機能していた。


トレイラー動画でのハイライトのひとつと言ってもいいのが藤野と京本がともに街に遊びに出かけるシークエンスだろう。この京本の手を引く藤野の映像というのは、背景があきらかに誇張した(=創作した)黄色みがかっていて、文字どおり「一番輝かしかった時期」のようでもあり、どこか「懐かしい時期」のようでもある。まるで「あの頃は無邪気で楽しかった」とでもいうような。


実際、この一連のシークエンスの次の展開というのが、美術大学に進学したいと告げる京本とそれを引き止めようとする藤野の口論シーンであった。前述した「黄金時代」の黄色みがかった背景とは一転して、ここでは暗い紫色の空が画面のほとんどを占めるようになっていて、まるでこの先の未来を暗示しているようでもある。このときの作画というのは、ロトスコープの使用を思わせるほど2人の表情や身ぶり手ぶりに生々しさがあり、カメラもやや下方向から顔をとらえていたことも相まって「不気味の谷」への接近すらも思わせた。とくに藤野の顔が一瞬震えるシーンにはゾクッときた。


少女時代のシンプルな線で丸みがあってかわいらしかったキャラデザと比べると、このとき以降の彼女たちというのは異様なほど「大人」であることを感じさせられた。連載開始後の藤野が「腕のいいアシスタント」を求めて編集者と電話で相談するくだりというのは、身に覚えのある生々しさがあってウッとなった。貧乏ゆすりが加速していく一方で電話口はいたって平静を努めている感じだとか、「あの子は手は早いんだけど、もうちょっと考えてほしいっていうか」みたいな断り方だとか、電話を切るときの「お疲れ様でーす」の感じだとか。


この原作に存在しないアニオリシーンというのはまっとうに解釈するならば、藤野の苛立ちはそれだけ「京本(の背景作画)」を求めていたということだろうし、今作はやはりこの2人の関係性を改めて強調するエモーショナルな作品だったということかもしれない。


パンフレットに掲載されている原作者と監督の対談によると、本作はアニメ制作で通常行われる「原画をキレイな線にととのえる作業」を意図的に省略しているらしく、この工程のおかげで「藤本タツキの絵がそのまま動いている感覚」を再現しているのと同時に、そもそもこの作品自体が「だれかが一枚一枚描いた絵の集積であること」、「うしろに常に作り手の存在感があること」を感じられる手ざわりになっていた。


エンドロールでは、主題歌をバックに漫画を描いている藤野の背中をワンカットで見せ続けるという、まさに「映像表現でしかできないこと」の面目躍如であったと同時に、すでに各所で話題になっているように「キャスト」よりも先に「アニメーター」のクレジットが流れてくること、そしてその名前の一つ一つが藤野の背中に重ねっていくという見せ方になっていた。


それに加えて、終盤の「だいたい漫画ってさぁ、私、描くのはまったく好きじゃないんだよね」「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」というやりとりのシーンでは、京本のセリフがそのまま漫画のようなフキダシで再現されていること、そしてひとつひとつの線から藤野の顔が生み出されていく演出になっており、まさにそのような「作り手」の存在を強く感じさせる仕掛けがあらゆる点で施させれていた。


昨今のアニメの「作画至上主義」的なもてはやされ方は、そのまま「アニメーターの熱意や苦労」を視聴者側が汲みとって評価しようとする姿勢から切り離すことはむずかしいと思うのだが、本作のこの演出というのもまさにそのあたりの感情に訴えかけるものとなっていた。


どちらにせよ、この「ちょっとやりすぎなんじゃない?」と思えるくらいの過剰な演出が散見されたことも含めて、製作陣の「ひたすらいいものをつくりたい」という熱意が伝わってきて、(チョロいもので)それだけでグッときてしまった。(58分という異例の長さの尺であったり、大物アーティストとのタイアップも組まずにこの作品の製作を達成できたのはどうやったんだろう?と思う)


ひたすら「絵が上手くなりたい」と思って机に向かう藤野の姿にもグッときたし、やっぱり「だれかが一生懸命に頑張っていること」というのは心に訴えかけてくるものなのだなと思った。いや、そもそもものづくりというのは頑張るのが当たり前のスタート地点だし、今作のその過程や裏側を見せてくる設計にあざとさを感じなくもないけど、人の心を動かすために必要なもの、最後に残るのは「一生懸命」でしかないのかもとも思う作品だった。




原作マンガの方の感想↓


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