32京都・街の湧水、水神信仰7
107長楽寺「八功徳水」
円山公園の上にある長楽寺の名水「八功徳水」(はっくどくすい)。逃げ落ちる平家軍が1185(元暦2)年に壇ノ浦の戦いで源氏勢に敗れた後、助けられた建礼門院(平清盛の娘・徳子)が長楽寺に5カ月間身を寄せた際に身を清めたり、水垢離(みずごり)した「平安の滝」の水。長楽寺山の山肌から湧き出した山水が源泉だ。
平安の滝は1本のコンクリート製の筧(かけい)から流れ落ちる小さな滝。水垢離用だが、飲用も可能。落差は4㍍弱。滝つぼは高さ4㍍弱で自然石を積み上げて造られた。自然石の間に弁財天など仏8体を刻んだ仏石がはめこまれている。功徳水とは仏様に供える水のこと。「閼伽(あか)」と同じだ。功徳水の頭に付く「八」は仏8体のことだと推察した。
滝つぼを囲む石壁に刻まれた石仏は平安時代中期から後期にかけて彫られた仏石もあるという。八功徳水というのは体に良い、飲んでうまいというほかに仏8体の八種の功徳を授かれる、ありがたい水ということだと思った。
功徳水は古くから名水と言われてきた。水量は多くはなかった。滝が落ちる土間の広さは3畳(約4平方㍍)ほどの広さ。水しぶきを浴びながら、土間の石を踏んで滝の水に触った。冷たかった。コップなど水をくむ小道具を持っていなかったのであいにく飲めなかった。仏を刻んだ仏石はながめ回しただけで分かる。8体が何の仏か不明だった。住職に聴いても「1つは弁財天」というだけだった。
この水場で残念なことは、手水場がないことだ。もっと率直に言うと水を飲む場所はないし、飲む道具もない。山水を手水にする社寺はどこも水質検査結果票はなく、飲用は薦めていないが、飲用する人がいても見過ごしているのが現状。だから、「飲んでも安心」というわけでもないが、滝の水も飲めないことはないと思ってきた。
八功徳水という名称なら、なおさら口にしたいのが人情だ。飲むなら、水が流れ出る現状を知る必要がある。小滝が流れる筧(かけい)がどのように架かっているのか、筧の中や周りはきれいになっているのか見ようと、頼山陽の墓に行く参道を登った。
筧は参道の途中、風化した野仏のある斜面にあった。筧は長さ約2㍍。コンクリート製だが、かつては孟宗竹の筒か木製の樋(とい)だったと思う。約2㍍上に山水をためる場所として小さな祠(ほこら)ようのものがあった。
筧の周りは孟宗竹や落葉樹の落ち葉、スギの落ち葉がたまっていた。凹状で上部が開いている筧の中にまで落ち葉がたまっていた。自然だから仕方がない、自然のままでいいという人もいるかもしれない。神経質な人の場合、飲用できるようにするには、筧の上部にネットなどをかぶせて落ち葉などが入らないようにする手立てが不可欠。定期的な清掃や検査も必要で面倒なことになるので、寺は恐らく「飲用可」にはしないと思った。
寺に墓がある頼山陽は水戸藩(茨城県)に請われて「日本外史」を著し、尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。長楽寺には多くの水戸藩士が葬られ、徳川最後の将軍・慶喜(よしのぶ)らゆかりの記念碑などもある。
境内の上の方に▽御所の守りに身を捧げた水戸藩烈士戦没者87人の刻銘▽水戸烈公(慶喜の父・徳川斉昭)が書いた「尊攘」の記念碑▽水戸藩京都留守居役、鵜飼吉左衛門・幸吉父子の墓▽烈公の第14子で17歳で死没した徳川昭訓(あきくに、慶喜の弟)の墓▽慶喜の重臣で水戸学の総帥(そうすい)・藤田東湖の従兄弟(いとこ)、原一之進の墓などがある。
