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僕は君になりたい。 第16話「ルイのうた 満月の光を浴びる僕」


 #16


玄関に立ちすくんだ僕を見つけた母は、何も言わずに僕を抱きしめた。
瞬きをすると、涙の粒が弾けてまつ毛を濡らし、視界を歪めた。
まだ出勤前の父もやって来て、玄関にうずくまり、僕の靴を脱がし、母と一緒に家の中に僕を誘導した。
姉は既に大学の『早朝ゼミ』があると言って、早くに出ていていなかった。

2階にどうやって上がってきたのか、覚えていなかった。
やはり父が先導してくれたのだろうか。
気づけば、僕はベッドに腰かけ、靴下を今度は母に脱がされていた。父がスウェットを持ってきて、僕を着替えさせている。
僕は無言のまま、されるがまま、人形のように無意志に、ただ息だけをしていた。


なんだ、これ…。


声が出せない。

だけど、胸はいっぱいだから、涙がこぼれる。

父が、僕の頭をしきりに撫でている。

母は、どこかに電話をしている。

ああ…そうか、学校か…。

今日も欠席させると連絡しているのだろう。

…明日は行けるのかな。

高柳が迎えに来ると言っていた。

両親が何かを話しているが、何だかよく聞こえなかった。近くにいるのに、言葉として、はっきり聞き取れない。
波のように込み上げてくるもので、僕の目も耳もおかしくなっているのかもしれない。

「流伊、私の流伊」

母の言葉に、いつもの僕なら、恥ずかしいからやめろと拗ねただろう。
でも、今僕は声を出せない。いつになく真剣な眼差しで僕を見つめる母からわずかに目を逸らすことしかできない。

「私たちが、守るからね。流伊を必ず守るからね、大丈夫だからね」

僕に言い聞かせるように繰り返す。
僕は何となくうなずいていた。
「ほんとに?」
心の中で訊ねる。
声が出せない、出そうとして頑張っても、出ない。
だから、見つめ返すしかない。
母も、その向こうにいる父も、何度もうなずいていた。

守ってくれるって、僕を。
未熟な息子を。
必ず守るって…。


 ☆



僕は病院で「心因性失声症」と診断された。
薬も2週間分処方された。

「失声」だけでなく「失歩」という症状にも一時的にかかり、自主的に歩けなくなった。
歩くのは翌日には何とか歩けるようになったのだけれども、声を出すほうはまだダメで、表情も死んでいた。

カウンセリングと発声訓練をやらされた。

のどに異常はないらしい。

ストレスが原因ということになった。



声が出ない…。

…歌えない。

声が出ない。

歌えない。

声が出ない!

歌えない!!


歌えない!!!


歌えない!!!!


いやだ、

いやだ、いやだ、いやだ、

いやだ…………!!!!!!


歌いたい…。



歌いたいよ…。



僕に、僕の歌を…。

歌わせて…。


 ☆


母が高柳の家に電話をして、今週は休むからと伝えた。

もちろん、僕は高柳の電話番号もメルアドも知っているし、登録もしてある。

しかし、まず電話はかけられない。
声が出せないから。
メールなら出来るだろうと思うが携帯を持つと手が震えてしまう。
だれかとつながることが怖くて、携帯を持つこと自体が苦痛で、画面を見ることも出来ればしたくなかった。
それで、仕方なく、僕は紙切れに「高柳に休むことを伝えてほしい」と鉛筆で書いて、母に電話を頼んだのだ。

そんなとき、僕の携帯を預かっていた母が誠さんからの伝言を僕に伝えに来た。

「毬谷ナギさんの動画を見てほしいそうよ。見る?」

ナギさんか…。

僕はうなずいたが、正直なところ見たくなかった。当然、ナギさんのだからではなく「動画」を見たくなかったのだ。でも、僕の状態を知っている誠さんがわざわざ見ろと言ってくるのだから、何か理由があるのだろう。


母が動画をスタートさせた。


ーみんなァ、元気〜?
『ピンクバタフライ』ボーカルの毬谷ナギです。こんにちは〜♡
いつも応援ありがとうございます♪



オープニングの挨拶だ。

僕はそれを無表情にぼんやりと見つめていた。


ー実はね、私のカワイイ後輩、ま、個人的には「世界一のアイドル」だと思ってるんだけどね(笑)
STAR☆CANDLEの月城琉唯が熱狂的なファンに夜帰宅中つけられてね、家の前で話しかけられて肩に触られるっていう事件があったの。
琉唯は驚いてね、ショックで翌日から外に出られないばかりか、かわいそうに声が出なくなっちゃったんだ。
今は自宅で休んでて、うまくすれば声も数日で出せるようになるって話なんだけどさ、やめてほしいんだよね、こういうの。

自宅前ってさ、もう芸能人の自分じゃなくて、一般人の自分に戻ってる場所なんだ。

そこで、声かけられたってさ。

分かってくれるかな?

やっと仕事終わって、自宅前まで帰ってきて、自分んちのドアを開ける寸前に知らない人に「会いに来たよん」なんて調子よく声をかけられたら…怖いよね?
さらわれたり、襲われる可能性だってある。
それに、家がバレてるんだから、外に出るの怖くなるよね?

ねえ…頼むからさ、1人のときはそっとしといてあげてよ。
まして琉唯はまだ大人じゃないんだ…。
いたいけな中学生で、保護者だっている。
これ、立派な犯罪だよ?

