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「ルックバック」を読んだ①テーマ編

劇場アニメ「ルックバック」が公開されるということで、原作マンガを再読した。今回は、自分なりの「ルックバック」解釈を書いていこうと思う。


この記事では、いわゆる「イースターエッグ的な考察」については触れない。「オアシスの曲が引用されている」「ワンハリのオマージュがある」といった考察は自分がわざわざ書かなくてもすでに出尽くしているし、この劇場アニメ版を楽しむ上ではさほど重要ではないように思われるからだ。なので、この記事ではあくまで作品の核にあたるテーマであったり、「映画」と比較したときの原作「マンガ」の特質性みたいなものについて、あらためて整理するためにも書こうと思う。




「ルックバック」のテーマといえば、「創作の功罪」についてであろう。まず「功」の面に触れると、それは人の心を「癒す」力を持っているということだ。自分で創作物をつくること、または、だれかがつくった創作物に触れることは、大きな喜びにつながる。


作中の例でいえば、藤野は自分のつくったマンガが学年新聞に載せられたり、ライバルであると思っていた京本から称賛されることわかりやすく有頂天になっていた。


また、「ルックバック」を語るうえで外すことがむずかしいのは、「京都アニメーション放火殺人事件」を想起させるしかけがあったことだろう。作中の物語が大きくドライブするきっかけといえば、例の「通り魔事件」の発生であった。


この「事件」の描かれ方で特徴的だった点をあげると、「唐突」であったことと、「テレビの画面越し」であったことだ。初見時の読者がこのシーンで度肝を抜かれたのは、それまでなんの前触れもなかったのにいきなり事件が起き、そしてその情報はあくまで「テレビ越しの音声」で状況が伝えられるのみにとどまっていたことが要因にあげられる。つまり、ある種のリアリズム的手法がとられていたということだ。


このときの苦い感覚というのは、なにも作中の藤野だけに限ったことではなく、「京アニ放火事件」が起きた当時、テレビやスマホから流れてくる惨憺たる情報をただ見つめるのみで何もできなかった多くの読者に身に覚えがあるのではないだろうか。また、もっと広い解釈でいえば、今の世の中に「生き残ってしまった」人たちの多くというのは、「東日本大震災」に代表されるような2010年代以降頻発した悲劇の数々を、ただ画面越しに見つめることしかできなかった悲しみや無力感、自罰感を抱えているのではないかと推察する。(加えて、「情報」)


「自分は当事者ではないが、その悲劇をモニター越しに目撃する」というこのときの藤野の感覚は、現代を生きる日本人の原風景のひとつといえるのではないだろうか。「ルックバック」がすごいのは、この時代的な感覚をキャプチャーして描いてみせただけでなく、後半の展開で藤野を、ひいては傷心を抱えた読者の心を「創作」の力によって癒していったことだ。この作品が多くの人の心をとらえた要因は数多くあるはずだが、そのうちの一つがここにあるのではないかと思う。


では、実際にどのようにして癒していったのか?京本が死に、悲しみに暮れる藤野がビリビリに破いた「4コママンガ」が小学生時代の京本の部屋にすべりこむ。その後の展開というのは、「あの事件が起きなければ」「あの時もしこうなっていれば」という、「if」を描いた「事実改変」であった。「もしもあの時2人が出会っていなかったらどうなっていたのか?」


京本の死に動揺した藤野は、「自分が彼女を部屋から連れ出してしまったために京本が殺されてしまった」という、かなり論理が飛躍した結論に至ってしまう。しかし、藤野はそのフラストレーションを自分の中で解決/昇華させるため、「もしもあのとき藤野と京本が出会っていなかったら」という「if」の物語を(脳内で)繰り広げることになる。


「ルックバック」後半の展開、つまりこの「創作」の中の世界では、彼女の「カラテキック」によって通り魔事件を未然に防ぐことに成功しただけでなく、2人があのとき出会っていなくとも、藤野はマンガを描くことを辞めておらず、京本も美大の道にすすんでいたことがわかる。この世界線では、あまりにもすべてがうまくいっている。(あるいは、才能のあるクリエイターは、どのような道を選ぼうが結局のところ創作の道に戻ってくる/逃れられないという、ある種の「運命論」じみてもいる)


そもそも「カラテキック」で殺人事件を解決するというくだり自体が「そんなバカな」「そんなにうまくいくわけがないだろう」と思ってしまうような、見開きをつかったきわめて作為的な、「マンガらしい」演出であったうえに、その後の顛末もふくめるとかなりの「ご都合主義的」展開であった(救急車に搬送されるときの藤野と京本のやりとりを見てみると、笑ってしまうほどテンポよくすべてを説明してくれていたことがわかる)。


この世界線の物語を描いているのは藤野であり、その作者である彼女にとって極端に都合のいいように事実を改変したり書き換えてしまっている。しかし、そのような行為こそが創作にしかできない特権であり、強みでもある。


打ちひしがれてしまうような悲劇が起きうる「現実世界」というものがあったときに、「創作」の世界では悲劇を解決することができるだけでなく、もっといえば、なかったことにすらできてしまう。それは現実に起きた悲劇に対する「祈り」であったり、「乗りこえる」ための一助になったりする。それが創作の「功」の面だと言える。


そして、「罪」の面にも触れておく必要がある。創作は人を傷つけたり、狂わせる力を持っている。そのことをもっとも体現しているのが他でもない、あの「事件」を起こした通り魔の男であろう。