「何の縁で水戸藩士たちが寺に」と住職に聴いた。「水戸藩と寺とは何の縁もなかった。頼山陽はここに墓を設けてということで墓がある。他の人たちは京の都で命を絶ち、どこにも行き場のない人たち、葬られるところがなかった人たちがこの寺に葬られたと思います」と聞かされた。皇統、尊王を重んじた水戸藩士でも京都の寺、人々は冷たかったのだと思った。
異郷の地で倒れ、どこの馬の骨だか分からない人の亡きがらを丁重に葬る。見返りを求めず、さらに水戸藩士を嫌う政敵などからのご難を恐れずに弔う度量の広さ、懐の深さは、一遍の「何にも欲しがらない」「困った人がいたら助ける」という精神そのものを具現する寺のあり様だと思った。
長楽寺を取り上げるのは理由がある。一遍がとなえた「何もいらない。何も欲しがらない」という精神を胸に刻んで生き、一遍が初めて庵を結んだ「当麻(たいま)山・無量光寺」のある相模原市(神奈川県)に長年住んだこともある。
長楽寺は一遍の生き様の後を追った時宗の遊行上人2世・他阿(たあ)=真教=と関係が深いという。宝物館には江戸時代に一遍が着ていたとされる遊行着の「阿弥衣(あみい)」があり、また木造の一遍立像もあることから、京都を訪れるたびに長楽寺に足を運んだ。そのたびに不思議なことが起きた。
新しい話から。ここ数年、大晦日(みそか)に除夜の鐘を突きにきていた。2023年元旦の未明、6歳男児の孫を連れて除夜の鐘を突いた。建礼門院(平清盛の娘・平徳子)が潔斎(けっさい)、水浴びしたという「平安の滝」にお辞儀をして帰り際、真っ暗闇のなか、母親に手をつながれた孫が水たまりで転んだ。転ぶような場所でないのに転んだので何かバチにでもあたったかと思った。
歴史を思い出した。平家軍は1185(文治元)年、壇ノ浦の戦いで源氏の軍勢に敗れ、建礼門院の一人息子・安徳天皇は入水してしまった。まだ6歳だった。孫の年恰好(かっこう)が安徳天皇とあまりに似通っていて、徳子の亡霊が孫の着衣を引っ張って引き留めたから転んだと勝手に推察した。「長楽寺にはまだ建礼門院の亡霊がいた」と思った。
別のもう一つの出会いがあった。2023年5月27日昼すぎ、室町時代の作庭師で足利義政に仕えた相阿弥が作ったとされる境内の庭の池に、水神の使いとされるシマヘビが泳いでいた。池には平安の滝からの八功徳水が流れ込んでいる。万が一の不思議な出会いだった。
30秒ほどで岩陰に入り、カエルの声がした。捕食されたのか、うまく逃げられたのかは見えなかったので分からなかった。捕食は仕方ないと思いながら、カエルには逃げてほしいと願った。
シマヘビについて、こう教え込まれてきた。「シマヘビは水神の使い。大事にしなくてはいけない。執念深く、馬糞(ばふん)を投げつけると、七里(約28㌔)先まで追いかけて来る。だから、いじめてはいけない」と。
寺伝によると、長楽寺は805(延暦24)年)に桓武天皇の勅命で最澄が創建した。本尊は、最澄自ら彫ったと伝えられている准胝(じゅんてい)観音。天台宗の寺として建立されたが室町時代初め、近くに時宗の双林寺を構えた尼僧・国阿に譲られ時宗となった。
もともと時宗の総本山格だった金光寺が京都七条にあり、「七条道場」と呼ばれた。1903(明治39)年に金光寺は廃寺となり、長楽寺に一本化された。このため阿弥衣が長楽寺に移管された。宝物館にある阿弥衣は「一遍上人絵巻」に出てくる遊行僧の一遍が着ていた衣装と同じ形状だ。縄文時代の織り方と言われ、研究価値が高いといわれる
建礼門院と長楽寺の関係を改めてひもといた。壇ノ浦の戦いでは安徳天皇が祖母に抱かれれて入水、母の建礼門院は助けられた。宮中での侍女が長楽寺と関係があったことから長楽寺に身を寄せ5カ月間、寺で暮らしたという。建礼門院は寺で髪をそり落として落飾し出家。尼僧となり、大原の寺「寂光院」に住んだ。
