夢は追い求めるよりも見たり与えたりする方が人を幸せにしますか?

夢は追い求めるよりも見たり与えたりする方が人を幸せにしますか?

例えば消防士になりたがる子供は幸いだし、消防士は夢を与え誇りに思います。しかし追っている間は苦悩し、自己実現してやっと幸福を掴みます。自己実現してもつかめないこともあります。夢を追って行きつくところはあくまで自己実現であって幸福とは限らないので、夢の本来の「用途」としては「幸福になるため与え受ける」のがずれているのは理解しています。

ここでは「夢を追う」とは夢を目標化・計画建てするということで、「夢を見る」とは単に欲求を持つことを指しています。

自分が幸せになるために夢を追うのは間違いで、人を幸せにするために夢を追えば結果として自分も幸せになるのかもしれません。その意味で「与えたり」と書きました。

しかし考えてもみれば、夢を与えることで子供に夢を追わせ最終的に絶望させてしまうなら、その過程で子供が幸せになれたとしても、これは自分だけ幸福になり子供に絶望を与える行為になるため無責任で残酷です。見せられた夢は叶えたくなるものですから。残酷な伝染病です。やはり夢の本来の在り方、夢を追うというスタイルでは幸せにはなれないのでしょうね・・・そもそも夢とは幸せになるためのものではないのでしょう。

でもどうしても自己実現より幸福を重視してしまいます。結局突き詰めれば人生幸せでなければ意味がないと思うのです。酸いも甘いも知り尽くす生き方がもてはやされますが、それさえも幸福に深みを増す要因です。しかし私の場合傷つくことを恐れ損切りしています。最終的に幸福になっても古傷は深く残り痛み続けます。無鉄砲なことはできません。ハイリスクハイリターンな生き方はしたくない。

それでもこの考えを幸せのために生きる生き方を「頭お花畑」といえますか?元彼よ?
バカにしないでください。むしろ絶望してるんですよこっちは。ポジティブ度180度じゃなくて-180度なんですよ。これだから表面しか見えてない。
自己実現の生き方を示してくれると思っていたのに。結局あの人も「頭お花畑」側になってる。昔は違ってたのに。説得力なんてない。

結局私は自分の幸福のために生きたい。そのためにあの人は要らない。切磋琢磨するのはいいけど馴れ合いにしかならないぐらいなら一人でやる。山月記の虎にはなりたくないからリスク全振りはできないけど。斜に構えてでも力抜いてでもゆったり追い続ける。極論がダメなら程度を変える。

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