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天地(あめつち)の宮柱

【記録◆2024年4月12日】①

 奈良県の大きな地図を買い、行った所に付箋ミニ(25×7.5mm)を貼っていたのですが、広げておけない大きさだから、付箋の多い部分だけを残して折りたたみ、最北端と最南端の市町村は表に出せませんでした。

 ハタキをかける方向に気をつけても付箋は剥がれるから、画鋲に替えようと考え、大きなコルクボード(高さ90cm×幅60cm)に地図を貼りつけて、「行った印」を差したら、透明な丸ピンが角度によっては光球のよう。

 縄文の神々との交感が各地で小さな灯を点したように感じられました。

分県地図(奈良)

 西の県境の「光球が固まっている所」が、最初の都となった御所市。

「島根の出雲」で副王の「事代主(コトシロヌシ)が亡くなった後、妃の「活玉依姫(イクタマヨリヒメ)」は子どもたちと実家(大阪府高槻市)に帰りました。地図の左上あたりです。

 息子の「奇日方(クシヒカタ)」は成長すると、新しい王国をつくるため「大和」に移住したのですが、北西の県境が近いのに、南西の葛城山東麓を選んでいます。遠くても大きな川を船で行くほうが速かったのでしょうか。

 当時の大和盆地は中央が沼地で、高台にしか住めませんでした。
 たくさんの一級河川が盆地を横切っているため、現代でも橋がなかったら移動できません。

 それでも、大阪の川を遡って「巨椋池(京都)」を通り、木津川を遡って大和盆地に入ったのなら、なぜ、そこから最も遠い南西を目指したのか。

『隕石の落下で消滅した都が交野にあった』という話を思い出しました。
 それを知ったときは、「交野市(大阪府)との間には生駒山があるのに、奈良側まで一瞬にして消滅したのはなぜ?」と不思議に感じたのです。

 大和盆地中央から見える生駒山は、手前に矢田丘陵があるためか、奈良の防護壁となってくれる、とおもえるほど高く感じられます。

 しかし、隕石が落ちてきた方向を知り、「妙見山の山頂に激突しなければ県境を越えてきたかもしれない」と判りました。

 行方不明になっていたスウィフト・タットル彗星を再発見して全世界から注目を浴びた方が、落下地点を中心として2000度近い熱のドームに覆われたと推測なさっています。

 大阪側は、クシヒカタが成長した場所も含まれていました。
 しかし、隕石が落ちたのは何百年も後。

 そこで、「クシヒカタの妹たちに、大和の初代の大王と、その次の大王が婿入りした」と思い出しました。当時は母系社会だったため、三輪山祭祀のヒメミコの能力と人気を、大王たちは力の源としていたのでした。

「活玉依姫(イクタマヨリヒメ)」の娘たちは祭祀能力が高かったのです。
 未来を視る力もあったのでは。

 現代に生きるわたしにさえ、その力は微かに備わっています。
「何にも動じないひと」と、医師から名づけられたのは、医療過誤によって生死の境界を超えても半身をこちらに残し、淡々と数時間を過ごしたため。

 数時間前には、「なにひとつ問題はありません」と診断されていたのに、何日も前から周囲に、「命を落とすけれど生き返ってくる」と伝えていて、医療者たちが希望を捨てた後も、自身の予知に支えられ続けたのでした。

 予め知ったところで変えることはできません。
 でも、それまでにできることはあります。予知と現実が重なった時には、ひとりだけでも冷静に対処できます。

 母系社会の女性は敬愛されていたため、ヒメミコは本来の力を発揮して、社会に貢献できたのでしょう。

(わたしは、スマホやテレビを持たないので五感の妨げになる物が少なく、古代人が日常に使っていた力で身体障害を補っているのかもしれません。)

 さて、「大和のヒメミコとなるほどの霊力」を持っていた妹たちが未来を視たのか、兄のクシヒカタは、「後に隕石の落下で消滅する所」から大勢を引き連れて、生駒山地より南の金剛山地(東麓)に移住します。

 隕石に山頂が吹き飛ばされた「妙見山」では天体観測をしていたのかも、という話も思い出しました。スウィフト・タットル彗星が巡ってくるのを、観測していたのかもしれません。隕石の落下までは都を機能させるため。

