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ヲニと考える夜の歌


友達が歌を作ったらしい。

キリマンジャロというバンドが好きな人で、水曜定休のかき氷屋で働いている。

髪も爪もアイシャドウとかもエメラルドグリーンの綺麗な人だ。

勢いがあってちょっと圧が強くてたまにちょっとほんのすこし怖い。

こんな歌だそうだ。

 僕は知りたい! あなたの頭の中を
 ① どんな夜、(あなたは)眠れないのか。
 ② どんな夜、(あなたは)眠れないのか。

 

①と②、どっちの歌詞がいいか選べ、ときた。
これは迂闊に返事すると怖い。


「どんな夜」「どんな夜」、

たった1文字の違いだが、選ぶとなると格助詞「に」「を」の違いを掘り下げる必要がある。

こんな時は、極端な文を作って並べてみるといいらしい。

森山卓郎は『表現を味わうための日本語文法』という本で、こんな例文を作っている。

 ヘリコプターで富士山登る。
 ×ヘリコプターで富士山登る。

 

2つの文の違いについて、森山は次のように言う。

 すなわち、「~を登る」は通る所を表し、山の斜面を通るという意味が出るのです。一方、「~に登る」は行く先を取りあげることになっており、山が目的地となっていればいいのです。
(中略)
 司馬遼太郎氏に『街道をゆく』という本がありますが、『街道にゆく』だと「街道」が目的地になってしまいます。

森山卓郎「表現を味わうための日本語文法」


「登る」を「向かう」にすると、もっとわかりやすいかもしれない。

 富士山向かう。
 ×富士山向かう。

 

つまり「向かう」という行為には、必ず「向かう」べき目的地がくっついている。

ゆえに向かう文には、目的地を示す格助詞「に」でなければならず、「を」は不適切になる。


大変なのは「登る」が「通る」に変わった時だ。

 富士山通る。
 ×富士山通る。

 

通る と動詞に言い切られてしまうと、富士山は目的地ではなく、ただの通過点になってしまう。

よって、この文では通り道を示す格助詞「を」を使うしかなく、ゆっくり富士山の上でおにぎりを食べる暇もなくなる。

格助詞「を」は「に」比べて、常に動きとともにある忙しい助詞なのかもしれない。


もうすこし文を並べてみる。

サカナクションの『夜の踊り子』。

 雨になって何分か後行く 今泣いて何分か後行く
 ×雨になって何分か後行く 今泣いて何分か後行く

サカナクション「夜の踊り子」

先の説明に従うと、

「何分か後行く」は、「何分か後」という目的地に向かって主人公が行く感じ。
目的地を示す格助詞「に」ということになる。

一方「何分か後行く」は、「何分か後」という道すじ・場所を通って主人公が行く感じ。
通り道を示す格助詞「を」ということになる。


この違いは、歌詞にどんな影響を与えるのか。


次は主人公の内に流れる時間に注目しつつ、もう一度見比べてみよう。

 ×雨になって何分か後行く 今泣いて何分か後行く
 雨になって何分か後行く 今泣いて何分か後行く

サカナクション「夜の踊り子」②

なんだか「何分か後行く」とあると、まさに今「何分か後」という空間の只中を、主人公が通って行っている。
そんな感覚がしてこないだろうか。

今ココの場所を離れて、【何分か後】の未来を既に駆け出している。
そんな躍動が「何分か後行く」にはある。
さすがに忙しい助詞である。

一方「何分か後行く」には、まず「何分か後」という言葉に2通りの解釈がある。

時間の流れを捉える前に、それらを整理する必要がある。

その一。富士山の例のように「何分か後」を空間として捉える解釈。

この解釈では、

雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く

 

は、

雨に姿を変えて、『何分か後』へ行く
今泣きながら、『何分か後』へ行く

 

と、言い換えることができる。


そのニ。今までとは別に、「何分か後」を時間として捉える解釈。

この解釈では、

雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く

 

は、

天気が雨になって、何分かしてから行く
今は泣いていて、何分かしてから行く
(なので今はまだここにいる)

 

などと、言い換えることができる。

この格助詞「に」は、目的地を示す「に」のうち、事象が起こる時間を指定する「に」である。

咲きます。
ジャムを舐める。
三年前亡くなりました。

 

