直近の選挙における、フラットアーサーとスペースビリーバーという対立軸。――ツイッターにおける大阪都構想住民投票とアメリカ大統領選挙の対立を振り返って。

※ 本作は、小説家になろうに転載しています(https://ncode.syosetu.com/n8044gp/)。

 地球が平面だと信じる人、フラットアーサー(地球平面論者)。宇宙というのは回転する半球状の天井だなんて信じる彼らから見れば、宇宙を広い空間だと認識している人はさしずめスペースビリーバー(宇宙信者)ということになるでしょうか。
 
……何を馬鹿なと自分でも思わなくも無いのですけどね。最近行われた二つの選挙、大阪都構想の住民投票とアメリカ大統領選挙のツイッターでの狂乱ぶりを見て、色々とイライラしてしまいまして。
 
 ええ、カッとなって書いた文章です。それでも良ければどうぞ。
 
 なお、後悔はしないと思います(笑)

「フラットアーサー」――常識から目を背ける人たち。

 あたりまえを疑え。私がこの言葉を知ったとき、既にある程度「あたりまえ」とは何かを知っていました。それは、今にして思えば、とても幸運な事だったと思います。

  ◇

 地球平面説というのをご存じでしょうか。「地球の形状が平面や円盤状である」という前提のもとに組み立てられた宇宙論のことを指す言葉だそうです。……まあ、文化圏にも拠りますが、人間が「地面が丸い」ということに気付いたのは意外と古く、紀元前には既に地球の半径を計算する人もいたりします。もっとも、なかなか気付けなかった文明もありますが。
 でもまあ、今では完全に否定された論だというのは間違いないと思います。

――その、すっかり過去の物となったはずの「地球平面説」ですが。最近になって再び論じる人が増えたようだと言ったら、笑うでしょうか。

 私が地球平面論者という人たちの存在を知ったのはごく最近、天動説と地動説に関する読み物を書いて公開した時のことです。
 その読み物の感想で、地球平面説のことを軽く言及してくれた人がいまして。……その時は正直、まさかそんな過去の遺物となったはずの論が再び広がりを見せつつあるなんて想像してなくてですね。何かこう、高度な理論展開の結果としてそんな仮説が出てきたのかと勘違いしてたのですが。
 だってほら、超弦理論とかあるじゃないですか立てば芍薬座れば牡丹。私たちの住んでる宇宙を構成するのは一次元の弦だ、みたいな超絶難解そうな理論。あれと同じような、途方もなく困難で理解するのが難しそうな理論があるのかな、なんて思ったのです。……今にして思えばばかばかしい限りですね。

 ホントに、誰が言葉通りの意味で「地球が平たい」なんて論がこの現代社会で盛り上がっているなんて思いますか。ええ、今の時代に地球平面説で盛り上がるような、地球平面論者(フラットアーサー)とでも言うべき人たちがいるなんて、思いもしませんでしたよ、まったく。

……でもそうですね。その存在を知ってしまえばね、「そういった人たちがいる」ことに関しては、理解できなくもないかなぁ、とも思いますが。

  ◇

 確かに、普段生活していく上で、地球が丸いなんてことは、あまり実感がわかないのはわかります。ですが、地球が丸いなんてことは、普通に学校で学ぶことですよね。彼らは学校で学んだことを忘れてしまったのでしょうか。

 残念ながら、そうではないと思います。彼らは、地球は丸いという「答え」をしっかりと理解しているし、「地球は丸くない」という主張はあまり受け入れられないことも十分に理解していると思います。

――その上で、彼らは「地球は平たい」と、そう主張しているのです。

 だって、地球が丸いなんて、目で見て確認できないじゃないですか。飛行機で空を飛んで周りを見渡しても地平線は湾曲してないし、地平線の向こうから何かがやってくるところなんて見たこともない。それどころか、地平線の向こうに隠れて見えないはずの風景が見える事すらある。

