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エンデ中尉の“ガンダム”

( ・□・)
 2022年4月14日からnoteを始めて、月一回の頻度ではあるけど記事を投稿し続けて早一年。
 そんな毎月投稿の連続記録も4月30日までの期限が迫ってきたとなると、そういう目的でnoteを始めた訳じゃないのに記録が途切れてしまうのが惜しくなるのが人の情……かどうかは措いといて。
 今回は『機動戦士ガンダムUC 星月の欠片』第6話に登場したエンデ・アベニール中尉のジムⅡを語るスレッドを読んで感じた事を記事にしようかと思う。

( -_-)
 とはいえ話題として取り上げるのはスレッドのレス51番および61番などに出ている“ガンダム観”の方が本命であろうか。
 レス61番でも言ってるけどガンダムはマジンガーZ等のスーパーロボットと呼ばれる類とは違い、あくまでも戦車や戦闘機などの延長線上にある兵器でしかない(そういう意味では量産を前提としていた鉄人28号が意味合いとして近い存在なのかもしれない)。
 昭和のロボットアニメでは敵が主人公のロボットと同型の機体を使うのは主人公機が奪われたか見た目だけが似ている偽物かでしかなかった。
 そこはメイン視聴者である子供世代に分かり易くするためだったり玩具販売の都合などの配慮があったと思われる。
 でも実際に当時の視聴者が世界観を全て正確に認識できているかは話が別で、放送当時の1980年代に小学生で昭和のロボットアニメ観が当たり前だった私には、戦争で地球を守った地球連邦が内部紛争を起こしていると認識するよりもティターンズがジオンと繋がっていると考える方が違和感が無かったのだ(だからティターンズはGM系ではなくモノアイ系のMSが主流だと考えてた)。
 今でなら“ニワカ”呼ばわり必須の失笑ものだが、当時はインターネットが普及しておらず、番組を繰り返し視聴する手段はビデオ録画するしかなく、小遣いで買えたのはボンボン1冊が限度で、尚且つ周囲の関心はアニメではなくアイドルやスポーツが主流だった(序でに言うなら“オタク”という言葉も通じないので、精々“ファン”か“マニア”と括られて終わるだろう)。
(っ・_・)っ
 閑話休題。
 実際に富野監督作品でもZガンダムの劇中でガンダムMk-Ⅱがティターンズやエゥーゴで量産されることは無かったし、聖戦士ダンバインでもトッド・ギネスの「もう一度ダンバインを作ってくれ」という申し出もショット・ウェポンに却下されている。
 昭和のロボットアニメでは主人公のロボットが主人公のシンボルとしてイコールで繋がっているのは間違いない筈だ。
 なおサイコガンダムは大き過ぎたので、初視聴時は“ガンダム”というよりビグザムのように巨大なMSとしか認識できなかったのでノーカウントとしておきたいw
 サイコガンダム以降に“敵としてのガンダム”だと、かなり時が経ってガンダムWやガンダムX辺りになると思う。
 エピオンやフロスト兄弟のガンダムに抵抗感を抱かずに済んだのは、私が歳を重ねたのもあるけど……機動武闘伝Gガンダムという敵も味方も皆ガンダムという衝撃的な作品があったので、“ガンダム=主人公機”ではない事実が気にならなくなっていたのが大きい。
 もしかするとGガンダムやガンダムW放送当時は(私が知らないだけで)「あれはガンダムではない」という(端から見れば拗らせているとしか思えない)論争もあったのかもしれないが……流石にそこまで調べられそうにない。
 今でこそ敵としてのガンダムに抵抗感は無いけど、そう考えると宇宙世紀を舞台にしてないアナザーガンダムの存在意義は大きいのかな?
( ー□ー)
 話を戻そう。
 前述のようにガンダムは兵器の一環であってヒーロー性を求めるのは(世界観の視点だと)筋違いかもしれないが、ガンダム以前からロボットアニメに親しんでいた世代や他のスーパーロボットやヒーローと肩を並べて出演している作品を楽しんできた人達にとって、ガンダムは紛れもなく特別な意味合いを持つ存在なのだ。
 幾度となく話が逸れた気もするが、今回はこれで話を締め括りたいと思う。

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