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「アプロディーテー讃歌」序文のギリシア語解説

このnoteの写真は、わたしがギリシア旅行に行ったときに撮影したものです。この像は愛の女神アプロディーテーに牧神パーンが激しくアプローチしている様子が描かれており、パーンの角をエロースがつかんでいます。このようにアプロディーテーは愛の力で人々のみならず神々もまた支配する、ある意味おそろしい女神であることがわかります。エロース(愛)といえば、ロンゴス『ダフニスとクロエー」にこんな言葉があります。

この世に美しいものがあるかぎり、眼がものを見るかぎり、エロースの手を逃れた者はかつてなく、これからもありえぬ

松平千秋訳ロンゴス『ダフニスとクロエー」、岩波書店、1987年

ギリシア語中級への道——『ダフニスとクロエ』をギリシア語原文で読むという記事も書きましたので併せてご覧ください。

「讃歌」とは

作者

「アプロディーテー讃歌」をご存知でしょうか。「讃歌」(英語ではhymn、ギリシア語ではὕμνος)というのは「ホメロス讃歌」と呼ばれる全33篇の詩で、「アプロディーテー讃歌」はその一つです。「ホメロス」と付されている通り、『イリアス』や『オデュッセイア』と同じ韻律で創られていますが、「讃歌」の作者は『イリアス』や『オデュッセイア』の作者とは異なると言われています(※)。『イリアス』の解説noteはこちら、『オデュッセイア』の解説noteはこちらです。

(※)しかし、『イリアス』と『オデュッセイア』もまた、作者が異なるという論もあります。その立場からすれば、『イリアス』の詩人はホメロス、『オデュッセイア』の詩人は別の者、ということになります。これは「ホメロス問題」と呼ばれるホメロス研究上のおおきな問題で、学者によって立場は異なります。「ホメロス問題」に関しては佐野好則(2019)「ホメロス問題:口誦詩理論と新分析派を中心に」, 川島, 古澤, 小林編『ホメロス『イリアス』への招待』,ピナケス出版, 51-69 ページがわかりやすいです。

なので、「讃歌」の作者はホメロスに代表される叙事詩の伝統に精通した詩人(ないし詩人たち)と言えます。

「讃歌」の内容

「讃歌」は文字通り神々を讃える歌で、「アプロディーテー讃歌」(讃歌第五番)はアプロディーテーを、「アポローン讃歌」はアポローンを、「ヘルメース讃歌」はヘルメースを、「デーメーテール讃歌」はデーメーテールを歌います(この4篇は「讃歌」の代表格で、逸身喜一郎・片山英男訳『四つのギリシャ神話』に収録されています。また、ホメロス讃歌の全訳は沓掛良彦訳『ホメーロスの諸神讃歌』があります)。

ちなみに「デーメーテール讃歌」については、佐藤二葉さんの美しい文章で紡がれた論考がありますのでそちらをご覧ください。

佐藤二葉さんが紹介されているように、「デーメーテール讃歌」はデーメーテールという豊穣を司る女神とその娘ペルセポネーをめぐる物語です。そう、わたしたちが「ギリシア神話」と聞くときに思い浮かべる神話です。「アプロディーテー讃歌」も同様に、単にアプロディーテーを讃えるのではなく、アプロディーテーにまつわる神話を歌い上げます。その神話は、以下のようなものです。

「アプロディーテー讃歌」あらすじ

「アプロディーテー讃歌」の中心となる物語は、愛の女神アプロディーテーが人間(!)であるアンキーセースに恋をして誘惑し子どもを身籠るという神と人間との愛(!)です。その子どもはアイネイアースと呼ばれる英雄です。構成は以下のようになっています。

1-52. 導入(1-6: 序文)
53-199. アプロディーテー、アンキーセースを自らは人間であると偽って誘惑。同衾。その後にアプロディーテーは自身が神であることを明らかにする。
192-290. アプロディーテーによる将来を予見することば。
291-3. 締めくくり・次の讃歌へのつなぎ 

