僕は君になりたい。 第33話「告白のリミット 終わりの日を告げる僕」
#33
今朝、歯を磨きすぎてしまったようで、まだ歯茎が痛い。先程からずっと歯茎を舐めている。
それというのも、この緊張のためだ。
先日、言いそびれた話をしたい、と久々に自分からメールを送った。
改まった場を設けることを、何となく避けていた。勢いで済ませたかった。
が、それは皆を動揺させるだけだと前回のことで悟ったので、あらかじめ大事なことを言うというスタイルで望むことにしたのだ。
学校の宿題を終えて、バスで事務所に向かっていた。この時間のバスは比較的空いている。僕は運転手の真後ろのタイヤで高くなっている座席をいつも選ぶ。
目立つ席だが、だからこそ安全だった。
以前、後部座席に座っていたら、隣の70歳くらいのジイさんが無言で擦り寄ってきて、じわじわと角に追い詰められそうになったことがあった。ただただ自分の身体を僕の身体に押しつけてくる。気味が悪くて、慌てて降りる場所ではない次のバス停で降りたのを覚えている。
それは少年を狙った痴漢だから気をつけろ、と誠さんらにも言われた。
だが、この席にしてからはそんな被害は全くない。僕は帽子とマスクをいつも着用して顔を隠しているので、この席でも僕とばれないと思う。
バスから降りて、てくてくと事務所に向かった。
いつもより30分早い時間を指定して、事務所のいくつかあるミーティングルームの1つを借り、メンバー3人に来てもらう約束をしている。
僕はその部屋の扉の前で、帽子とマスクを外し、深呼吸を1回では足らず5回ほどし、軽くノックしてから扉を開けた。
約束時間の、5分前である。
そこに座っていたのは、あかりと綾香だった。
「あれっ?…美咲ちゃんは、まだなの?」
彼女がほかのメンバーより遅いなんて、珍しかった。僕が訊ねると、あかりが苦笑した。
「1番に来てるよ。1時間以上も前から…うちが今からだいたい30分前に来てんやけど、3回目のトイレに行っとるよ…」
「私は今から10分前くらいかな。来たときいなくて、戻ってきたと思ったら、また行っちゃったんだよね」
綾香も少しやれやれという感じで笑っていた。
「オレが、1番緊張してると思ってたのにな」
僕はつぶやいて、2人と対面するような席取りをして腰掛けた。
そのときドアがゆるゆると開いて、頬をこわばらせた美咲がそろそろと中に入ってきた。
僕の姿を確認して、ハッと息を止める。
「ああ、来たんだね、流伊…」
なぜか美咲の声は枯れていた。
眼球が震えて、白目が赤くなっている。寝不足だろうか…こうなると、日時を指定するのもどうなのかと思えてくる。
「早かったみたいだね」
「ああ、うん…」
心ここに在らずな返答だ。
「始めていい? 座りなよ」
「ああ、うん…」
美咲はやはりのろのろと亀のように歩いて、あかりの隣に座った。こんな美咲は初めて見る。
いつも威風堂々とリーダー風を吹かせているイメージだったのに…なんか調子が狂う。
「…皆んな、わざわざ早く来てもらって、ありがとう。でも、どうしても…今、言わなくちゃならないことなんだ。だから、聞いてほしい。この間、言いかけたことなんだけどさ…」
心臓がドクンと鳴った。
やはり、緊張する。
でも、言う。
僕は、いま…絶対に…!
言う!
僕は鼻ですぅーっと大きく息を吸い込み、心を決めた。
「…オ、オレ。ス、STAR☆CANDLE、を、今年の…は、8月31日に、そ、卒業します…!」
言えた。
言えた、が…。
…反応が、ない?
あのぅ、え、えとォ〜。
…どういうことなの? これ? 何の沈黙?
「…流伊」
長い10秒だった。
美咲が、やはり彼女らしくない小さな声で僕を呼んだ。
「分かった…」
それだけ言うと、また沈黙してしまった…。
ほかの2人も何も言わず、僕の顔を見つめるだけだ。
僕は、とりあえず自分の話を続けた。
「…たぶん、オレそのくらいが限界だと思うんだ。実は“男”だったって騒がれてからじゃ遅いからさ…言ってなかったけど、一応デビューする前からそういう契約はしてたんだ。
なかなか言えなくてさ…皆んなに告白するのも、延ばし延ばしにしてた。
でもさ、今はそのときよりも辞めたくなくなってる…皆んなとずっと活動したいし、歌やダンスも好きになっちゃって…。
正直自分がこんなに人気が出るとも思ってなかったし、こんなオレにエールをくれるファンへの感謝の気持ちも芽生えた。
だから、言いたくなくなってた…。でも、だからこそ、オレは皆んなやファンはもちろん、『月城琉唯』としての自分自身の思いも裏切りたくない。自分で言うのもなんだけど、“美少女アイドル、月城琉唯”のままキレイにすっと終わりたいんだよ。
じゃ、なんで今かってことだけど…これはほんとに現実的な話でさ、仕事始めの日に来ただろ? あの写真家の柳生至成さんが…オレの…『月城琉唯』の写真集を作りたいって言ってきたらしいんだよ。それで、その理由を、“卒業記念”てことにしたいんだ。その撮影が来月初旬から始まるから…皆んなには先に知らせておきたくて…」
1人で長々としゃべったので、息が上がった。
僕は少しはぁはぁと呼吸を整えた。
「分かったよ…」
憔悴した顔で、美咲がまたそう言って、今度は薄く微笑んだ。
「ありがとう、流伊…私には、あんたへの感謝しかないよ。星キャンをここまで引っ張ってくれたのは、あんただ。私はリーダーづらしてただけで、何も出来なかった…。あんたがこの先、どんな道を選ぼうと、私に止める権利はない。そりゃ、ずっと一緒にやれたら、どんなにかいいと思うけど…“男”っていう制約のあるあんたを今以上に苦しめたくない」
「美咲ちゃん…」
御礼を言われるとは、思っていなかった。
「琉唯ぴょん、うちも…琉唯ぴょんがもう決めたことなら仕方がないと思う。ギリギリなんやろ? そん中で、よく頑張ってくれてると思う」
あかりが後を引き継ぐように続ける。
「…流伊くん。夏休みの終わりまで、頑張ろう! まだ半年以上あるんだからさ」
綾香も足並みを揃えるように、そう言った。
僕の告白の内容を予想して口裏を合わせてきたのかもしれないと思ったが、しっくり来ない。
こんな普通に、納得されていることが、受け入れられない自分がいた。
もっと非難をされたり、嘆かれたりするんじゃないかと覚悟していたのに…。
もちろん、良かったのだけれど。
なんか…拍子抜けした。
…オレの価値って、そんなもん?
