【小説】#ジャズ喫茶「ジス・イズ」にて(ショートショート)

「マスター、ミシェル・ペトルチアーニの演奏って元気になりますね」
タケヒサは、言った。
悪魔のように美味いコーヒーの匂いが、漂う。
ここは、ジャズ喫茶「ジス・イズ」。北海道・道東地区の某所にある老舗である。

――片田舎のジャズ喫茶だと侮るなかれ。この店には、サックスの渡辺貞夫やピアニスト山下洋輔など大御所がやってくる。演奏時は、超満員である。

ジャズは、まだ生きている。マイルス・デイビスや、コルトレーンに胸をときめかせた孫の世代にまで、モダンジャズの精神は引き継がれている。

「ペトルチアーニは、先天性心疾患を抱えながら、あれほど激しいピアノの演奏をしている。パッションが飛び散っているとでも言えばいいのかな」
「凄いですよね。ガラスのようにもろい骨――骨形成不全症の為に、かなり小柄だったみたいですね。凄いよな。かっこいいな、ペトルチアーニ」
「これは、ブルーノート東京での演奏だ。ジャケットに、マイク仕込んで隠し撮りした。だから、タケヒサ君にしか聞かせたことがない」
「え、そうなの」

「この音源のこと、誰にも言っちゃダメだよ。さすがに、ジャズ喫茶の店主が、隠し撮りしちゃ問題だと思うからさ」
マスターはいたずらっぽく笑った。
「で、ペトルチアーニは、この1997年11月のブルーノート東京の来日公演を最後に亡くなったんですよね。来日する予定だったので、僕はチケットも予約していたんです」
「タケヒサ君、あの公演を楽しみにしていたからね」
「ええ。まだ一度も、生でペトルチアーニの演奏を聞いたことがなかった。生演奏を聞く前に、レコードやCDで聞けるオトは、全部聞いておこうと思って。聞きこんでいる矢先の訃報でした」
マスターは、その時初めて、この隠し撮りした音源を聞かせてくれたのである。

タケヒサは、マイルス・デイビスもコルトレーンも、生で聞いたことはない。ジャズと出会った頃、彼らは、天国の住人となっていたから。

「マスター、お疲れ様でした」
「じゃあ、また来てね」
マスターは、優しくドアを開けてくれた。

――タケヒサは、こうして北海道・某所にある「ジス・イズ」を後にしたのだった。

※「ジス・イズ」のマスター・ご冥福をお祈りいたします。
今やマスターは、マイルス・デイビスやコルトレーンのいる国へと旅立ったレジェンドの一人です。

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