Faulkner, A. (2008) Homeric Hymn to Aphrodite: Introduction, Text, and Commentary (Oxford: Oxford University Press), 1-3. をもとに改変。

本noteではこの序文の一部分を解説し、この讃歌をご紹介いたします。

「アプロディーテー讃歌」ギリシア語解説

1-6.
Μοῦσά μοι ἔννεπε ἔργα πολυχρύσου Ἀφροδίτης (1)
(mū sa moi / en ne pe / er ga po / lu khrū / sou a phro / dī tēs)
*aphroditeのphrは短く読みます。
Κύπριδος, ἥ τε θεοῖσιν ἐπὶ γλυκὺν ἵμερον ὦρσε (2)
(kup ri do / sē te the / oi si ne / pig lu ku / hī me ro / nōr se)
καί τ᾽ ἐδαμάσσατο φῦλα καταθνητῶν ἀνθρώπων (3)
(kai te da / mas sa to / phū la ka / tath nē / tōn anth / pō pōn)
οἰωνούς τε διειπετέας καὶ θηρία πάντα, (4)
(oi ō / nous te di / ει pe te / ās kai / thē ri a / pan ta)
ἠμὲν ὅσ᾽ ἤπειρος πολλὰ τρέφει ἠδ᾽ ὅσα πόντος· (5)
(ē me no / sē pei / ros pol / la tre phei / ē do sa / pon tos)
*la tre phei: la はtr の前で長く、tre は短く、phei は母音の前で短い。
πᾶσιν δ᾽ ἔργα μέμηλεν ἐϋστεφάνου Κυθερείης. (6)
(pā sin / der ga me / mē le ne / u stre pha / nou ku the / rei ēs)

Faulkner, A. (2008) Homeric Hymn to Aphrodite: Introduction, Text, and Commentary (Oxford: Oxford University Press)より

(1)
Μοῦσά:Μοῦσα, 女性名詞, 単数, 主格/呼格。「ムーサ」。この名詞の場合、主格と呼格は同じ形なので、文脈から判断しなくてはなりません。ここでは呼びかけなので呼格。

μοι:ἐγώ, 人称代名詞, 単数, 与格。「わたし」。

ἔννεπε:ἐνέπω. 動詞, 命令法, 能動相, 二人称, 単数, 命令, 現在。「語る」。動詞が命令法なので、さいしょの Μοῦσά は呼格であると判断できます。

Μοῦσά μοι ἔννεπε:ムーサよ、わたしに語ってください

ἔργα:ἔργον, 中性名詞, 複数, 主格/対格。「仕事」「なしたこと」。中性名詞は主格と体格が必ず同じ形になるので、これも文脈から判断しなくてはなりません。ここでは ἔννεπε の目的語なので、対格であることがわかります。

πολυχρύσου:πολύχρυσος. 形容詞, 女性, 単数, 属格。形容詞は必ず形容する名詞に性・数・格が一致します。
πολυ-(<πολύς「多くの」)+χρυσός「金」→「金に富んだ」。本詩ではアプロディーテーに付される枕詞<エピセット>。

Ἀφροδίτης:Ἀφροδίτη, 女性名詞, 単数, 属格。「アプロディーテー」。

(2)

Κύπριδος:Κύπρις, -ιδος. 女性名詞, 単数, 属格。「キュプリス」。キュプリスはキュプロス島(Κύπρος)にちなむアプロディーテーの別名で、ここでは Κύπρις Ἀφροδίτη「キュプリス・アプロディーテー」という同格で表されています。 

ムーサよ(Μοῦσά)わたしに(μοι)語ってください(ἔννεπε)、黄金に富む(πολυχρύσου)キュプリス・アプロディーテーの(Κύπριδος Ἀφροδίτης 
)ことごとを(ἔργα) 。