その一 そのニ、どちらの解釈にせよ「何分か後行く」は、「何分か後行く」に比べ、
今すぐここを飛び出し駆け抜けるような躍動感・臨場感はない。

むしろ、そのニで表したように「何分かしてから行くつもりだ(なので今はまだここにいる)」と補足することもでき、なんだか主人公がその場にとどまって、モダモダしている感じさえする。

しかしなぜ、サカナクションは「何分か後行く」とするのだろう。

雨になって何分か後に行く」へ繋がる、きっかけ部から考えることができそうだ。

すなわち

① どこへ行こう どこへ行こう ここに居ようとしてる?
逃げるよ 逃げるよ あと少しだけ

間奏後、②へ

② どこへ行こう どこへ行こう ここに居ようとしてる?
逃げても 逃げても 音はもうしなくて

雨になって何分か後に行く
…(略)

間奏後、③へ

③ 行けるよ 行けるよ 遠くへ行こうとしてる
イメージしよう イメージしよう 自分が思うほうへ

雨になって何分か後に行く
…(略)
笑っていたいだろう

サカナクション「夜の踊り子」③

という三つの流れだ。

①では「ここ」にいることに疑問を持ちながら、主人公は あと少しだけ と、逃げ続けている。

それが②の流れで、主人公は、もう自分は「ここ」にはいられないのだ、と悟るのである。
しかしまだ、決心はつかない。
そのまま「雨になって何分か後に行く、今泣いて何分か後に行く」というサビへ突入する。
この「に」は、そのニで示した、事象が起こる時間を指定する「に」である。
主人公は、半ば言い訳のように「天気が雨に変わったら、何分かしたら、きっと行くから」と繰り返しているのだ。

そのまま音楽は盛り上がりの余地を残しつつ、間奏に入る。主人公はまだ考えている。

そして③に至る。

「行けるよ 行けるよ 遠くへ行こうとしてる」
と自分を励ましながら、行くべき場所を主人公は直視する。そして、
雨になって何分か後に行く、今泣いて何分か後に行く」と、己の決意を確かめるように歌い出すのである。
これは「何分か後」が、目的地に変わる瞬間とも言えるかもしれない。
「何分か後」が目的地、行くべき未来に姿を変えたのだ。

青年の葛藤が巧みに表現された曲だと思う。



スピッツの『夜を駆ける』と、YOASOBI『夜に駆ける』。

この2曲などは、「を」「に」のわずかな違いが二つの曲の視点そのものの違いに直結していて面白いなぁと思う。

まずスピッツの『夜を駆ける』、これは曲全体が、夜を駆けている二人の描写となっている。

二人が駆け抜けていく夜、それ自体が、この曲の舞台であり、夜を過ごす二人の視線と息遣い、今この場所、傍らにいる緊張感が、この曲の主題かなと思う。

一方で、YOASOBIの『夜に駆ける』の方は、最後の「二人今、夜に駆け出していく」という歌詞が象徴するように、駆け出した若い二人の目的地として、寂しい寂しい夜がある。

つまり『夜に駆ける』は、「夜」という悲劇的な結末に向けて、極めてまっすぐに曲が進行されているのである。

なるほど、この曲は小説をモチーフにしたのだなということがよくわかる。

さて、ここでようやく友達の歌に戻ろうと思う。

僕は知りたい! あなたの頭の中を
① どんな夜、あなたは 眠れないのか。
② どんな夜、あなたは 眠れないのか。

 

①、②の間にはどんな違いがあるのだろうか。

まず①「どんな夜を」の方の「僕」は、「あなた」が通過している空間として夜に注目している風になっていると思う。

どんな夜の中をあなたは眠れず過ごしているのか

僕は知りたい

 

言い換えると、こんな具合になるだろう。

一方の②「どんな夜に」の方は、「夜」は単なる舞台設定となり(事象が起こる時間を指定する格助詞「に」)、「僕」の関心は、「あなた」という人間そのものにあると言えるかもしれない。

例えばどんな夜だったらあなたは眠れなくなるの

僕は知りたい

 


さて、困った。

「を」と「に」、どっちを選べばよいのだろう…

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