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目が口でないために アニメ「メイドインアビス 烈日の黄金郷」感想

※アニメ「メイドインアビス」第2期最終話までのネタバレを含みます。


死に向かって生きる


「アビス」とは、「深淵」とはなんだろう?

アビスを下りるということ、それは「生きることそのもの」なのではないか……。第1期と劇場版を見終えた時点では、ただ漠然とそう感じていた。

生とは死という深淵に向かう、その旅路のことを言うのだと。
みな完全なる闇へ向かって降りている最中なのだと。
行きつく先に死という闇しかなくても、生きることをやめることはできない。

これはそれなりに、真に迫る見方だとは思う。

そのとおり、私たちは毎日、死に向かって下っている。
これを人生と呼ぶのは、穴へ落ちることを旅路と呼ぶような、自由落下をあえて飛翔と呼ぶような、愚かで滑稽なことかもしれない。
それでも、自分の意思で生きているのだと、生きたいから生きているのだと言い張ることは、私たちの切実な願いで、叫びだ。
だから強いて、前を向いて進めと。前を向いて落ちろと。この作品は呼びかけている――ように私は感じた。

しかし、あまりに大きい、ざっくりした見方、ではある。

創作活動のメタファー

岡田斗司夫氏はご自身の動画で、「アビス」とは「創作活動のメタファー」だとおっしゃっていた。


下れば下るほど一般人とは離れていく時間、同胞を犠牲にしても続けずにはいられない旅、極めて優れた先達であり教師でありながら、もはや人の道を踏み外している白笛たち。――

より具体的で、より「刺さる」見方だ。言い得て妙とは思いつつも。

私のようなただの視聴者が、その見方を全面的に受け入れてしまうと、体感としては遠いものになってしまう……とも思った。

もちろん岡田氏のように創作の極めて近くにいる人には、この見方は自然なのだろう。常に創作することの意味を意識するのが当たり前なのだろう。
しかし多分、私にとっては少し違っているはずだ。もっと凡庸である方が刺さるはずだ。

それぞれの人が、自分の人生に「刺さる」見方をしていいのだ、と意識させられた。

では創作者ではない、ただ見るだけの者である私が、もっと自分自身に「刺さる」見方とはどんなものだろう?
そのように考えながら第2期を見始めた。

弱者を吸う目

だからだろうか。自分に引き寄せて、我がこととして作品を捉えるという意識を持たされていたためにか、見始めて早々に引っかかった言葉があった。
第1話でベラフが言った、まっすぐな言葉。

「美しさとは目だ」

スクリーンショット (2)
「即物的な目ではない。『まなざし』と心得よ」


目。まなざし。
こちらを見透かすように、ベラフは視線を投じてくる。
この言葉は、画面を見る視聴者の目に投げかけられていないだろうかと、私には思えた。

思えて――少しぞわっとした。
あの美しい目に比べ、画面を見る私のこの目は美しいのか? と問われたようだったから。

そのぞわぞわする座りの悪さは、あるところで明確な痛みに変わった。
5話。
成れ果てたベラフと、その目――だったもの。

美しかった目は、涎を垂らし、小さきものを搾取する「口」へと変じていた。
表情のうかがえない滑らかな面の、目があるはずと思われる位置に開いた二つの穴から、舌とも触手ともつかない器官が伸びる。
そうして呪いの結晶、ミーティを吸い取るその様は、かつての姿からのなんという変容だろう。

スクリーンショット (6)
口となった目

答えのない三つの選択をリコにせまる姿といい、まるでお伽話の邪悪な龍そのものだ。

成れ果てた末の変節なのか。かつて高潔だった者が、絶望のために堕ちてしまったのか。
だが、それならばまだいい。

成れ果て村の案内者マジカジャいわく、成れ果ては、それぞれの欲に応じた姿になる。

ならばあのおぞましい舌を出す、目の形をした口は、もともとそうだった本質が、ただ暴かれたに過ぎないのではなかろうか。
自分では美しいと思っていた目は、「まなざし」は、虚飾だったのではないか。
果てぬ夢を見つめると言った、その夢とは、実際にはただ弱い者を陥れ侍らせ貪りたいという、隠された欲に過ぎなかったのではないか。