 なのにどうして「地球は丸い」なんて思うのか。皆がそう言うから、そう教えられるからそう信じているだけじゃないのか。

 丸みを帯びた大地が生み出す風景を見たことのある人なんてどこにもいない。宇宙から見た地球の写真も月の上を歩く写真も、みんな誰かの嘘かもしれない。それなのに「地球は丸い」と当たり前のように信じるのはおかしいと、彼らはそう思っているのです。

 地球は丸いと当たり前に理解している人から見たら、なぜ地球は平たいなんてことを本気で主張できるのか、理解できないでしょう。何かこう、怪しい宗教か何かに見えてもおかしく無いと思います。

……ですが、フラットアーサーたちは、周りの人たちにそう思われるであろうことを十分に理解しています。その上で、地球は丸くなんてないと主張しているのです。

 地球は平たく、太陽も月も数多の星も、幾重にも重なった半球状の天球に張り付いているかのように動いている。そんな「見たままの世界」をどうして否定できるのか、と。

 だからこそ、彼らは口をそろえて、こう言うのです。

――私たちは地球が丸いという欺瞞に気付いただけだ、と。

  ◇

 自分は今まで、地球が丸いのをこの目で確認しようとした。でも、どうしても確認することができなかった。そして気がついた。私の周りに、地球が丸いことを確認した人なんて一人もいないことに。みんな、そう教えられたからそう信じているだけだと。

 そんなことを考えながら生きてきた人は、やがて自分と同じようなことを考える人と出会います。

 今はインターネットという便利な道具があります。いろいろな考え方の人を探し、出会うことができる、そんな時代です。だから、探しさえすれば、自分と同じような考え方の人と出会うことも容易にできると思います。

 そうして、その人は自分の抱いていた疑問が、自分だけのものでないことを知り、地球は丸いなんて嘘だ、自分が見たままの世界こそが正しい世界の形だと、確信を深めていきます。

――そうして、地球平面説を信じる人、フラットアーサーは生まれる訳です。

 彼らも、「地球は丸い」と教えられて育っています。そして、他の多くの人と同じように、一度は地球は丸いと信じてもいたはずです。……ただ、何かの拍子に「地球は丸い」ことをこの目で見て確認したくなってしまい、それを見ることが叶わなかっただけで。

 フラットアーサーは地球が丸いことを知らないのではありません。実のところ、地球が丸いかどうかをそこまで気にしている訳でもないでしょう。ただ、教えられたことをそのまま信じたくないのです。
 だから、何とかして地球が丸いことをその目で見て確認しようとした。だけどそれを見ることは叶わなかった。

――だってそうでしょう。「地球は丸かった」とガガーリンが確認したのは1961年、今からほんの数十年前のことなのですから。

 それまでずっと、人類は「地球が丸い」ことをその目で見て確認することは叶いませんでした。技術を発展させて、団結し、資源と富を湯水のように使って、ようやく宇宙に行けるようになったのです。

 そして今も、市井に住む「普通の人」には、丸い地球を見ることは叶わないままなのです。

  ◇

 これまでずっと、私たち人類は、「地球は丸い」という事実を受け入れて、この地球上で生きてきました。だから、「地球が丸い」と信じるに足る推論は、本当にたくさんあります。

 ですが、それらを全て「嘘」ということにしてしまえば、地球は丸いという事実を受け入れずに生きていくことは、実は容易なことです。

 地球は丸いという常識に違を唱えるために地球平面説を引っ張り出してきたのが、フラットアーサーと呼ばれる人たちなのです。

――彼らは、実のところ、「地球は平面だ」と主張したいのではないと思います。彼らは、「地球は丸くない」と主張したいのです。そのためだけに、彼らは地球平面説を引っ張り出してきただけだと思います。

  ◇

 彼らは、地球は丸いという事実を否定することで、地球が丸いということを発見した人を否定しています。
 推論を重ねて宇宙に到達するにまで至った先人たちや、その知識を土台として研究開発し世の中をよりよくしようとする人たち、そしてこの先、同じように生きていくであろう人たちのことも否定しています。

