ただの世界の住人11
同僚の秋津は、あの日ー世界からお金がなくなった日ーにさっさっと会社を辞めて、畑のある家を見つけ引越した。なにしろ、敷金や礼金、家賃もないのだから、持ち主との合意さえあれば、好きな場所に引っ越せるのだ。
いや、そもそも、これからは「持ち主」という概念さえ危うくなっていくかもしれない。経済的、はっきりいえばお金のやり取りがそこに存在しないのだから、なにかを所有するというメリットもデメリットもなくなるのでないか?と思う。
あの日からすでに1ヶ月はすぎたが、僕は勤めていた電化製品をつくる会社になんとなく毎日来ている。ほかにやることも思いつかないからだ。
今までの取引先に会いにいったり、メンテナンスの工事を手配したりと、やろうと思えばやることはある。そこに料金や支払いが存在しないということが、不可思議な感覚ではあったが、なぜか何かが心地よい。はっきりいって楽だ。仕事をしてる感覚がない。
やることは自分で決めることになる。売り上げ目標もなければ、取引先の予算もない。商品を売ろうと売るまいと、だれもなにも気にすることがない。必要なところに必要なものを必要なだけ手配するのみ。
いったい今までの世界はなんだったのか?毎月の月末の追い上げに胃をキリキリさせ、納期を守るために残業の毎日。
そして、振り込まれた給料で、憂さ晴らしに酒を飲みに行き、給料日まえには、食費を削って暮らす日々。
この先の未来とか、考えたこともなく、いや、考える余裕もなく、ただ、その日その日をこなしていく作業のような毎日であった。
そんな日々に突然起きた世界的な大変化。なくなるはずのなかった「お金」のシステムがなくなったのだ。すべてがただになった世の中。僕はこの先いったいどうしていったらいいのかと、以前とは全く違う思いで、未来が不安になってきていた。
週休2日という制度も、今や会社はあいまいだ。給料という対価がないわけだから、月に何日働こうが個人の自由である。そうはいっても、決めておかないと自分がどうなっていくのかわからないので、僕は一応土日のみ休むことにしていた。本当に自分とは、ルールに従うことが大得意の真面目人間なのだな‥というどうしようもない切ない思いにかられる。
今日は金曜日。明日は休みだ。今までなら、金曜の夜は呑みに行って、土曜日の昼過ぎまで寝る。頭もぼーっとカラダもだるい。すでに夕方近くなったころ、近所のコンビニに行き、お弁当やら、お菓子やジュースを買い込んで、あとはスマホで動画を見まくる。ほかにしたいこともなければ、あったとしても、気力体力財力のどれもが足りないので、いいよなー!とそれを実現している動画の中の人たちを羨むのがルーティンであった。
今は平日のストレスがめっぽう減ったせいなのか、自分でも信じられないくらいの気持ちがわいて出てくる。
明日は休みだ!さて、どこかに行こうか?あー!富士山が見たいな!とふと思う。ならば、見に行こう!
そんな軽いフットワークになれるのも、ガソリンもただだし、高速道路もただ。外食さえただなのだ。
そして、なによりカラダが軽い。だから、動くのだ。かつて、休みの日にどこかに行こう!なんて、思ったことがあったろうか?近くの川にさえいく気もなければ、とにかくカラダのエネルギーを少しでも使わないようじっとしていることしか考えていなかった。
僕は、俄然、明日が楽しみになり、さっさっと会社を出て、家に帰り、早々に眠りについた。
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