そうしておそろしくもその問いかけは、そのままこちらに返ってきた。
画面を見るこの目に。

世にあふれる美しい物語を気の向くままに味わいながら、その本質には微塵も気付けず、ために自らに生かすこともできず、まして自分は何も生み出さず。欲のままに好きなように貪り。次々に見、次々に飽き、忘れ。
お前のどこに「まなざし」がある?
その目はまるで口ではないか?

もっと大きく言ってみてもいい。
どんな悲惨な事件も事故も、画面に映る限り暇つぶしとして貪り、消費するしか能がないこの目。
貧困を戦争を見ながら知りながら、まさにそのことによって得られる自らの安心と安寧に、あぐらをかき続ける。
見ることでこそ搾取する、お前の目は口ではないか?

ここに至って、まさしく私は自分に「刺さる」見方を見つけた。

およそ画面を見る者なら、誰でもが感じるはずの後ろめたさ。
目の前に映し出されるものを、自分と無関係なものとして、身勝手な糧にしていること。
そのことへの罪悪感。不安。それをどうすればいいのか、という。

罪と断罪

スクリーンショット (11)
ファプタ。復讐者であることを超え、断罪者となった瞬間

7話、8話。
村の成り立ちをその場で見、どういう犠牲がなされているかを子細に知りながら、祈ることしかできない村人たちと、私の目は同調していく。

村人たちも、私も、このままで済むはずがないと、済まされるはずがないと、わかっていたのではないか?

そして9話。
まさにその追及をなぞるように、ついに村に入った価値の化身、ファプタが宣告する。
「兄弟を、ファプタを、うまそうにねめまわした、お前たちの目を許さぬ」と。
「お前たちの口を許さぬ」と。

私は、この宣告に抗する弁を思いつけなかった。
村人たちと共に懺悔し、そして歓喜して、裁きを受け入れる気分にさえなった。

スクリーンショット (8)
断罪された「目」が懺悔する

それは、確かに心地よい恍惚ではあったのだ。

自らの罪を自覚した者にとって、悔い改める術を知らない者にとって、「断罪」は待ち望んだ祝福そのものだ。
自分でどうすることもできない罪を、大いなる者が裁きによって「断って」くれるなら、それは救い以外の何だろうか。たとえどんなに峻烈な罰を受けるのであっても。

罰とは罪に対する「バランス」、「清算」。
正しい裁き、正しい罰は正しい理解のもとに行われる。
断罪者は、罪人を完全に理解して裁いてくれる。
だから罪人は喜ぶ。


一方で、罪人側の申し開きと思えるセリフもあった。

――ずっと見つめていたかったんだ。
――夢でもいいから。

ベラフの記憶を嗅いだナナチの言葉だ。罪を懺悔するだけでない、切なさがある。
それは画面を見る私たちの側からの、切なる弁明だろう。ここにないものを見つめることしかできないと、私たちの痛みを言い当てている。

スクリーンショット (13)
夢でも、夢でもいいから……

いずれにせよ弁明したところで、罪の深さは消えない。
身勝手な罪を、身勝手に懺悔して、心地よく罰に浸る。
私たちにはそれしかできないのだろうか?