あの子は、今苦しんでる。
声が出せない病気になって、大好きな歌も歌えない状態になっちゃってるんだ。

かわいそうだと、少しでも思ってくれたら、静かに見守ってあげてほしい。
そして、2度とこういうことをしないでもらいたい!

私のカワイイ後輩が、今まで以上に可愛く笑えるように優しく励ましてあげてよ。
あの子をイジメたら、私がただじゃおかないよ!(笑)

ー最後に、ルイルイ。
今は、がんばらなくていいからね。
あんたは、私が嫉妬するくらい、歌うまいんだからさ。
焦るんじゃないよ!


僕のことを、話してるんだ。
僕が声を出せなくなってることを…。
世間に問いかけてる。
そして、やめてと訴えてる。


ナギさんが…。


僕のために。


僕は母から携帯を受け取り、動画を何度も再生して、ナギさんの言葉を聞いた。


「…ありが…とう、ござい…ます…」


ちゃんと音は出せなかったが、僕は息を吐くような声でつぶやいた。

そのとき、手の中の携帯が震えた。
僕はびくっとする。

はたまた誠さんからのメールだった。

ナギさんの動画を止めて、僕はのろのろとした動作でメールを開けた。

「あ…」

空気音だけを出して、僕は少しだけ目を見開いた。
母もそれを覗いて読んだ。

「花岡先生から、曲が出来たという連絡がありました…って、あんたのソロ曲の?」

それ以外の何だというのだろう。
僕は続きを読む。

ー先生が会いたいとおっしゃっています。
いつなら会えそうでしょう?
まだ歌ってもらうわけではないので声は出なくてもいいそうです。
とりあえず、完成した曲を聞いてもらいたいとのことですー


出来たんだ…。
僕の歌が。


聞きたい…!
早く聞きたい!


「流伊、どうする?」

僕は、返信を打った。
それを母に見せる。

「できれば、明後日の土曜日に。それ以外ならば先生のご都合に合わせます。よろしくお願いします」

母が声に出して読む。

「早く聞きたくて仕方ないのね?…ふふ、ちょっとは調子出てきたようね」

僕は何も言わない。言いたくても言えないし…言いたくもなかった。


待ちに待った時が来る。
死んだって会いに行く。
それだけのことだった。


 ☆


アイドルになる前は、歌うことなんか全然好きではなかった。
むしろ、人前で歌うなんて恥ずかしくて、できれば避けて通りたいことだった。

なのに、今はこんなにも、歌うことが好きになって、たくさんの人に聞いて欲しいとさえ思っているのだ。

本当に、革命的な変化だと、自分でも思う。


土曜日ー。


僕は、事務所へと向かっていた。
誠さんが車で迎えに来てくれた。付き添いの母と、僕は後部座席に座った。


1週間ぶりだった。


先生は早めにという約束を守ってくれた。


僕は走り出したい気持ちを抑えて、車から降りる。まだ人前に出て立ち回るのはしんどかったから、隠密のように裏口から忍んで入った。


「琉唯くん。待ってたよ」


花岡先生の微笑みが、僕の心を癒した。

僕は頭を下げて、感謝の意を示した。母が何か言おうとしたのを手で制して、先生が言った。

「お母さんですか? よく似てらっしゃる。素晴らしい息子さんに僕を会わせて下さって、有難うございます」

「いえ、そんな…こちらこそ、お世話になりまして」

「とんでもない。多くの歌手に出会うことは僕にとって宝物が増えていくことなんです…まあ早速でなんですが、私の作った曲を一緒に聞いてください」

先生はピアノの前に座り、軽く咳払いをしてから、弾き始めた。

曲に合わせて、先生が歌った。

高い音は裏声を使い、低音もある。
オペラ歌手のように堂々と大きな声や、囁くような声を駆使し、緩急もあり、早口だったり、伸びやかだったり…。
半音階も多めで技巧的なのに、美しい。


とにかく  "ドラマティック"  なのだ。



これが、僕の…。

本当に?

僕が、歌っていいの?


「お上手ですねぇ…」

母がうっとりとした顔で、バカな感想を口走ったので、僕のほうが恥ずかしかった。


当たり前だろう。


先生は元ミュージカル俳優で主役も張ったこともある一流の歌手だったと誠さんから聞いた。
奥さんの病気で、第一線を退いてからは、作曲家やボイストレーニングの講師として活動しているらしい。

「ありがとうございます。でも、琉唯くんのほうが、もっと上手に感動的に歌えますよ」

(……いや)

買いかぶり、です。

声が出てれば、そう言っていた。
でも、「声が出なかった」ので、僕は唇を少し舐めただけだった。

「どうかな? 気に入ったかい? 琉唯くん?」

無意識のうちに微笑みが浮かんでいた。

ゆっくりとうなずく。
そして、もう一度、今度は意識して、僕は笑う。


「そうか、良かった! ちょっと不安だったんだよ。君が気に入ってくれなかったらどうしようってね」

髪の薄い頭をかいて、先生はほっとしたように僕を見て笑った。


「…さあ、次回から君が、僕に『満月』の明るい光を浴びさせておくれ!」


先生はまたピアノを弾いた。

今度は歌わなかった。


『満月』の光(メロディ)を、僕の全身に浴びせかけるように…。



ただ、音を、鳴り響かせた。



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