次は時宗の宗祖・一遍について。一遍は伊予(愛媛県)・河野水軍を率いた河野通広の次男。跡取り息子でも仏に仕える僧とあれば命だけは助けてもらえた時代だったので、小坊主となった。10歳の時、生母と死別した。
どうして相模国(神奈川県)に来たのか、鎌倉幕府初代の頼朝から第6代将軍までつづった歴史書・東鑑(あずまかがみ)などを参照にして、「母親の思慕」をキーワードに推察したことがある。「10歳の時に死別した母の面影を求めたのではないか」と言う大胆な推察だ。
無量光寺に庵(いおり)を結んだのは対岸の依知(えち、厚木市)にある薬師堂(現在の瑠璃光寺)に宿を借りた際、亀の甲羅形をした山の夢を見た。これが無量光寺のある当麻山。その後、父の死去に伴い、故郷の伊予に帰ったが、間もなく当麻山に戻った。河野水軍の跡取りだけに、伊予から関山家など河野水軍の武将ら7人が一遍の身辺警護のため寺の周りに住んだ。
厚木になぜ来たのかは鎌倉幕府のある鎌倉に立ち寄ったついで。ここから具体的な根拠のない推察だが、鎌倉に行ったのは布教ついでに政所だった大江広元を訪ねたのではないかと思った。伊予の水軍大将だけに妻の妹や姪(めい)=一遍のいとこ=が京都の広元の屋敷で家事手伝いをしていてもおかしくない。
京都で広元に仕えた侍女の中に、母親とそっくりといわれた母の妹あるいは姪がいたのかもしれない。広元は侍女を連れて鎌倉に来た。広元がその侍女に手を付けて誕生したのが4男の季光(すえみつ)。
季光は広元が源頼朝から所領として授かった「森の里」(厚木市)をもらい館(やかた)に母と一緒に住んだ。広元に事情を話して、森の里の館に母似の女性を訪ねて会った。その帰りに森の里に近い依地の薬師堂に投宿した。母似の女性にいつでも会いたい、守ってやりたいという気持ちで相模川対岸の当麻山に庵を結んだと推理した。
季光は三浦一族の娘と結婚するが、北条執権派に三浦一族が滅ぼされる中、季光も追われて越後に逃走。その後、季光の子ども・4男が日本海沿いに逃げて中国山地の山合いに隠れ、ふるさと「森の里」を「もうりのさと」としてしのび「毛利」を名乗った。長州藩・毛利家の祖先だ。
戦国武将の毛利輝元は季光から数えて14代目に相当するという。長州志士がこうしたいきさつ、毛利家と一遍、時宗のかかわりを知っていたら、長楽寺など時宗の寺の扱いはもっと丁重だったのではないかと思った。
随分と寄り道をしてしまった。
長楽寺のある長楽寺山(標高140㍍)は東山36峰のだいたい真ん中辺りの第23峰。京都駅から年間を通して日の出の方角を見てきた。一年で昼の時間が最も長い夏至の日、太陽は東山36峰の第1峰・比叡山の方角から出る。最も北寄りだ。1年で日中が最も短い冬至の夜明け、太陽は東山36峰の第36峰、稲荷山の方角から昇る。最も南寄りだ。
1年のうち、昼と夜の時間が同じ長さの春分、秋分の日は長楽寺山から知恩院のある華頂山(標高216㍍、第21峰)辺りから太陽が昇る。
洛中の中心部、御所からも同じような見え方がすると思う。東山36峰は季節の変動を観測する目安にもなってきた。
かつて長楽寺山一帯は長楽寺や双林寺、安養寺の境内地だった。江戸時代に浄土真宗大谷派(東本願寺)が宗祖・親鸞を伴う「大谷祖廟(そびょう)」を設けるために徳川幕府の命令で長楽寺と、東大谷祖廟の参道沿いにあるかつての名刹・双(雙)林寺は境内の山を削られた。36峰のうち25峰に相当する東大谷山(標高184㍍)がこれだ。明治新政府になってからも寺下の境内を取り上げられた。