この男には「俺のネットにあげてた絵」などの発言があるように、具体的な活動内容やその力量は定かではないが、彼も「創作」にたずさわる人間のひとりだったことがわかる。例の見開きの「カラテキック」の次のページを見てみると、この男と藤野と京本が、それぞれ「鏡写し」となるような構図、セリフ、ポーズをとっていることがわかる。つまり、彼らは3人とも同じ「クリエイター」であったということが示唆されている。


ここからさらに踏み込んで解釈すると、彼らはなにかの選択がちがっていればそれぞれが「こうなっていたかもしれない」可能性のひとつとして仄めかされている、というのは考えすぎだろうか?藤野と京本には才能があった。しかし、この男には?もしも、才能がないのに創作の道にすすんでしまったことが男の破滅へのきっかけだったとしたら?


また、この通り魔の「描かれ方」について着目してみると、そこにも創作のもつ魔力がこめられているように見えてならない。作中で事件に際して突如として登場するこの男は、「人間」というよりも「現象」に近いものとして描かれていた。


セリフから察するに、おそらく彼は創作にまつわるなんらかの葛藤を抱えており、それが原因の一つとなって凶行に及んだことが示唆されているが、なにかそれ以上のバックグラウンドや背景が明らかにされるわけではない。パーソナリティが垣間見える瞬間があったわけでもない。逆光のせいで姿がぼやかされて描かれているが、髪型も、顔つきも、服装も、すべてが凡庸で、人間らしさを感じない、無味無臭な人物だった。


つまり、彼に対する感情移入や同情の余地を一切排除するような、「非人間的」なものとして描かれているのである。この「事件」を起こすためだけに作中に登場した、人のような何か。その程度の存在でしかない。


「功」の面に触れた際、「創作」には、作者の都合よく物語を書き換えてしまえる特権があると述べた。ここでは、作者である藤本タツキの、もっといえば「京アニ放火事件」で心に傷を負った人間の怒りが込められているように感じられるのだ。


この男には、なんらかの同情を誘うような要素も、人間的な魅力があったわけでもない。あるいは、「ジョーカー」のような悪のカリスマ性でもあれば、まだマシに見えただろう。彼には、「発狂し、凶行に及ぶ」というプロンプト以外なにも与えられていない。この人物造形の描き方に、「この男を絶対に許さない」という、創作の力を利用した強い感情が込められているように見えるのだ。


<余談>
京アニ放火殺人事件の犯人がおかした罪は、彼にいかなる事情や背景があろうとも許されるものではない。しかし、「ルックバック」だけを読むと、彼は「頭のおかしい妄想にとりつかれた男」であるように見えるし、それが直接その犯人のイメージ像として固定しかねない。それが事実であるかどうか、司法がどう裁くかは別にして、1人の人間をそのような存在として描いてしまうこと(=それが実在の人間に直結すること)に、やや倫理的な危うさを感じないこともない。


なにがいいたいのかと言うと、前述したとおりに「創作者」は、自分に都合よく物語や人物を描けるということ、つまりどんな人物でも「善人」のように描くこともできれば、「悪人」にも描くことができる。あるいは「知的」にも、「愚か」にも。この力を利用すれば美しいものをつくりだすこともできる一方で、同時に何か危うさを孕んでいるようにも思える。


さらに、実際にこの作品が発表された当時巻き起こった「精神疾患の当事者に対する偏見や差別を助長しかねない」という批判も、そのような「創作/表現」にまつわる危うさを孕んだ事例としていえるだろう。この記事ではその是非については触れないが、創作には「人を癒す」こともあれば「人を傷つける」こともあるという両面の性質があり、そのこと自体がこの作品の中で描かれている。(というと、すべての批判に対して先回りして予防線を張っているような「ズルい」しかけがある、といえなくもないのだが)


このように、創作の「功」と「罪」の両面を内包したまま、物語は終盤の展開を迎える。「if」の世界の京本からの「4コママンガ」を受け取った藤野は、何重にも意味が込められた「後ろをふり返る/背中を見る/過去をふり返る」行為をとることで、「原点に立ち返り」、ふたたびマンガを描くことを決意する。


この時空を超えた「4コママンガ」を介したやりとりというのは、作品をとおした異なるクリエイター同士の励まし合いのメタファーだとも受け取れる。それは、今は亡くなってしまった方々の手がけた京都アニメーションの作品を見て励まされることだと解釈できるし、あるいはもっと普遍的に、現在の自分とは時間も空間も隔てた古今東西あらゆる作品から何かしらのメッセージを受け取ること、だと解釈してもいいだろう。


「藤野」と「京本」を足して「藤本」、「ファイアパンチ」と「チェンソーマン」をもじって「シャークキック」であることなど、この作品が藤本タツキの半自伝的作品であることをあらゆる要素から匂わせつつ、この物語は作中何度もリフレインされたあの「マンガを描いている背中」のページで幕を閉じる。


ここにきて読者はこの藤野の背中に「藤本タツキ」の姿を重ねざるをえない。「それでも自分はマンガを描いていく」という決意表明のようなものに見えるし、素直に受け取ればすべてのクリエイターを肯定する、称賛するような作品であったように思う。




ここまでで作品の「テーマ」についてはざっと書くことができたが、予定していた「マンガ的技術」について書くには現時点で文字数が多くなりすぎたので、今回はここまで。なんとか映画の公開に間に合うように次回の記事で続きを書きたい。

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