返すこと、継ぐこと

大きな転換は11話にあった。

乱入に次ぐ乱入、混沌としていく状況の中で、ファプタに記憶を託し滅ぶベラフ。
かつてその目で見たものを、形のない匂いに変えて伝える。

ベラフだけではない。村人たちも、原生生物に挑み窮地に陥ったファプタに、自らの体を進んで食わせる。
かつて罪を食った者が、今度は自分の体を食わせる。
借りていたものを返すように。

スクリーンショット (16)
罪を返し、次代に繋げる

ここから、視点はファプタの側に切り替わっていく。
というよりも、引き継がれていく。

生きることは罪であるかもしれない。
罪とはただ清算を待てばいいものではない。
罪とは返すべき負債のこと。借りていたものだ。
それは返すべきものなのだ。

見たものは伝え、託すことができる。
ベラフのように才覚ある者なら、記憶を蓄え、語り継ぐことができるだろう。
そうではない凡庸な者でも、蓄えてきた自らの血肉を次代に分け与え、繋げることはできるだろう。

伝えるために。消化しきれないことでも、いつか次に手渡すために咀嚼し、蓄える。
怠惰、安寧、暴食、見殺しの報いを受ける、いつかその時が来たときに、裁きとしてただ受け入れるのではなくて、何かわずかでも返せるものがあるように。

今は返すために借りているんだと。
すべてはただ仮初めに借りているに過ぎないんだから、と思ってみる。

そういう意味で言うならば、この命そのものだって、借りているだけだといえる。
借りたものは、その時が来たら返すだけだ。
返すまではできるだけ丁寧に扱うのが、モラルというものだ。

加えて言うなら、借りたものには利子がつく。返すときには、借りたときより大きくして返さなくてはならない。
帳尻を合わせて返すために、命の価値を高めるすべを探さなくてはならない。
もしかして、それが私たちが生きる意味なのだろうか……?

とはいえ。ここでひとつ、勘違いしてはいけないことは。
私たちはあの村人たちのように、死の瞬間に何かを返せるわけではない、ということだ。
自分の血肉を子に食わせて役立てて死ねるなんてことは、むしろ分かりやすく幸せだ。
死のその時に、人から借りた命をその場で誰かに返すということは、ふつうはできない。
この体を作るエネルギーと物質は、死ねば大地と大気に帰る。
それらと違って、人に返す――人に継ぐ「命」は、死ぬその瞬間に返せるものではない。

たぶん、生きながら返していくもの。
いま、ここで、少しずつ。

「命」とはなんだろう?
私は何を返し、継いでいくことができるんだろう?

見て、触れて、拾い集める

――最終話。
次の世代、次の時代のために、個人ができることは何なのか。
「神懸かりの預言者」ワズキャンは、それを「積み重ね」だと言う。

きっとそれは正しい。
個人の意思や志や行動は、年月の中で積み重ねられ、束ねられていくことで、一つの大きな価値となっていく。
個別の色はなくなっても、そのぶん普遍的な願いのような形で大きく、強くなる。
それこそが究極的な生きる意味、生きる価値だと、そう考えることもできるだろう。

そこでは個人は礎だ。

積み重ねの中で、あったはずの小さな意味や、小さな痛み、個々の小さな命は押しつぶされ、都合よくねじ曲げられ。なかったことにされ、忘れ去られていく。

なかったことにされる「痛み」


ファプタはどうだろう。

ファプタは受け継ぎ、引き継いでいく。
村人の血肉、ベラフの記憶、ヴエコのイルミューイへの思い。
すべて見届け、自分の価値としていく。
そしてその上で、個人的な生を生きることを肯定している。

自らが「見て、触れて、拾い集める」こと。
(この言葉も、干渉機ガブールンから引き継いだものだ)

目で見るだけではない、手で触れ、足で拾いに行き、集めた重みを感じ、考え、自らの血肉とすること。

その行為は、結局は大きな歴史の「積み重ね」の一石になるだけかもしれない。ただ重ねられ、忘れられるだけの細部かもしれない。
それでも、拾い集めたものを、自らの価値とすることが、いま、ここで、誰かに命を返しながら生きていくことに、つながるのかもしれない。

目が口でないために。
美しい目であるために。
手も使い、足も使い、頭も使って、拾い集める。
私もそうしたい。
願わくは、自分の欲に絶望して成れ果て、引きこもることのないように。

死へ下りていく生でも、生きている意味があると。
幸せな旅路だと思えるように。

見て、触れて、集める
見て、触れて、拾い集める。


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