ἥ:ὅς, ἥ, ὅ. 関係代名詞, 女性, 単数, 主格。ここではもちろん、アプロディーテーを先行詞としています。

τε:これは epic τε と呼ばれるもので、アッティカ方言の τε とは異なる用法です。訳には反映されませんが、一般化する力を持っています。

θεοῖσιν:θεός, 男性/女性名詞, 複数, 与格。

ἐπὶ:前置詞。

γλυκὺν:γλυκύς. 形容詞, 男性, 単数, 対格。「快い」。

ἵμερον:ἵμερος. 男性名詞, 単数, 対格。「熱望」。

ὦρσε:ὄρνυμι. 動詞, 直説法, 能動相, 三人称, 単数, アオリスト。「掻き立てる」。

かの女神は(ἥ)神々(θεοῖσιν) のあいだに(ἐπὶ)甘い(γλυκὺν)熱望を(ἵμερον)掻き立てる(ὦρσε)

(3)

καί τ᾽:καί τ(ε). 次の単語が母音で始まっているので、ε が落ちています。これを母音省略(elision)と言い、省略していることをアポストロフィで示します。 A καί τ(ε) Bで「A and B」。

ἐδαμάσσατο:δαμάζω. 「支配する」。直説法, 中動相, 三人称, 単数, アオリスト。このアオリストは「格言的アオリスト」(gnomic aorist)と呼ばれるもので、過去の意味ではなく、バシっとキメる効果(『イリアス』解説noteで引用した、高津春繁の『イリアス』1.218への注を引用すると、「真理を示す」)を持っています。

格言のアオリストは、たとえば『イリアス』にはこのように登場します。

ὅς κε θεοῖς ἐπιπείθηται μάλα τ᾽ ἔκλυον αὐτοῦ.
お言い付けに従う者の願いごとは、神々も聴いて下さる(筆者注:κλύω
のアオリスト)のですから。(松平千秋訳ホメロス『イリアス』(上)、岩波書店、1992年)

『イリアス』1.218  Perseusより引用



φῦλα:φῦλον, 中性名詞, 複数, 主格/対格。「種」。中性名詞は主格と対格が同じ形なので文脈で判断しなくてはなりません。ここでは ἐδαμάσσατο の目的語なので、対格です。

καταθνητῶν:καταθνητός. 形容詞, 男性, 複数, 属格。「死すべき」。

ἀνθρώπων:ἄνθρωπος. 男性名詞, 複数, 属格。「人間」。

また(καί τ᾽)支配する(ἐδαμάσσατο)死すべき(καταθνητῶν)人間たちの(ἀνθρώπων)種を(φῦλα)

(4)

οἰωνούς:οἰωνός, 男性名詞, 複数, 対格。「鳥」。

τε:A τε B καὶ…「A and B」。

διειπετέας(他の読みではδιιπετής):διειπετής. この単語はどういう意味かについて論争があり、①διι「ゼウスから」+πετής(<πίπτω)「落ちた」→「天から遣わされた」、②πετήςをπίπτωではなくπέτομαι「飛ぶ」に由来すると解し、「空を飛ぶ」という意味にとる説がある(Cf. Faulkner, A. (2008) Homeric Hymn to Aphrodite: Introduction, Text, and Commentary (Oxford: Oxford University Press),(以下 Faulkner 2008) ad loc.※)。形容詞。男性, 複数, 対格。

※ad loc. はラテン語の ad locum. の省略で、「この行への注釈を見よ」という意味。

καὶ:A τε B καὶ…「A and B」。

θηρία:θηρίον, 中性名詞, 複数, 対格。「獣」。

πάντα:πᾶς. 形容詞, 中性, 複数, 対格。「すべての」。

空飛ぶ(διειπετέας)鳥たち(οἰωνούς)も(τε)も(καὶ)獣たち(θηρία)すべてを(πάντα)[支配する]

(5)