 現代では、彗星のかけらが隕石となって落ちる日時と場所は正確に計算ができるそうです。
 日時まで予言されている出来事には、天体が関係しているのかも。

 1992年にスウィフト・タットル彗星を再発見された方はコンピューターを使わず、電卓と大型双眼鏡での眼視によって他にも彗星を3つ発見なさったとのこと。優れた能力の日本人は古代には、さらに能力が高かったのでは。

「その時は数百年先」と知っても、クシヒカタは新王国を創ったでしょう。
 何代も先の子孫まで慈しみ、その住処を準備するため。

 そして、「穴師山」に葬られ、「三輪山」に祀られたとしたら(わたしの想像です)、落ちてくる隕石はそこから、天地の宮柱のように見えたはず。
「妙見山の山頂が吹き飛んで落ちた地点」の延長線状なので。

 その線上に、「初代の王」より前に大和をおさめていた「ニギハヤヒ」の墳墓があります。出雲の伝承では、「ニギハヤヒ」を名乗った人物は九州で没していますから、その人物の墓所があるとしたら「吉野ケ里」でしょう。

 ですから、実際に「初代の王」より前に都を造ったクシヒカタが、大和で慕われているのかもしれません。「ニギハヤヒは、遺体を残さなかった」と言い伝えられているのは、「消滅した都からの移住は完了していた」という比喩だと考えもします。

 もしくは、「ニギハヤヒを名乗った人物」の血を引く「初代の大王」か、その子孫が、「決して上書きされない歴史」として残されているのかも。 
 歴史は、隠されても消されません。地層のように底で残っています。

◇星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)◇

隕石が落ちた所
実際は535年に落下

 日本の過去は、各所で年代が変えられているようです。
 この方も本では、隕石が落下したのは535年、とおっしゃっています。

 水量がごく少ないため、瀧巡りの行き先としては考えていませんでした。
 隕石に削られた岩盤の前へ行きたかったのです。

 先に写真を載せましたが、ここまでのバリアフリー状況を書きます。 
 インターネット内には情報がありませんでしたので。

「順路」だと『登龍の瀧』は、『星田妙見宮』の最終地点であるよう。
 山頂の社まで山道なら二本杖で行けるのですが、整った階段であるため、わたしのような「機械的な動きを繰り返せない脚」では参拝できません。

 インターネットで「境内図」を見つけ、参道入口から真っすぐ進めば瀧に行けると判りました。でも、2019年に参道も整えられたため、「舗装道だと角度が合わない脚」には歩けない距離。

隕石で馬蹄形に

 そこで、「参道が石畳なら、COGY(足こぎ車いす)で行けるのでは」と気づいたのです。確かめてみて、進めなかったら引き返せばいい。

 古い神社の石畳だと、長年の往来によって石が傾いているため、すぐさまキャスターが引っかかって進めないけれど、インターネットで見たかぎり、『星田妙見宮』の参道は滑らかでした(新しいと、後で判りました)。

参道石畳(2019年完成)

 これだけの参道を奉納なさった方々に深く深く感謝いたします。
 おかげさまで、ずっと先まで「COGY(足こぎ車いす)」で行けました。

 どこへ行っても、すれ違う方には挨拶をします(会釈だけでも)。今回は車椅子を漕ぎつつ、「逆からで、すみません」と伝えると、皆さんが笑顔を返してくださいました。

車椅子から見上げて

「麓の参道」だけは順路の表示も無いので、瀧まで車椅子で逆走していると気にしなくてよいのかも。

吹き飛んだ部分か
順路の入口

 麓から見える範囲で、この段数。右折した先で、何倍も階段が続くはず。
 幅が狭いため、二本杖を左右に突く余地もないでしょう。後から来た方に道を譲る余地も。

 山頂にある『青龍社』に行ってみたかったけれど、『登龍の瀧』で右側を見たとき、『金色龍王社』に気づいて嬉しくなりました。
「金色の龍王さま」には挨拶ができるから。

星田妙見宮の空Ⅰ
星田妙見宮の空Ⅱ
星田妙見宮の空Ⅲ

 山頂の神さまに麓から挨拶を差し上げて、次は、「隕石で吹き飛ばされた岩が落ちた先」へ向かいます。

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