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中村文則著『何もかも憂鬱な夜に』感想

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中村文則著『何もかも憂鬱な夜に』集英社文庫

 お気に入りの一冊なので、感想を残しておこうと思い書いています。

あらすじ

施設で育った刑務官の「僕」は、夫婦を刺殺した二十歳の未決囚・山井を担当している。一週間後に迫る控訴期限が切れれば死刑が確定するが、山井はまだ語らない何かを隠している--。どこか自分に似た山井と接する中で、「僕」が抱える、自殺した友人との記憶、大切な恩師とのやりとり、自分の中の混沌が描き出される。芥川賞作家が重大犯罪と死刑制度、生と死、そして希望と真摯に向き合った長編小説。

裏表紙

感想(ネタバレを含む)

 印象的なシーンはいくつかありますが、一つ挙げてみます。

 山井の控訴期限が明後日に迫る日、刑務官である「僕」は山井の元を訪ねます。

 「なぜ、殺したんだよ」という「僕」の問いに、山井は時間をかけて「セックスがしたかった」と答えました。そして、「俺は、そういうところにいたから」「昔から、生まれてから、殴られることにも殴ることにも、慣れてたから」と語り始めます。

 山井は「僕」と同じく施設で育ちました。

 「僕」の育った施設の施設長について、次のような描写があります。

喧嘩をして呼び出された時も、あの人は僕は悪くないと学校に主張し、全てを両成敗とするのはおかしいと言い、恵子が入所して暴れた時も、引っかかれながらも笑い、いつまでも恵子に喋り続けた。僕がアダルトビデオを施設に持ち込んだ時は笑いながら取り上げず、田舎で広まっていたシンナーを知人から無理やり渡された時は、有無を言わさず取り上げた。恵子が万引きした時は酷く叱り、僕の、身体をかきむしる癖をやめさせた。熱が出たときはうつりたくないと看病に来ず、風邪くらいで寝るなと笑いながら僕を叱った。

p157

 「僕」のいた施設の施設長はこういう人です。

 施設へのアダルトビデオの持ち込みについて、一般的にはどこの施設も許されないはずです。
 施設には様々な生育歴の子どもがいますから、刺激的なものの持ち込みを禁止することは直接、子どもを守ることに繋がるのです。

 しかし、「僕」のいた施設の施設長はそれを取り上げませんでした。
 アダルトビデオを観る自由を尊重したのです。

 一般的に施設がアダルトビデオの持ち込みを禁止することも、子どものことを考えてのことですが、「僕」の施設長も「僕」のことを考え、笑って許しました。

 おそらく山井は、子どものためにアダルトビデオの持ち込みを禁止する一般的な施設で育ったのだろうなと思います。

 どちらが正しいかとか、愛があるかとかということではなくて、似た境遇で育った「僕」と山井との違いは、彼らの周りにいた人の違いということになります。

 話は戻って、山井は「僕」に、「俺は、そういうところにいたから」と語り始めます。
 「そういうところ」というのは、山井が次に述べた、「昔から、生まれてから、殴られることにも殴ることにも、慣れてたから」ということと捉えられますが、私はもう一つ、「アダルトビデオを取り上げられる環境で育ったから」というようにも感じました。

 アダルトビデオを観られなかった奴は皆性犯罪者になると言っているのではありません。
 ただ、周りにいた人による関わり方の小さな違いの積み重ねが、「僕」を刑務官に、山井を未決囚にしたのではないかなと思うのです。

 その考えに至ったとき、結局人は環境で決まるのかと落ち込みました。
 しかし、この小説には、「僕」の施設長の言葉として次のことが書かれています。

「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい」

p155

 そして、恩師からこの言葉を受けた「僕」が、死刑を役割として受け入れている山井に伝えた言葉を紹介します。 

「いい、いいから、お前は控訴しろ。裁判でのお前の供述と違う。控訴してもお前の死刑は変わらない。でも事実を言わなければならない。事実を言ってから、死刑になれ。俺は死刑にはどうしても抵抗を感じるよ。死刑には色々問題があるのもそうだけど、人間と、その人間の命は、別のように思うから。……殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから。お前の命というのは、本当は、お前とは別のものだから。でも今の状況はこうだし、どうあがいてもお前は死刑になるし、俺たちはやるしかない」

p176

 そしてもう一つ、施設長が「僕」に伝えた言葉があります。

「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」あの人は、僕達によくそう言った。「考えることで、人間はどのようにでもなることができる。……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる」

p160

 これらの言葉を、私は、自分がどんな人間であったとしても、それとは別に、命を尊重することができる、と解釈しました。
 また、「人間」は自分ではどうにもならないこともあるけど、その「命」は自分でどうにでもすることができる、と解釈しました。

 私はこれらの言葉が、今までのどんな言葉よりも勇気づけられました。

 そして、命を尊重する方法として、施設長及び「僕」は芸術作品に触れることを挙げています。
 芸術作品は全ての人間にたいしてひらかれているからです。

 私は芸術、広く言えば創作に触れた経験は多いほうだと思います。
 ピアノやチェロを弾きましたし、読書もします。絵画も観ます。
 しかし、その感想を言語化することをあまりしてきませんでした。

 この小説を読んで、創作に触れ感想を持ち、言語化しようと了見を広げることを通して、世界で生きていくことの意味、命を尊重するということをしていきたいと考えました。

 ここまで読んでいただきありがとうございます。


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