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千杉白龍大神

【記録◆2024年6月25日】②

◇千杉白龍社(ちさんはくりゅうしゃ)◇

「雨の日にも行きやすい場所」として、こちらを先に考えていました。
 地図を見て、『龍王ヶ渕』にも同じ日に行けそう、とおもったのです。

 近くの郵便局の電話番号をナビに入れ、次は、「信号」を目印にします。
「山奥のハイウェイ(信号の少ない国道や県道)」では、「点滅信号の先」といった情報が貴重。

千杉白龍社

「かみさま、撮らせていただきます」と、お願いをしました。

 入ってはいけない神域には入りません。
 古木は特に、根を踏んで弱らせてはなりません。

高井の千本杉

 古井戸の周囲に植えられた数本の樹が、ひとつになっています。

中央は空井戸

 現在、すぐ横に別の井戸が作られていて、
『高井千本杉の杉井戸水』は、「奈良の名水百選」に指定されています。

南東側に井戸

 このあたりは私有地ですので、ひとにも失礼のない振る舞いが必要。

樹高45m 幹周り25m

 背後の高い所に道があるようなので、いま居る所の先から上りました。

振り返って

 水の豊かな場所だから、道も美しく彩られるのでしょうか。

後ろ側から

「かみさま、後ろから失礼いたします」と、挨拶をしました。

説明版

 環境省『巨樹・巨木林データベース』では、「幹周/25 .0m、樹高/45m、樹齢/約700年」となっているそうです。

 御神水をいただかなくても、こういった場では、大気に漂う清らかな水を吸い込むだけで充分。

 帰宅後、「耐え難い不具合を軽減する方法」をおもいつきました。 

 骨には(先天性の障害があっても)痛覚がないため、激痛は、その障害を補い続ける筋肉に生じます。それで、わたしはゴムチューブやゴムテープを巻きつけて、「骨を補っている筋肉」をさらに補っているのです。

 舞台で踊るときには、12ヶ所に巻いていたのですが、「動かない部分」の両側で「障害の無い部分」を繋ぐことにもなっていると後に気づきました。

 後天的な不具合(周囲の過失や悪意によって増え続けた)が進行したため「命の終わり」を視野に入れ、衣類だけではなく「補装具」も新調を止めていたけれど、ゴムチューブ(4m)を2本、数日前に新しくしたのです。

 筋肉の痛みであれば、「強い筋肉痛が365日続いている」と捉えることも可能ですが、補い切れなくて神経の痛みになると、生きる力を削がれます。痛む所に体重をかけられないから、動作はいっそう不自由になります。

 長く生きることに執着しないのは、命が終われば痛みも終わるから。
(重病でも長く生きるのは生に執着しない者だと聞きもするけれど。)

 先天性の障害があると判って身体障害認定を受けたとき(46歳でした)、
「若いうち不自由になって、これから、どうするつもりか」と詰問され、
「きょうが生きられたら、明日も生きられるでしょう」と答えました。

「きょうの終わりまで、苦痛が少ないように」と、いまは願います。

「8メートル分のゴムチューブ」を新しくしても神経の痛みが消えなくて、「生きることを休みたいなぁ」と呟いていたのですが(淡々と)、
「肋骨に補助を入れたら?」とおもいつきました。

 頭の天辺から踵まで「自作の補装具」で補っていても、胴の装具の上端は肋骨の下でした。それより上方、肋骨の下半分を幅広のベルトで縛ったら、脚の激痛が消えたのです。いえ、頭から足先までの神経痛が。

 それは、たぶん、わたしが上半身を使って下肢を動かしているため。
(踊るときも、腕の勢いで身体を浮かせて、脚に体重をかけません。)

 ずっと前、鍼灸院で、「ひざを上げてください」と何回も言われるから、「上げていますが?」と答えると、「あなたは、腰で上げているのです」と教えられました。

 いまは、「COGY(足こぎ車いす)」を使わないときには、腕の力だけで進んでいますが(T字杖2本を使って)、左右の脚は、肋骨あたりを使って「両腕という前脚」に付いていかせていたのでした。

『龍王ヶ渕』や『千杉白龍社』にいらっしゃる「龍の神さま」が気づかせてくださったのでしょうか。

◇◇補足◇◇
「病院へ行かない理由」は、しばしば書いていますが、ここに追記します。

〇数十年前、尋ねもしないのに、「妊娠はしないし、しても流産します」と教えられたけれど、その9ヶ月後に頑丈な子どもを出産。

〇出産後、「次の子は3歳違いで」と話したら、「あなたには無理です」と教えられたけれど、3年後に頑丈な子どもを出産。

〇15年前、専門家による検診で、「お子さんたちは養子ですか」と訊かれ、
「実子ですが?」と答えたら、「身体は未産婦です」と不思議がられた。

「たったひとつの科」でさえ、複数の医師たち全員が誤診をしたので、命を委ねる気にはなれないのです。
「複数の科」の誤診や医療過誤については、他の記事に書いてきました。

 余命の宣告も、この世に生まれてから1回も当たったことがありません。
 それで、どのような病状があっても、家族にも知らせず、一段落してから経過と結果を伝えるようにしています。

 医師の「宣告」も、関わるひとたちの「心配(善意)」も、言葉となって入ってこないから、自己治癒力が少しも縛られずに動けるのでしょう。

 生前整理を済ませたときには、「頭か身体が弱ってきたら知らせよう」と決めたのですが、通院も入院も、検査も治療も手術もしないためか、時間と体力と気力がすべて「日々を生きること」に回せているよう。

 子どもたちには、「リビングウィル」の書類の在処だけを知らせました。
 想いは『note』に書いているから、誰にも「伝え残すこと」は無いはず。

 身軽になったので、この身をずっと未来まで運べるかも。

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