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はじめまして、きつかわです。 僕の夢は、


縁あって、阿部広太郎さんが主宰する連続企画「企画メシ2021」に参加しています。

先日、第一回の企画「言葉の企画①」がありました。
そこでの一番の大きな感情は「恥ずかしかった」でした。

それについて、少し書きたいと思います。


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初回に当たる今回の課題は「自分の広告を作る」

僕が作ったのはこんな広告。

はじめまして、きつかわです。
僕の夢は、自動販売機になることです。

僕は、自分を紹介するのが苦手。
ありがたいことに、全ての分野において自分よりも熱量も実力も上回る人たちに囲まれて生きてきた。そのためか、自己肯定感なるものも低め。

それでも、「なぜか人に好かれるよね」とか、「いてくれて良かった」とか、
そういう言葉をもらうことが何度かあった。
自覚も言語化もできないけどそれが僕の核となるものなのかなと信じて、
そんな自分が伝わるように考えた結果が「自動販売機」という表現だ。

実はこの比喩はオリジナルじゃない。
僕が好きなMr.Childrenの”Worlds end”という曲の

“飲み込んで吐き出すだけの単純作業繰り返す
自動販売機みたいにこの街にボーッと突っ立って
そこにあることで誰かが特別喜ぶでもない
でも僕が放つ明かりで 君の足下を照らしてみせるよ”

という歌詞からインスピレーションを受けた。というかほぼそのままだ。

ただ嘘をついて、「自動販売機」を使ったつもりは全くない。
確かに、この表現を良いと伝えてくれた人に対して申し訳なさもある。
だけど、僕はこの歌詞に、この言葉に勇気をもらったし、
この言葉を知ってから少し世界の見え方も変わったし、
自分が少しだけ救われたような、そんな言葉だった。

だから、Mr.Childrenの桜井和寿さんが書いたこの歌詞を
自分なりに咀嚼して、言葉にして、広告にした。

(あとはMr.Childrenが好きな人がいれば気づいてくれるんじゃないか、って裏メッセージも込めていた。)


問題はここから。
阿部さんが一人ひとりの広告に対して、阿部さんの解釈を伝えてくださった2時間にも及ぶあの動画。

全ての企画生の広告に目を通し、全てに解釈を伝えている阿部さんに正直びっくりした。

他の人への解釈を聞きながら、いよいよ自分の番。
溢れるワクワク感と不安で、少し前のめりに自分の解釈を聞いた。





自分の番が終わった時、僕は動画を止めて、パソコンを閉じた。

それは阿部さんの言葉に傷ついたからでも、衝撃を受けたからでも、
怒りを覚えたからでもない。

ただ、恥ずかしかった。

恥ずかしくて、逃げたくなって、見ることを止めた。


以下、阿部さんの解釈の要約だ。

・綺麗にできている。けど、「僕の夢は自動販売機です」というのはどこまで本気で思っているのか
・果たして『アクション』『言ってること』がリンクしているのか。
・「僕は『言葉の人であり行動の人でありたい』と思っている」


動画では、僕が阿部さんをFacebookの友達申請をした際にメッセージを送っていなかったことに触れて、このような解釈をしたと話していた。

恥ずかしかったのは、その無礼を働いてしまったことが皆に知られてからではない。
恥ずかしかったのは、気づいていながら蓋をしていた自分の中途半端さを易々と見抜かれてしまったからだ。


僕には夢がない。
どうしても譲れないものを、寝る間も惜しんで貫きたいと思えるものを持てたことがない。
いや、気づいてないだけかも知れないが、
今のところそれを言葉で表現できていない。

だけど、「僕の夢は、」なんて表現を使った。
これは、明らかに僕の言葉じゃなかった。
自己紹介のテンプレである「僕の夢は、」に「自動販売機」という無機質なものを載せれば、きっとインパクトのあるコピーになるだろう。
そんな安直な狙いだった。