 彼らに欠けているのは、科学知識や一般常識ではありません。自分にとって疑わしいと思うことでも考えて受け入れる、そんな「謙虚さ」に欠けているのだと、私は思います。

……なお、ガガーリンの言った言葉は「地球は青かった」です。お間違えの無いようお願いします。


「スペースビリーバー」――自覚のない常識信仰者。

 世の中には、常識なんだけど直接目で見て確認することが難しいことって、沢山ありますよね。例えば火山が噴火した際に流れ出る溶岩流。あれは近づくことすら容易ではない位に熱いことなんてことは常識です。
 でも、私たちは溶岩は本当に熱いのかなんてことには疑問を抱かず、当たり前のように信じて生きています。時にはこう、「日本には火山が多いから温泉も多いんだよ」みたいに、溶岩が熱いことを前提とした知識を自慢げに披露したりもします。

 そんな「直接目で見て確認できないこと」ですが。まあ、普通の人はそれに逆らって生きたりはしないものですよね。

……まあ、私はフラットアーサーという「地球が丸いなんて、直接目で見て確認できないことは信じない」という姿勢の人のことを、既に語ってしまったのですが。

 まあ、彼らは正確には、「どう見ても地面は平らにしか見えない」のに「なぜ地球は丸いなんてことを信じるのか」という考え方の人たちです。なので、「目で見て確認できないこと」に逆らっているのとは微妙に違いますが。それでもまあ、世間一般で常識と思われていることに対して異を唱えていることには違いないと思います。

 彼らの視点だと、宇宙のことを信じる人たちは、見てもいないことを信じている人たちということになると思います。そうですね、さしずめ宇宙信仰者、「スペースビリーバー」とでも言ったところでしょうか。

 まあ、広大な宇宙の中に太陽系や地球があってそれぞれが周回軌道を取っているという、俗に言う地動説という考え方を信仰扱いするのは、正直微妙だと思います。私もきっと、「お前は宇宙論なんて荒唐無稽なことを信仰している」なんて言われたら良い気はしません。

……ですが、こう思うこともあります。

 世の中には「宇宙信者」、スペースビリーバーと呼ばれても仕方のない人たちが、意外とたくさんいるのも事実だよね、と。

  ◇

 過去に地動説を唱えたガリレオという人は、宗教裁判にかけられ有罪になりました。当時においては、「宗教的な理由で」地動説を一般に広く流布することは認められなかった、だから地動説が正しいと分かっていたのに有罪にされたと、そんな話です。まあ、有名な話ですよね。

 確かに、ちょっとひどい話だと思います。自分も同じ立場なら、「それでも地球は丸いんだ」とか言いたくなるかもしれません。

 まあ、そもそも彼は、「地球は丸い」ことを「新たな科学的事実として」主張なんてしていません。なのでこれは、単なる私のたわごとなのですが。

 コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン。天動説がその役目を終える際に活躍した、地動説を支える数々の発見をした科学者たち。彼らはその科学的知見で、偉大な功績を残しました。そのことに異を唱えるつもりはありません。
 彼らが現代の「科学主義」とでも言うべき時代の礎を築いたのは確かだと思いますし、その科学が、宗教を今の形にしたのも確かだと思います。

 ですが、彼らは誰一人として、「地球は丸い」なんてことを「新事実」として主張していません。なぜなら、「地球が丸い」という知識は、その当時から既に知識人たちの間で共有され、常識になっていたのですから。

 ヨーロッパ、キリスト教圏で信じられていた天動説は、「プトレマイオスの天動説」です。これは、「丸い地球の周りを、太陽を始めとした数多の星々が回っている」という理論です。地球平面説というのは、西洋においては、数百年前に否定された論でしかありませんでした。

――「中世ヨーロッパでは地球平面説が信じられていて、それをコペルニクスやガリレオが打ち破った」というイメージが、今も根強く残っています。ですが、それは誤りです。地動説が地位を得るよりも遥かに早い段階で、地球平面説は否定されています。