ἠμὲν:ἠμὲν A ἠδε B「AもBも」。

ὅσ᾽ (α):ὅσος. 関係代名詞。中性, 複数, 対格。ここではθηρίαを先行詞としてとっており、「獣たち」を説明しています。

ἤπειρος:ἤπειρος. 女性名詞, 単数, 主格。「大地」。

πολλὰ:πολύς.「多くの」。形容詞, 中性, 複数, 対格で副詞的に 'to a great extent, much, greatly'の意(Cf. The Cambridge Greek Lexicon

τρέφει:τρέφω. 「育む」。直説法, 能動相, 三人称, 単数, 現在。

ἠδ᾽:ἠδέ. ἠμὲν A ἠδε B「AもBも」。

ὅσα:ὅσος. 関係代名詞。中性, 複数, 対格。

πόντος:πόντος. 「海」。男性名詞, 単数, 主格。

また(ἠμὲν)いかのほどの(ὅσ᾽)[すなわち]大地が(ἤπειρος)また(ἠδ᾽)いかほどの(ὅσα)[すなわち]海が(πόντος)多くの規模で(πολλὰ)育む(τρέφει )ほどの[獣たち]

(6)

πᾶσιν:πᾶς. 「すべての」。男性, 複数, 与格。ここでは「すべての(いきもの)」の意。

δ᾽:δέ.「そして」。

ἔργα:ἔργον. 「わざ」中性名詞, 複数, 主格/対格。ここではμέμηλενの主語なので主格。

μέμηλεν:μέλω.「(与格)にとって関心ごとである」。直説法, 能動相, 三人称, 単数, 完了。この完了はintensive perfect(Cf. Faulkner 2008, ad loc.)と呼ばれるもので、現在形と意味は変わらない。
ここでἔργαが主語なのに三人称単数になっているのは、中性名詞の複数が主語の時動詞はふつう単数になるため。

このルールはしばしばΤὰ ζῷα τρέχειルールと呼ばれるそうです。水谷文法の練習5の(6)から、個人的にはτὰ δῶρα πείσειルールと呼びたいところです。

ἐϋστεφάνου:ἐϋστέφανος. ἐϋ「よき」+ στέφανος「王冠」→「よき王冠の」。形容詞, 女性, 単数, 属格。

Κυθερείης:Κυθέρεια. 女性名詞, 単数, 属格。Ἀφρόδιτηの別名。「キュテレイア」。

そして(δ᾽ )よき王冠の(ἐϋστεφάνου)キュテレイアの(Κυθερείης)わざは(ἔργα)すべての[いきもの]にとって(πᾶσιν )関心ごとである(μέμηλεν)

直訳


ムーサよ(Μοῦσά)わたしに(μοι)語ってください(ἔννεπε)黄金に富む(πολυχρύσου)キュプリス・アプロディーテーの(Κύπριδος Ἀφροδίτης 
)ことごとを(ἔργα) 。かの女神は(ἥ)神々(θεοῖσιν) のあいだに(ἐπὶ)甘い(γλυκὺν)熱望を(ἵμερον)掻き立てる(ὦρσε)。また(καί τ᾽)支配するのだ(ἐδαμάσσατο)死すべき(καταθνητῶν)人間たちの(ἀνθρώπων)種を(φῦλα)、空飛ぶ(διειπετέας)鳥たち(οἰωνούς)も(τε)も(καὶ)獣たち(θηρία)すべてをも(πάντα)——[その獣たちというのは]また(ἠμὲν)いかのほどの[獣たちである](ὅσ᾽)[すなわち、]大地が(ἤπειρος)、また(ἠδ᾽)いかのほどの[獣たちである](ὅσα)[すなわち]海が(πόντος)多くの規模で(πολλὰ)育む(τρέφει )ほどの——そして(δ᾽ )よき王冠の(ἐϋστεφάνου)キュテレイアの(Κυθερείης)わざは(ἔργα)すべての[いきもの]にとって(πᾶσιν )関心ごとである(μέμηλεν)。


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