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ことあるごとに読み返したくなる短篇小説――「親友交歓」(太宰治)

*マガジン「読み返したくなる短篇小説」バックナンバー

 書く、という仕方で嫌な奴のことを表現するのはすごく難しいと思う。「こんな奴がいたのだ」と友人や家族に話すのであれば簡単だ。周囲が共感してくれるようならその嫌さをどんどん並べていけばいいし、反応がいまいちなら話をひっこめればいい。微調整しつつ話すうちに、嫌な奴のことがますます嫌になったり案外そうでもなかったと思い直したり、いろいろ新たな発見もあるだろう。でも、書くとなると難しい。書く時には誰もが絶対に一人きりだから、とにかく誰がなにをどう思おうと関係なく「こんなに、こんなふうに嫌な奴なのだ」と書いてみるしかない。そして書けたとして、嫌さがどのくらい正確に表現できたのか、できたとして、それがどのくらい意図した通りに読み手に伝わるのか、そういうのはまったくわからない。

 わからなくてぜんぜんいい、というかそれどころじゃないよー、という感じで太宰治は「親友交歓」を書いたのではないか。話す時、人は話しながら周囲の他人の合いの手や頷きや唸り声や笑いの助けを得て、あるいはもともとお互い共有している知識や体験や関係性に頼るなどして正確な表現や共感し合える部分、落としどころをがんばって探るわけだが、あの「親友」がそんなことをつゆほども目指していなかったのと同じように、書く、ということの目的もまたまったく違うところにあるのではないか。「親友交歓」を読み返してみると、「書いたり読んだりはやっぱり〝共感〟とか〝あるある〟とかそういうんじゃぜんぜんないよな!」と嬉しくなる。自分のなかによくわからない記憶や思いがあって、それをとにかく外側に出してしまいたいという便意にも似た欲求が作家に筆を執らせたのではないか。世界の謎が形のないもやもやに留まっている状態がものすごく気色悪いからとにかく作品化してなんか落ち着きたい、という感じだったのではないか。それはとても切実な欲求には違いないが、「わかってもらいたい」切実さじゃなくて「はやく書いて外に出したい」切実さだったはずだ、やはり便意と同じで。

 とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんも無かった。(太宰治「親友交歓」)

 なんとも気持ちのよい物言いに、思わず笑い出してしまう。太宰治の短篇の、丁寧に言葉が放り投げられていく感じがすごく素敵だ。もし共感とかどう読まれるかとかに重心が置かれていたら、こんなにダイナミックで爽やかな短篇は生まれようがない。それらから遠いところで書かれたからこそ、ある日突然現れた自称「親友」はいきいきと動き、作品はたんに嫌な奴のせいで嫌な思いをさせられたエピソードではなく、そんな「親友」をひっくるめた世界ぜんぶが凝縮された結晶となって輝いたのだ。

 ところが太宰治というと「自分のことが書かれているみたい」とか「共感しました」とかそういうふうな言葉が飛び交いすぎていて、どうなのよどうなのよと思ってしまう。私自身、思春期に「人間失格」を読んで「得たり」と興奮したひとりだけれど、それだけじゃもったいなさすぎる。読書に没頭するならば〝共感〟なんかに費やしている暇はそんなにはないんじゃないか。太宰治を読んで「すげー」と感動したら、自分のことをごちゃごちゃ考えるよりもさっさと織田作之助の本に手を伸ばしたほうが楽しい。こんなことをいうとあの「親友」に「威張るな!」と囁かれそうで怖いけど、織田作の短篇「秋深き」に出てくる男はあいつと同じくらい嫌な奴でとてもおもしろいので、「親友交歓」が好きで織田作未読という人はぜひ読んでみてほしい。

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