  ◇

 中世ヨーロッパでは地球平面説が信じられていたという誤った言説は、世界中で広く親しまれました。やがて、学問の世界においては否定されるようになりましたが、民間には残り続けます。

 そして多分、今でもそのような印象を抱いたまま、物事を語る人がいる人はいるのではないかと思います。

――その人たちは、地球が丸いと「盲信」していると言われても仕方がないと思います。なにせ、明らかな間違いを信じてしまっているのですから。

 中世ヨーロッパにおいて、地球が平面だと信じ続けられていたなんて、そんな事実はありません。では何故、そのような風説が流布され、信じられたのでしょうか。

 例えばそうですね、同じキリスト教でも、宗派の争いというのがあります。
 ガリレオを裁いたのはカトリック教会ですが、そのカトリックを批判する立場にあったプロテスタントから見れば、この裁判はカトリックの愚かさを示す絶好の材料だったかもしれません。
 だから、そんな彼らが「カトリックは科学的な物の見方をすることができない」と流布したのかも知れません。

 また、宗教に頼らずに科学を推進するような立場の人には、この事件は宗教の愚かさを示す材料と見ることもできるでしょう。宗教というのは科学と相いれない、だから科学を研究するのに宗教に頼ってはいけないという、自分たちが有利になる主張をするのには都合の良い事件だと思います。
 そういったことを考えた人が、「宗教的思想は愚かだ」と流布した可能性も十分にあります。

 こうした様々な思惑によってなされた主張が結びついて、やがて「中世ヨーロッパは宗教(カトリック)によって暗黒の時代を過ごしてきた」という風説へと進化し広く信じられることになった、そんな可能性だって否定しきれないのです。

  ◇

 ですが、こんなことを考えてしまう人は、フラットアーサーを笑う資格は無いと思います。

――だって、フラットアーサーの「地球は平面だ。みんなが『地球は丸い』と声をそろえて言うからそう思っているだけだ」という主張と、先のカトリック云々の話は、同じ構造をしていますから。

  ◇

 私は、フラットアーサーを笑うことはできません。なぜなら、「いつまでも地球平面説を信じた中世ヨーロッパという名の暗黒時代」というのはデマだと思いますし、そのデマは何か思惑があって流布されたという可能性も否定するつもりもないからです。
 そして、インターネットで色々と検索して、その考え方は自分だけのものではないことを確認して、自信を深めたのも事実です。

 フラットアーサーと同じような考え方をして、フラットアーサーと同じように似たような主張を見つけて自信を持つ。そして、フラットアーサーと同じように常識から外れたことを主張する。彼らと同じことを、私もしているのです。

 これでどうして、フラットアーサーを笑うことができるでしょうか。私にその資格が無いのは明らかです。

  ◇

 まあ、それでも私は、この主張を取り下げることを考えていないのですが。確かに陰謀論めいたことが混ざっているのも事実ですが、それにしたって「中世ヨーロッパでは地球平面説が信じられていた」というのは荒唐無稽にすぎますから。

 まあ、天動説と地動説、地球平面説と地球球体説がごっちゃになりやすいのは感覚的にわかりますし、そこを説明するのにカトリック云々という説は必要ないのかも知れません。

  ◇

 と、ちょっと陰謀論的なことを口走ってしまいましたが。信者かどうかを分けるのは、その主張が正しいか否かではないと思います。用意された答えのままに、自分以外の何かを信じて主張すれば、その人は信者なのだと思います。

 フラットアーサーもスペースビリーバーも、その出発点は違えど、同じ「信者」になってしまっていると、私は思います。

――そして、あらゆる人の心の中には、フラットアーサーとスペースビリーバーが常に同居しているのだと。ホントにね、陰謀論はほどほどにした方が良いと思います。

……なお、ガリレオの残した言葉は「それでも地球は動いてる」ですね。まあ、これはちょっと強引だったかなあなんて思いつつ。


正義という名の信仰。

 人間は、自分が正しいという確信と共に生きる生き物です。そして、自分は正しいという確信を求めて生きる生き物でもあります。それが悪いとは思いません。それは人として当たり前のことだと思います。