双林寺は805(延暦5)年に天台宗として創建。日本初の護摩祈祷道場だった。鎌倉時代には塔頭17寺院もあったが、南北朝の争乱で荒廃した。1373(応安6)年に時宗の尼僧、国阿が入寺して再興。時宗12派「国阿派」の本寺、東山道場となった、しかし、応仁の乱に巻き込まれて衰退。徳川時代初めに豊臣秀吉の正妻・寧々(ねね)の隠居場として高台寺の整備で境内を削られた。明治時代初めに天台宗に改宗した。さらに徳川時代の1653(承応2)年にも大谷祖廟の造営で寺地を献上。1886(明治19)年には円山公園の造成のために寺地を没収された。
長楽寺隣にある時宗の円山(えんざん)・安養寺も同じように境内地を取り上げられた。安養寺が管理する、浄土宗の宗祖・法然が庵を結び、浄土真宗の宗祖・親鸞が法然に師事したという「吉水」は、円山公園よりもずっと上の方にあるので没収から免れた。
長楽寺、双林寺、安養寺の境内が取り上げられた広さ9万平方㍍の国有地は1886(明治19)年に京都市に移管された。京都市は翌1887(明治20)年に市初の都市公園として円山公園を開設した。
園地の中央に大きなシダレ桜がシシンボルのようにあり、池とせせらぎのある憩いの場と整備されてきた。かつてこの辺り、「真葛ケ原(まくずがはら)」と呼ばれ、ススキや雑草が生い茂る荒地だったという。
山は大谷祖廟の森を含めて「斧鉞(ふえつ)の森」の神体山扱い。寺の建物に枝折れなどの被害が及びそうな場合だけ伐採する。春先から初夏にかけてクヌギなど落葉広葉樹の葉が芽生えたり、カシ類やシイ類、クスなど常緑広葉樹の葉が入れ代わったりして山が芽胞(がほう)などで赤っぽく染まったり、もっこりと盛り上がったように見える。
これらの落葉が腐葉土となる。斧鉞の森だけに老樹は倒木で倒れ、菌糸類、地衣類の養分となり土に変わり、幼木が育ち天然更新する。こうした自然のサイクルの中で山水が培われる。この森が培った産物の山水が「八功徳水」かと思うと、やたら宝物のように思えた。
108清水寺「音羽の滝」
清水寺の創建そのものが山の神、水の神との出会いから始まった。寺を創建した大和国(奈良県)の修行僧、賢心(けんしん)が山の神と出会った場所が「音羽の滝」上のお堂そばの湧水場所という。
寺の縁起などによると、奈良時代後期の778(宝亀9)年、奈良・興福寺の僧、賢心は「聖泉を求めて北の山に行け」という夢を見た。夢の通りに京の東山連峰に入り、音羽山(標高242㍍)を訪れ、山で修行を続ける行叡(ぎょうえい)と出会った。
その場所が「音羽の滝」の水源となっている、滝の上の崖にある不動明王の化身とされる龍神「倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう)」を祀(まつ)るお堂奥の湧水。賢心は寺の創始者として後に延鎮(えんちん)上人と言われた。
行叡は山の神、水の神とか仙人とか観音様の化身とかいわれている。白衣姿で修業していた行叡は、「東国に出かける。ここにある霊木で観音像を刻み、お堂を建ててほしい」と賢心に言い残して姿を消したと伝えられている。
賢心は行叡が観音様の化身と思い、行叡から渡された霊木で十一面観音像を刻み、お堂に祀ったという。これが清水寺の本尊となり、寺の開創だった。桓武天皇の平安遷都以前の話だ。
「音羽の滝」は山の神と水の神を具現化したものだった。賢心と行叡の出会いの場所が音羽の滝の水源とされている。水源は「倶利伽羅龍王」のお堂の湧き水。「倶利伽羅龍王」は死をも撃退するというすさまじい神威があり、不動明王を描いた高野山の赤不動、京都・青蓮院の青不動がそれぞれ右手に持つ剣に巻き付いている龍がそれ。
