試論「物語の面白さとは何か」
※本記事は、「小説家になろう」に転載しています。
インターネットって便利な道具ですよね。検索サイトに行ってキーワードを打ち込むだけで、結構いろんなことを教えてくれます。
そうですね、例えば「面白さってなんだろう」という疑問を抱いたときに、面白さとは何かを調べることもできます。……まあ、そのまま「面白さ」で検索するのは少し微妙な気もしますが。ですが、色々とキーワードを変えて検索すると、それっぽい答えを表示してくれたりもします。
現に、今私の目の前には、文章の面白さを「トピックへの興味(ジャンルの好き嫌い)」と「状況的興味(文章の論理性や意外性、内容等)」の二つで説明をするような文章が表示されています。
……まあ、ジャンルの好き嫌いはどうにもできませんよね。なので、作者にとって大切なのは状況的興味、書かれた内容から来る面白さの方になると思います。
◇
物語世界とそこに生きる登場人物がいて、何かが起きる。それは世界を揺るがす大事件かもしれないし、ありきたりなボーイミーツガールかもしれない。とにかく何かが起きて物語が動き出して、その結果何かが変わる。
その変化に読者は、時には納得をして、時には驚いて。共感したり手に汗を握りながら、次の展開を追い求めるのを繰り返す。
そしてそれらは、読者の持つ価値観に訴えかけながら少しずつ積み重なり、ゆっくりと読者を物語の世界へと引き込んでいくことになる。
それは例えるなら、読者と物語をつなぐ見えない扉を、物語を読み進めながら少しずつ開けていくような感じでしょうか。やがて開いたその扉を通って、読者は物語世界に旅をして、さまざまなものを見つけ出していく。物語から得られる面白さというのはそういうものだと思います。
――では、その「物語と読者をつなぐ扉」って、何でしょう。
思うにそれは、「物語の形でないと思索を巡らせることができない何か」だと思います。
◇
例えばそうですね。銀河英雄伝説という有名な作品がありますが。この作品の wikipedia がちょっと凄くてですね。登場人物なんて、一体どれだけあるのかというほどの文章量があったりします。
そんな熱量が感じられるような wikipedia の記事を読んで、その物語を読みたいと思うことはあるかも知れません。ですが、その記事をどれだけ熱心に読み込んだとしても、物語を読んだことにはなりませんよね。
物語の中で誰かが命を落とす。そのことが wikipedia に詳しく説明されているかもしれない。ですが、どれだけ詳しく説明されたとしても、その説明で心を動かされることはないし、思索にふけることもない。
――説明では伝わらない、物語でしか伝えられない何かがある、それは確かだと思うのです。
そしてそれは、物語を通してしか知ることのできない何かでもあると思います。
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思うに、説明よりも物語の形にして伝えてほしいことというのは、結構あるのではないかと思います。
成長について、小難しい言葉で説明してもらうよりも、物語の中から読み取りたいという人は確かにいる。
人生とは何か、人間とは何か、恋愛とは何か、それらもきっと、説明よりも物語で伝えてほしいと思う人も、きっと多くいるのです。
人間の魅力とは何かとか、そんなテーマを小難しく説明されたいかといえば、そんなのは嫌だという人が多くいてもおかしくない。
ですが、「クール」「おっとり」「ツンデレ」、そんなキャラの魅力がこれでもかと込められた作品を読みたいと思う人は、たくさんいると思います。
直接説明されると微妙だけど、物語の形になれば読みたいと思えるような「何か」があるのです。この「何か」こそ、物語にしかない、物語だけが持つ面白さで、「読者と物語の間にある見えない扉」の正体だと、私はそう思うのです。
――そしてきっと、この扉は読者だけでない、作者の側にもあるのかなと。
物語を求めているのは読者だけでない、作者自身も物語を追い求めて、その物語を紡いでいるですから。
◇
筆を走らせる前から完成形が見えてる作家なんていない、最初から面白くなるとわかった状態で書き始める作家なんていないと、私はそう思います。
もしそんな人がいるのなら、その人がやっているのは創作ではない。それは「製造」と言うべきかなと。
――最初から全てがわかっているような人が作る物語には、その物語からしか得られないような「何か」は書かれていないはずなのです。
物語でしか開けられない扉の向こう側は、物語を通してしか知ることができないはずです。だから、どれだけ構想を練って形を決めておいても、物語を追い求めれば、事前には気付きえなかった「何か」が必ず出てくるはずです。
それが出てこないのなら、その物語には「物語でないと思索を巡らせることができない何か」が欠けていることになります。それは、物語であることの意義を問うものです。
――物語と共に物語の価値も創り出す。創作とはそういうものでしょう。
作者自身が追い求めるような物語には、作者自身が未だ考察しきれていない「何か」があるはずです。
誰も知らない唯一無二の物語を追い求めれば、必然的にそうなるはずなのです。
――その「何か」を追い求めることこそが、作者が物語を書き進める原動力になり得るもので、それは読者が物語を読み進めながら追い求める「何か」と本質的には同じ物だと、そう思うのです。
◇
物語でしか開けられない扉の向こうにはきっと、作者や読者が追い求める「何か」がある。その「何か」は面白さの源泉で、その「何か」があるような作品はきっと面白い。
だから、作者は物語と向き合って、舞台を整え、キャラを動かし、ストーリーを進めて、少しずつでいい、その「何か」を表現していかないといけない。
そうして初めて、物語は読者に思索を促したり読者の心を動かすことができるようになる。
それはきっと、少しずつ、作者が自身の価値観に向き合いながら積み重ねていくしかないので。――そしてきっと、扉の先にある「何か」は、読む人それぞれが違う形に見える、そんな物なのです。
◇
物語でないといけないのは何故か。何故説明ではいけないのか。それはきっと、大切なのは「何か」ではなくて「何かに想いを巡らせること」だからです。
物語というのは、その中で語られる未知の知識、未知の答えを楽しむものではない。物語の中にちりばめられた未知の思索、未知の妄想を楽しむためのものなのかなと。
物語の面白さとはとどのつまり「物語を追うことでしか巡らせることができない思索や妄想に身を任せて、その人なりの満足感に浸る」ことだと、私はそう思うのです。
◇
作者が物語と向き合えば向き合うほど、作者にとっての未知が浮き上がってくる。それらと向き合って思索を重ねて積み上げて、やがて積み上げられた思索は「何か」となって、物語の扉を開ける。
その物語を読者が読み進めるとき、同じくように読者も思索を重ねていく。やがて読者もその扉を開けて、扉の向こうに「何か」を見る。
その「何か」は、作者と読者で違う形をしているかも知れない。でも、それでも構わないのです。なぜなら、価値があるのは「何か」ではなく「何かを形作るための思索」なのですから。
――そして、それこそが「物語の面白さ」なのだと思うのです。
物語に面白さを込めるため大切なのは、物語にして伝えたいこと、物語でなくては伝わらないこと、そういったものに真摯に向き合い思索を重ねる、そんな姿勢かなと、そんな風に思います。
とまあ、ちょっと真面目に語ってみましたが。
ツンデレ好きがツンデレ愛のままに筆を走らせ、執筆を通して理想のツンデレを追い求める。そうして自分の性癖と真摯に向き合って、自身の中にある性癖の扉を開けてその向こうにある「何か」を見つける。そんなのもアリかなぁ、なんて思います。
もちろん、そうしてできた物語に触れた読者が自身の性癖を深めた結果、作者とは違う「何か」を見出すこともあるでしょう。ですがそれも一つの結果だと思います。
――物語で開ける扉の数は人の数だけ、いやそれ以上の数があるのですから。
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