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公務員と災害 vol.1

”災害”と対面した新潟県中越沖地震

僕と災害の関わりが始まったのは、今から15年前の2007年7月に発生した新潟県中越沖地震。新潟県では、更に3年遡る2004年に最大震度7を記録した中越地震が発生していて、多くの方がその記憶の新しい内に被災するという短い間隔での地震でした。

2007年の中越沖地震では、母方の祖父母が暮らす柏崎市に大きな被害が出たので、大学生(≒ヒマ)だった花岡少年は一人旅ついでにボランティアへ入ることにしました。
ボランティアといっても、決して高尚な考えで行った訳ではなくて、「地震って聞いたけどじいちゃん達大丈夫かな」「ちょっと見にいくか」程度の気持ちだったと思います。

駅から祖父母の家まで徒歩で歩く中、何軒も崩れている家を目の当たりにしました。
1階建に見えた商店街の店舗や古い家が、実は1階部分が完全に潰れ、2階部分が目の前にあると気づいた時は思わず立ち止まってしまったことを覚えています。

1階部分が潰れた商店街の店舗(新潟県HPより)
主要道路も塞がれてしまっていた(新潟県HPより)
祖父母の家へ行く目印だった呉服店(新潟県HPより)

祖父母の家は幸いにも比較的新しかったため、建物被害は大きくありませんでしたが、言葉を失ったのは隣接する家が倒壊していたことでした。
「被災する」ということが急に現実的なものとして目の前に現れたという印象で、暖かく迎えてくれた祖父母や叔父さん一家とあまりうまく喋れなくなってしまったように思います。(元々のコミュ力不足はともかく)

ボランティアでは、5−6名の体制の中に組み込まれ、倒壊前の家から家財を運び出したり、動かなくなった自動車を押して移動させたりといった「ザ・肉体労働」で、日頃運動不足な大学生だった僕は大した力にもなれていませんでした。
それでも、タンスや冷蔵庫(だったかな?)を運び出した家のおばあちゃんから「ありがとうねぇ」と声をかけてもらったことはとても印象的で、公務員採用試験の真っ只中だったこともあり、改めて「人に感謝されるための仕事をしたい」という気持ちが強くなったと思います。

公務員として相対した東日本大震災

そんな気持ちを持つことができたからか、幸いにも翌2008年に杉並区へ入庁し、(システム部局という完全内側の仕事ながらも)区民に繋がる仕事をしようと日々あくせく働いていた2011年、今度はボランティアではなく業務として災害に直面することとなりました。

…災害のことを書いているとその時々の情景が目に浮かんで中々にキツいですね。中途半端なところですが、次回に続きます。

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