 ただ、正義というのは本質的には信仰です。「理想の正義」というのは、「万人が信仰できる宗教」と、なんら変わりありません。

 現代においては、(他者の権利を侵害しない限り)何を信仰するのも自由だという、「信仰の自由」という名の信仰が広く信じられています。それは、とても大切な、信仰するに足る価値観だと思います。

 だから私は、フラットアーサーやスペースビリーバーたちが「居てはいけない」と思いません。ただ、私には彼らの価値観を全面的に肯定することはできません。そしてそれは、立場を逆にしても同じでしょう。

――だから私は、私が正しいと思うことを主張します。

 私は、彼らを否定するつもりはありません。ですが、彼らに私を否定される謂れもありません。私の正義には、私が信仰するに足るだけの価値があることを、私は知っているのですから。

  ◇

 率直に言って、地球平面説を主張するフラットアーサーが、その主張において他者より優れているとは、到底思えません。また、自らの宇宙論を正しいと盲信したままに反論をするスペースビリーバーのような人が彼らより優れているとも思いません。

 世間一般の常識に反した主張をしていると自覚しながらそれを否定するフラットアーサーと、世間一般の常識だから正しいとデマを含む論を信じてしまうスペースビリーバー。

――正しいことをデマだと言うフラットアーサーと、デマを正しいと言うスペースビリーバー。私には、この両者は本質的には同じ問題点を抱えていると思いますが、どうでしょう。

  ◇

 インターネットは、自分の望む知識を探してくれる道具です。だから、そうと望めば、荒唐無稽なソースだってきっと見つけてきてくれます。そして、インターネットは、それが嘘かどうかを判断してくれません。判断するのは自分自身です。

 信用できる個人や団体なんて、この世のどこにもありません。どんな権威にも思惑はあるでしょうし、その思惑のために情報を流すなんてことは、むしろ当然のことです。
 文字よりも写真の方が信用できるなんてことはありませんし、動画の方が信用できるなんてこともありません。真実っぽくみせかけることで面白くする類のゴシップも五万とありますし、それを真実のニュースとして紹介する人もたくさんいます。門外漢であればあるほど、そういう情報を真実だと見誤ることも多くなるかと思います。

――科学も宗教も、知らないままに信じれば、「盲信」です。神の死んだ世の中で、そんな盲信だけは、今も形を変えて生き続けています。

  ◇

 SNSでよく見る、価値観の違う者同士の言い争い。これを議論だと思い込んでいる人があまりに多いと思います。

 議論というのは、つまるところ、意見の交換の一形態でしかありません。一つのテーマに対して、互いに正しいと思ったことを主張しあう。そして、疑問に思ったことを質問しあって、不明点を無くしていく。
 そうして最後に、明らかになった相手の意見に対して自分の見解を述べる。そうすることで、ある一つのテーマに対して、異なる立場に立ちながら互いの思考を共有する。

 そうすれば、互いに異なる答えが出ても、それを理解することができるようになる。そうやって、より多くの人が共有できる考え方を導き出して、より多くの答えを理解できるようにするための話し合いを議論と言うのだと思います。

 結論を互いに理解しあえば十分なはずです。そこで止まらずに、意見の相違で相手を拒絶したり相手の意見を変えようとしたりすれば、それはもう議論とは違う何かだと思います。

  ◇

 私は、正しいと思うことを主張する人を笑いたいとは思いませんし、自分が正しいと思うために誰かの正しさを否定したいとも思いません。それでも、私の正しさを主張することで誰かの正しさを否定することになるのなら、私は自分の正しさを優先します。

 フラットアーサーにもスペースビリーバーにも、私は同調することができません。私は地球は丸いと思っていますし、宇宙論の歩んできた歴史が万人に正しく理解されているとも思えません。だから私は、自分の正しいと思ったことを主張します。他の誰かに遠慮して、自分の正しさを控えるつもりは毛頭ありません。

――そして私は、「それは間違いだ」という形の主張は、極力したくありません。主張をするのなら、「地球は平たくない」という形ではなく、「地球は丸い」という主張をしていきたいと思っています。