そんな気さえしてくる。
僕は、何を期待していたのだろう?
「あ、ああ…。皆んな、ありがとう」
僕は、こうして悩み続けた告白タイムをようやく終了させた。
まだ、歯茎がヒリヒリしていた。
☆
そのことを、企業秘密だからなと言って、僕は高柳に話した。
「特に惜しまれずにってやつか。それで、お前はちょっと落ち込んだってわけだな」
「うん、まあ…そんなところかも。言葉は確かに惜しんでくれてた感じなんだけどさ…」
「物足りないって?」
「オレ、変? ワガママ?」
「いや〜、何とも言えないけどよ。お前を、わずらわせないようにしたかったんじゃねー?」
「そうかなぁ…」
僕は自信がなくて、曖昧に言う。
「でも、いいんじゃね? 今はまだそのくらいのほうが…。だってまだしばらく一緒に活動するんだし」
「そうだよな、まだ半年以上あるもんな…」
僕らは下校の途についていた。
今にも雨を降らしそうな灰色の雲が真上にある。一応雨傘は持ってきていたが出来れば差さずに終わりたい。
「…そういえば、“あの子”見ないな」
ふと、高柳がつぶやく。
不思議なのだが、毎朝登校時に校門の側にいたあの眼鏡女子は僕が手紙を書いて鞄に持ち歩き始めた日から姿を見せなくなった。
彼女が例の交際申込みの差出人である『沢木真里沙』かどうかは分からない。無関係かもしれない。あいにく1年生に知り合いはいなかったので、確かめられず、僕の手紙はいまだ鞄の中に密かに忍ばせられたままだ。
高柳は「自分からコンタクト取ってくるんじゃねーの? それまで放置しとけよ」と言っている。
そのほうがいいのかな、とは思う。無理に渡して何か騒ぎが起きても困る。
校門を出て、いつも夕方には人が消える路地を曲がり、交差点を目指して歩いていた。
「榊原先輩」
不意に、女の声がして、僕の名を呼んだ。
ドキリとして、振り返る。
後ろから声をかけてきたのは、“あの子”だった。
あの地味な眼鏡女子だ。
「…君は、だれなの?」
「沢木です」
へえ、やはりそうだったのか…などと感心している場合ではなかった。
眼鏡の奥から、まったく外見とはそぐわない強い眼差しが僕を捉えていた。
「ああ、君が…」
「…読んでくれましたか?」
当然の質問が、飛んでくる。
「読んだよ」
僕は、彼女を見つめ返した。
「返事を書いたけど、君のことを知らなくて渡せなかった」
「あの…」
「ありがとう。…でも無理なんだ」
僕は鞄の中に手を突っ込んで、彼女に宛てた手紙を出した。
それを手渡す。
「ごめんね。でも、嫌な気はしなかった。はっきりした言葉で書いてくれてたから…」
「…ダメ、ですか…?」
「うん」
僕は口角だけ上げて、うなずく。
「分かりました。ありがとうございます…」
彼女は、僕の手紙を大事そうに自分の手提げ鞄に入れた。
そして、しょんぼりうなだれて、そのまま踵を返し、トボトボと去っていった。
「流伊…」
「…お前の言ったとおりだった。向こうから来てくれた」
高柳が僕の横顔を見つめている。
「全部読んだのか?」
「全部読んだ」
「そうか…」
高柳は、今度は沢木の後ろ姿を見ながら言った。
「大丈夫かな、あの子」
「分からない。大丈夫だと…思うけどな」
「はっきりしてたのか、あの子の手紙」
「うん…曖昧さはなかったよ」
「…ふーん。見かけによらないな」
「そうだな」
雨が、ぽつりぽつりと降り始めた。
あの子は傘を持っていただろうか?
濡れていなければいいが…。
僕らは腕に掛けていた雨傘を天にかかげ、頭上に広げた。
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