接吻するウニ

 ウニがキスをしていた。
 聡子にはその光景が、ウニにとっての接吻を意味する行為なのか正確にはわからなかったが、人間に置き換えてそうなのだろうと思う。
 二匹の全身を覆う棘と棘が、漏れなく互いにぴっちりとくっついているのだ。その数え切れぬほど多い先端同士を突き合わせている。
 聡子はしばし、その様子を微笑ましく思い、水槽に額をつけるようにして観察していたけれど、ふと、眼前で進行している事象の可笑しさに気がつく。

 ウニがキスをしているところまではいい。ウニも愛情表現の一つ、取りたいことはあるだろう。
 問題なのはそこではなく。
 相対する二匹のウニの棘が、その全身を覆う棘が、揃って全てくっついているのだ。二つの球をお団子のように並べた時、その列の両端にある頂点同士が接触できるはずはない。聡子は、水槽内を凝視する。底面に敷き詰められた砂利の上には、初めこそ疑問には思わずとも、いまや不可解としか言いようのない空間が有る。

 試しに、持ち合わせのボールペンをウニの棲む水槽に付けてみる。マドラーを扱う時のような手つきで、大きな水槽に棒状のものを入れながら、客観してみれば、いささか滑稽に見えるのではないだろうかと聡子の脳裏に恥がよぎる。しかし、気にはなるのだ。

 さて、そのボールペンは果たして、空気と水の屈折率の違いによる形状の歪みを見せたのち、変わらぬ姿を水槽内で見せ続けていた。ウニを避けるようにして、水槽の端に浸けていたペンを徐々にウニへと接近させる。
 ウニ周辺の空間のみが著しい歪みを見せている可能性もある。えてして、ウニ自身が歪んでいるという可能性も否定はできないけれど、聡子は自分の目を信じることにした。彼女には、明らかにウニを取り巻く空間ごと複雑な歪みの中にあるように見えるのだ。例にして、度の強いメガネを掛けた状態が視界の一部分のみ、つまりウニとその周辺に適用されているといった所感だった。

 ウニに触れぬよう、恐る恐る棘のぶつかり合いの中腹へペンを通してみる。見事に、いやどういうわけかペンは空間の歪み、水彩絵の具の滲みが澱んで汚濁した接点の隙間に溶けている。
 そのウニの接点では、棘の交差が幾重にも連なり、モアレ現象からくる複雑怪奇なパターンがみてとれる。
 ペンの先は、パターンの生み出した幾何学の隙間に溶け消え、ボールペンは見事に両断されていた。聡子は恐ろしくなり、深く水槽に浸けた手を引き上げる。

 聡子の想定よりも、憂慮すべき事象が起きているのかもしれない。
 ふと、水槽の外側まで、事態は進展しているのではないだろうかという恐ろしい予感が脳裏を過ぎる。この、穴のような空間が何もウニの接吻現場のみに限って起きている現象ではないかもしれないのだった。そして、聡子は周囲を見渡してみるけれど、果たしてどこがその世界の狂いに該当する場所なのかがわからない。普段何気なく通り過ぎるような廊下のシミも、そう穿ち見れば、おかしくもみえる。得てしてしかし、これは杞憂に終わりそうだと聡子は思った。例え、歪みが世界の至る所にあろうとも、それに気がつくことができるのだろうか。『接吻するウニ』のいない場にそう目がつくこともない。

 例えば、こうして宇宙に綻びがあろうと、それに気がつく手段は無いのだと思う。
 聡子は水槽を支えるグレーの机の前にしゃがみ込む。このウニは、なぜこの歪みを前にしてキスをしているのだろうか。それは、ほつれを縫い直すような…互いの棘をさも、ジッパーのように扱い、世界の穴を塞いでいる。

 そして、聡子は静かに頷く。そうかもしれないと思う。世界の綻びなど至る所にあるのかもしれないと思う。けれどそれは、小さな何者かの、不断の努力により保たれている恒常かもしれない。見渡せばおかしく無いところなどないのだ。絶え間ない常識と非常識の吊り橋を、危なげに渡る自分の姿を想像する。その吊り橋の両端は、それぞれウニが支えている。

 何時、世界にスポンジ状の穴が空いたのか、聡子は知らない。けれど、弛まぬ意識の対抗により世界はかろうじて均衡を保つ。
 ウニの愛は宇宙を保つ。

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