「少年の日の思い出」から考える悪党の美学

ヘルマン・ヘッセ著の「少年の日の思い出」を知っているだろうか。中学校の国語の授業で読んだ人も多いのではないだろうか。有名なので粗筋は割愛する。

よく、主人公とエーミルのどちらが良いかという議論になる。社会通念的に考えればエーミルが正しいのでそちらを選ぶ人が多いが、私は何か納得いかなかった。「主人公が余りにも可哀想じゃないか」私はその直感を捨てきれずに生きてきた。当時私が彼の立場だったら彼同様哀れなまま自責し続けて終わっていただろう。

しかし今は違う。

主人公わざわざ自分の蝶バラバラにするの意味ないな。

反省は必要だ。でも受けとってもらえない償いには意味がない。
償いにもならんし余計に自分が傷つくだけやん
傷ついてるならまず人と比べずに続けてそこから立ち直りゃええやん。
EQ低い正論マンの言う事なんて聞かなくていいぞ。
悲劇のヒーローじゃなく

豪傑な悪党

となって「は?俺が悪いの?知るか!

あいつより凄い奴になって見返してぶっ叩きのめしてやる

」ぐらいの気概持てよ。

自分の直感に正直であれ。我儘であれ。欲望に忠実であれ。清くあろうとするな。醜くも情熱を持て。妬みはそのままでいい。だが、妬むだけでは成長できない。敵の技術をも貪欲に吸収して進化しそして超えていけ。
そうして負の感情をも糧にして成長できた時、胸を張って生きられるのだろう。
立ち上がれ

償いは意味を成さない。戦え。


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