「自動販売機」という表現には納得しつつ、
「夢である」という力強い言葉に逃げた自分を、
それに何となく気づきながら注目され評価されることを優先した自分を
丸裸にされた、そんな恥ずかしさだった。



そして迎えた、企画メシの当日。
その恥ずかしさは他の企画生への申し訳なさに変わった。

なんと10人以上もの企画生が、僕の広告を「推し」として選んでくれた。
本当にありがたいし、どのコメントもとてもあたたかい。
当日zoomで話したときに「きつかわさんだ!私の推しです!」と声をかけてくれた人もいた。

みんなの言葉が嬉しかった。だから、その分だけ、申し訳なかった。

取り繕った言葉で騙しているような、目の前の人を裏切っているような、そんな気分になった。
僕は企画生の「推したい」という感情に対して、無責任すぎたと思う。


「言葉は弾丸にもなりうる」なんて聞いたことがある。
一度放てば、取り消したくても戻ってはこない。
一度誰かを傷つければ、その傷は残ってしまう。
だから、受け取る先の人を想って慎重に使わなくてはいけない。

僕の広告の言葉は、果たして受け取る先の人のことを見ていたのだろうか。

見ていたつもりだった。どうしたら印象に残るか、口に出した時に読みやすいか、長すぎないか、誰でも理解できる表現か。

でも、見ているつもりで、もっと大事なことを見落としていた。
表層だけを意識して、奥底にある人間味を、自分の言葉を見落としていた。



では、この広告は果たして偽りだけなのか。

きっとそんなことはない。

企画メシの後に、同じ学生団体に所属し、数年間僕と行動をともにしてきた友人たちに広告の印象を聞いた。

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そこでもらったこんなコメントをもらった

「確かにそこにいたらちょうどいい。」
「しんどい時にいて助けになるってよりかは、いると自然と助けになってていなくなると気づけばしんどくなるって方やと思う。」
「自販機こと救世主とも取れたりすると思った」

また暖かいコメントが返ってきた。ありがたい。

やっぱり、多少のズレはあれども自身を自動販売機と評したのは、
嘘ではないと思う。
きっと、今の自分の認知としては間違ってはいないのだろう。

でも、だからこそ、無責任に言葉を使ってはいけない。
行動が伴わなくなった瞬間に、その言葉は戯言になる。
もしかしたら、「裏切り」という形で誰かを傷つける弾丸になるかもしれない。



阿部さんも動画でおっしゃっていた「言動」という言葉。
「言葉」と「行動」という意味。
どちらも、独立せずに繋がっている存在だ。

今の自分に圧倒的に足りていなかったのは、「言動」だろう。

「言動」の先には人がいる。受け取って、何かを感じる人がきっといる。
だから、責任を持たなくてはいけない。
その先の人に与える影響を想像しなくてはいけない。


「言葉の人であり 行動の人でありたい」
今回の講義にはたくさんの学びがあったが、もっとも腹落ちして、大事にしたいと感じて、今の自分に足りないと思った言葉がこれだ。

言葉の人に、行動の人になる。
勇気と希望を与えるような歌詞を書く桜井和寿さんのような言葉の人に、
広告を見た人が「まさしくこの通りだ!」と思わせる行動の人になる。
これが一つの企画メシの目標になった。



では、現時点で僕の夢はなんだろうか。
一つは「言葉の人であり 行動の人でありたい」

でも、いわゆる自分らしい”何か”はまだ見当たらない。

今は「僕の夢は、 」でしかない。

だから、これからの企画や、他の企画生と自分と向き合う時間を通して、
自分の心の底から想って行動できるようになったら、
その空白に言葉を置きたい。

これからの半年間、そんな時間一緒に過ごしていきたい。

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こんなことを思った、企画メシの第一回でした。

と言っても、書いてあるようにこの文字だけじゃ意味がないですね。
これからの行動が、これからの言葉が、どう届くのか、どう伝わるのか、
見守ってもらいたいなと思います。

どうぞ、よろしくお願いします。

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