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【小説】ただの世界の住人⑦

「あ、なら、このパンあと一つ買います」

そういって、その女の人は、レジの途中で、パンコーナーから、ひとつパンを持ってきた。

この人は、たまにくる。赤ちゃんを連れてるけど、結構若そう。ちゃんとお母さんやれてんのかな?とふと思ってします。

「ありがとうございました〜」

いつもなら、袋いらないです。と自分のバッグに押し込んでいたのに、今日は、ビニール袋をちゃっかりもらって行った。

ちゃっかり‥

今日の朝、バイトに来ると、店長がいつものように事務所でタバコを煙らせていた。いつか見たドラマの昭和の職員室みたい‥といつも思う。
いつもと同じ毎日がつまらないというけれど、いつもと違うことが起きる日ってのは、結構心臓にくるもんだ。

「今日から、店の商品全部ただになっから、レジ打たんくていいよ」

いまだかつてきいたこともないような言葉を店長が言った。心臓がどっくんどっくんした。

まったく意味不明だが、もう勤務時間になったので、レジ前に立った。
店長も一緒に出てきた。ここは駅前のコンビニだから、今の時間はさほど混んでない。店長が横でつぶやく。

「おまえ、ニュースみたか?」
「え?みてないです」
「今みてみろ スマホで」
いつもなら、勤務中に携帯さわるなとうるさく言ってるのに、またいつもと違う。

—本日より、世界中のすべての紙幣、硬貨は使用不可となり、すべての価格は無料となります。それに伴い、会社、雇用主等から支払われるべく、給与、報奨等も一切なしとなります—

まただ。いまだかつて聞いたこともないことが書いてある。またどっくんどっくんがはじまった。

「店長、僕の給料はどうなりますか?」
「なしだな‥先月分くらいはとか思ったけど、それもなしだな。だって使うとこなくなるんだもんな。」

空を切るような、むなしい会話はすぐとぎれた。

「いらっしゃいませー」

なら、なんで俺は今ここにいるんだ?
もう帰ってもいいのか?だって、レジ打つ必要ないんだろ?もう。勝手になんでも持って行っていいんだろ?
日本人だからなのか?全部ただになってるのに、レジの前にひとは並ぶ。あーまだみんな知らないんだな。隣のレジで店長がなぜか頭をさげながら、 

「今日からすべて無料になりますので、お持ち帰りください」

変なの‥思わず顔がにやけた。

赤ちゃん連れの女の人は、パンを二個持ってきた。
「あの、これ、ただなので、このままお持ち帰りください。」
「え?なんて?」
「あの、今日から世の中からお金がなくなるそうで、パンもただです」
「え?ただなの? あ、なら、このパンあと一つ買います」

小走りに戻り、パンをもう一個持ってきてニコッとした。

「袋にお入れしますか」
「袋もただ?ならお願いします」

エコとかなんとか言ってるけど、結局、有料ならば、もらわないで、ただなら、もらう。本当に環境のためになってんのか?

またどっくんどっくんがはじまった。
なんだか、何かが変だ。僕の中にある何かに、心臓が生まれて、起きあがろうとするみたいななにか。

いつもと同じ場所で、いつもとまったく違う言葉を言う。ただの世界になったとつげていく。いつも通りの人と、ならばと、山のように買っていく人、いや、持っていく人。いつもは買わないものを、ただなら、持っていく心理。理解できん。
いらんもんは、ただでもいらんだろ?
本当にそーなのか?

早くバイトの時間が終わればいいのに‥となぜか律儀に働いていた。心の奥のどっくんどっくんが、変わらず波打っていて、いったいそれがなんなのか、今はまだ知らないでいた。

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