 北半球では北極星、南半球では南十字星が瞬いている。赤道に近づけば日は高く昇り、北極や南極に近づけば低くなる。北海道は寒く、沖縄は暑い。

 こういった「地球が丸いから起こる事象」を積み重ねていけば、たとえほんの少しでも、世の中に「地球は丸い」という認識が広がると思います。

 これは、フラットアーサーとは相いれない主張かもしれません。結果として地球平面説を否定することになるかもしれません。それでも、これは地球が丸いことを説明するための論であって、地球は平たいことを否定するための論では無いと、私は思います。

――そして、こういった姿勢を取る人が増えれば、自然と議論は深まると思うのです。

  ◇

 ツイッターでは、フラットアーサーやスペースビリーバーのような、常識を否定したり非常識を馬鹿にする人たちの声が、あまりに広がりすぎていると感じます。そして、その声の大きさに引きずられるように賛同者や反対者の声が沸き上がって、さらに声を大きくしてしまう。結果、多分いるであろう「理性的な声」がかき消されてしまっていると、そう感じます。

 直近の2つの選挙、大阪都構想の住民投票とアメリカ大統領選挙において、その弊害を私は強く感じました。

  ◇

 大阪都構想の住民投票では、「大阪都構想の是非」が話題に上がらず、「これは都構想ではない、大阪市廃止の投票だ」だの「大阪維新は市の財源をむしり取ろうとしている」だの、そんな言葉ばかりが流れてきました。
 まあ、それはそうでしょう。あれはそのための住民投票だったはずですから。

 あの住民投票で問われていたのは、「市町村」という細かい単位の地方自治体を排して広域的な地方自治体である「府」が直接地方自治を行うことに対する是非でしょう。
 もちろん、都構想を強く主張している大阪維新の会の是非だって重要な要素だとは思います。ですが、その大阪維新の主張を鸚鵡返しにしたような賛意の示し方や、その主張に対する瑕疵だけを集めたような反対の仕方は、健全なものには感じませんでした。

 もう少し、本質である「大阪府が住民に対して直接サービスを提供することに対する是非」に対する主張は、賛成派、反対派双方から出てしかるべきだったと思います。

 アメリカ大統領選はもっと酷かった。正義のトランプvs悪のバイデンみたいな主張が突如として現れ、今も続いています。……というか、これはまあ、選挙が始まるまで私が知らなかっただけだとは思いますが。

 選挙日当日にトランプ優勢の報で盛り上がって、その後バイデン票が遅れて開票され始めたら「大規模な不正がなされてる」という声が湧き上がる。正直それってどうかと思います。――アメリカの投票制度は杜撰だ、だが安心してほしい。投票用紙にはGPSが組み込まれてるからじきにバイデンの不正は全て暴かれることになるとか、本当にすごい発言ですよね。この短い一文にどれだけの矛盾と侮蔑がこもっているのでしょうか。

――他国の公平に行われているであろう選挙に対する妄言に乗って、その国の民主主義を否定する。そしてその選挙で選ばれて次期大統領になるであろう候補者に対して暴言を繰り返す。もはや節度とか、そんなレベルではありません。その人の正気を疑います。

 そんな、眉を顰めたくなるような声が、ツイッターにはあふれかえっていたのです。

  ◇

 常識を否定すれば、自己肯定感を得られるんですよ。私は他の人が見えていない事実に気付いていると。だから、常識を否定した分だけその人は強くなりますし、その強さの源を簡単には手放そうとはしません。そしてそれは、非常識を馬鹿にする人も同じです。世の中には愚かな人がいるという形で自己肯定をして優越感を、強さを得ているのです。

 彼らは気付いていないのです。世の中に、本当の意味で「万人にとって明らかな事実」なんてものは無いことに。そして、何を信じて何を発信するのも自由で、同時にそれは自分の責任だということに。