不動明王を祀る滝之堂の前に置かれた長い柄(え)の柄杓(ひしゃく)を借りて、水を飲んだ。30年以上、毎年1度は水を飲んでいるが、大雨続きの日も日照り続きの日も水量はほぼ同じで安定し、厳冬期も盛夏も季節の外気温変化にかかわらず水温はほぼ一定していることから湧出水であることが分かる。水質は飲んだ感触では軟水と硬水の間ぐらい、やや軟水かなと思えるのど越しだ。
音羽山に連なる東山36峰の丘陵はほとんど原生林に近い状態。明治政府の上地令(土地没収令)で慌てて境内地の樹木を伐採し、寺の背後の山から木々の姿が消えた寺もあった。
石炭・石油・天然ガスの化石燃料に依存する燃料革命が起きる1960年代以前、山から採取する柴や薪炭用の木々が貴重な燃料だった。第二次世界大戦中は特に社寺所有の山であろうが、入会地であろうが、陵墓の禁足地だろうがお構いなく、生きるため、生活のために必死だった。柴や薪炭が採取できるとあれば、だれもが山に入って薪炭用の樹木を伐採した。
これが幸いして、今日に東山丘陵の森が育てられた。山には人手が入り、腐葉土が形成され、林床も豊かになった。第二次世界大戦後の植林ブームではスギが植林の中心となったが、東山一帯では昔ながらの植生を維持することに傾注された。この結果、山が水を涵養した。傾斜地の山肌や沢から水が浸み出した。「音羽の滝」の水源も山が培った水だ。
ところが今、戦後の窮乏期から70~80年経ち、薪炭用に使っていたクヌギ、コナラ、常緑広葉樹カシ類のトウジイは大きく成長し過ぎてしまった。薪炭用にだれも切る人がいなくなった。
平地林でもクヌギ、コナラの大きくなった木は持てあまされてしまっている。人手が入らないと平地林でも水源涵養、保水力が低下する。山、森とか木々とのかかわりは時代が変わっても難しい。
音羽の滝の水は「金色水」「延命水」といわれる霊水。3本の筧(かけい)から流れ落ちる。落差約4㍍。水くみ場は二階形式に造られており、滝の奥にある滝之堂には不動明王と脇侍(わきじ)の童子像が祀られている。二階形式は1897(明治30)年ごろに造られたとみられている。
音羽の滝では毎週早朝、ボランティアが水場をきれいに洗い流して清掃している。毎朝午前7時には貫主ら寺僧が袈裟(けさ)姿の正装をして滝の不動尊の前に立ってお経をあげるお勤めをする。寺僧の説明では「不動明王の前で読経するのは古くからのしきたり。古い境内図では滝の水は直接、がけ下の池に流れ落ちていた」という。
滝の落差は約4㍍。3本の筧にはそれぞれ「学問」「恋愛」「長寿」のご利益があるといういわれもあるが、寺僧に聞いたら「筧の場所によってご利益が異なるということはありません。水源が同じなので、どの水も一緒です」と言われた。
清水寺の境内地は約13万平方㍍。明治政府の上地令で寺域が没収される以前はこの3倍の広さがあったという。
清水寺といえば本堂にある懸崖(けんがい)造りの「清水の舞台」。それに「千日詣で」。古い歴史があり、清少納言や紫式部も本堂の周りをグルグル回ったという。
また、平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の話も有名。賢心が行叡と出会った2年後の780(宝亀11)年、妻の病い回復のため、鹿の生血を求めて鹿狩りに訪れた田村麻呂は音羽の滝で賢心と出会った。殺生を戒められ、観音様の教えを説いて諭された。田村麻呂は改心して賢心に信心。寺建立の協力を申し出て、自らの邸宅を仏殿(・本堂)に寄進し、寺名を清水寺と名付けたという。
清水寺は本尊・十一面観音があって、西国巡礼33霊場の1つ、第16番札所だ。修学旅行の中学生や外国人を含めて連日、大混雑だが、たまに巡礼らしき人の姿も見かけ、安心する。(つづく)(一照)