 世の中の全てのことは、その人が認識する形で見えています。それを支えているのは、その人の信じる価値観であり知識です。そしてその知識も、その人自身の価値観に左右されます。どれだけ豊かな知識も、その人の主観で集められたものでしかあり得ません。それまでの生き方、価値観、経験、そういったものがその人を形作るのです。

 そして、常識を否定する生き方も、非常識を馬鹿にする生き方も、自分自身を形作るのを阻害します。否定しているだけでは何も積み上げることはできません。自分で自分の正しさを構築しなければ、成長できないのです。

  ◇

 弊害はね、あるに決まっているんですよ。常識を否定している人と非常識を馬鹿にする人たちが言い争う社会が、前に進むと思いますか? フラットアーサーとスペースビリーバーが言い争う世界が健全に発展するとおもいますか? 私にはそうは思えません。誤った認識を土台にしたら、誤った発展しかしないと思います。

――そして何より、そんな価値観を抱えてできた「仲間」に、価値はないと思います。

 他者を否定して生きる人よりも、他者を肯定して生きる人の方が、何十倍も価値があると思います。

  ◇

 フラットアーサーやスペースビリーバーにとって最も大切な人は、自分の意見に賛同してくれる人ではないと思います。非常識な主張も盲目的な主張も、賛同されなくて当然です。だからむしろ、賛同してくれる人は自分と同じ偏りを持っている、そう考えた方が自然です。

 たまたま同じ偏りを持っているから話が合う、それはわかります。でもね、それは単なる「同好の士」でしかありません。話が合う内は好意を持って迎え入れてくれるかも知れませんが、話が合わなくなれば終わりです。

 それよりは、自分の意見に賛同してくれていないのに親しく接してくれる人を、まずは大切にしませんか? そこにはきっと、正しさとは違う、価値のある何かがあります。

 それは友情かも知れません。
 義理人情かも知れません。
 もしかしたら愛情かも知れません。
 尊敬の心、親愛の情かもしれません。

 人の関係というのはさまざまで、それらは皆、価値のあるものだと思います。

 正しさを共有してできる関係に、大した価値なんてありません。確かにそれは強さの源になります。でも、そんな強さよりも、人とのつながりが生む情の方が、遥かに価値のある物だと思います。

  ◇

 まあでも、これはアレですね。少し前に私は自分のことを「フラットアーサーと同じことをしている」なんて書いてますし。結構スペースビリーバー的な考え方をすることもありますからね。

 うん、まあ、自分のことを棚に上げてるなあと(笑)

  ◇

 他から持ってきた知識は、たやすく信じても安易に否定してもいけません。ですが、自身の価値観の元になるのは、他から得た知識や価値観なのです。究極的には、私たちは先人たちが積み重ねて育て上げてきたものを元にして、それらを組み合わせて生きています。

 だからこそ、多くのことを知って、考えて、自分自身が信じるに足る価値観を選んで積み重ねていくのです。そうやって自身の価値観を育てていくのです。

 そこに必要なのは、信頼できる単一の知識ではありません。より多くの、さまざまな角度から見た知識や、さまざまな価値観です。そこに絶対的な正しさはありません。どんな知識や経験も、さまざまな見方があるのです。

 だからこそ、常識や見たままよりも、自身の価値観を信じることが大切だと思うのです。そして、他者の価値観に触れて自身の価値観を育てていけば、自身の正しさに自信が持てるようになる。そうして得られた正しさは、ありきたりで間違った主張よりも、はるかに強い力を言葉に与えてくれると思います。

――そんな正しさのことを私は「信仰」と言うと思うのですが、どうでしょうか?

 結局、何事も突き詰めていけば、最後は信仰になるのだと、私は思います。そして、それを正しさではなく信仰だと認識すれば、必要以上にぶつからなくても良いと思えるのかな、とも。そうするためにも、盲信ではなく、正しく信仰すべきかなと。

 何より、信仰を広めるのに必要なのは、相手を否定することではありません。自分と異なる考え方を否定しあうより、自分と同じ考え方を増やすために布教をする、そんな世の中の方が好ましいと、私は思います。


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