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釜炒り新茶と宇治十帖とアンチエイジング

朝、ちょっとだけ早く起きたときに(いつもは8時半過ぎまで寝ている)、新茶を淹れてボーっとしながら源氏物語の宇治十帖(ダイジェスト版)を読む、というのが気に入って数日続いた。
なぜ宇治十帖なのかと言えば、ルピシアで買った新茶が、香りが素晴らしいのが売り、の釜炒りのちょっと特別なやつだったから。

その香りは、コーンみたいな…といったらコーン茶になっちゃうから安っぽく聞こえてしまうが、コーンとまではいかない、かすかな穀物のような香りだった。これはまさに自然の産物というか、人工的な香料には絶対ない、ポピュラーな香りを集めたアロマオイルなんかにもない、つまりは少数派の、工業化されてない、ちょっと珍しい香りなのであった。

フレーバーティーを最近割とよく飲んでいたので、人工的ではない自然の醸し出した、独特な香りを感じながら、朝のボーっとした頭で、そういえば、源氏物語で「薫」ってのと「匂宮」てのが出てくるやつがあったなぁ~、と思い出した。どちらも香りに関連していたような気がするけどなんだったっけ…(←私の源氏物語に対する理解はこの程度)、と思い、ググってみたのが最初。

で、原文を読む気はさらさらなく、現代語訳を読む気もなく、良くある、古文好きな人が書いたダイジェストでさらっと見てみた。

一言で言えば
薫→体臭が良い香りがするのでこう呼ばれた
匂宮→薫に対抗して香を焚きしめているのでこう呼ばれた
人だということが判明(他にもいろいろあるがはしょる)。

高校時代に絶対に原文読んでいたはずだが(高3の時の薄い教科書だった)、全く覚えていない。いやはや、なんでも新鮮だね、この年になると。

若いころに教科書やら課題図書で読まされた「名作」ものは、字面を追っていただけで内容を覚えているものはほぼない。
「古文」で取り上げられているようなものであれば、原文やその直訳だと訳だけに意識が向いてしまうし、なにより若かったから、まーったく内容なんて頭に入っていなかった。つまりは、腑落ちしていなかったのであろう。

そして、時は流れ、不惑も半ばを超え…で改めて読んでみると、めっちゃ面白いのである。ダイジェストだけど。

源氏物語の本編の方は、漫画にもなっているし、ドラマになったりもしてるし、さんざいろいろなもので取り上げられている。モナリザ並みに大衆的な二次・三次創作の何かになり、色欲お化けの変態の物語、くらいのイメージが私の中でできてしまっているのであるが(ファンの方すみません)、宇治十帖の方は、そこまでではなく、ちょっと続編、くらいの扱いなので、あまり詳しい内容は知らなかった。浮舟が自殺未遂をするとかそういう、ハイライトなイベントシーンを知っているくらいか…これも高校時代古文の知識に毛が生えたもので、「ハムレット」でオフィーリアが川を流れていく、あの有名な絵画なみの認識しかなかった…。

で、なにがおもしろいのかというと、薫が暗くてうじうじしてて、なんだか共感できる!(←私の場合。薫の性格がウザいという人もいるようですがw)
「自分はどこから来てどこに行くのだろうか」とか、エヴァンゲリオンの主人公みたいな感じではないか。(イメージです…エヴァは見たことなくて知りませんww)
で、結果若いのに世をはかなんで仏教に興味を持っている…なんて、この細かい性格描写…。1000年以上前の人が書いたとは思えない。というか、1000年以上前から人間の本質はやはり変わっていないのだなぁ、ということに、不惑も半ばを超えた人間としては胸が熱くなる(?)のである。

古典って面白いなぁ~(ダイジェストだけど)。

そして、更なる共感・関心ポイントとしては、
やたらと、「世は無常である」という表現が出てくるということ。
大切な人の死などをきっかけに、世は無常であると感じ、出家したり、
世は無常であるから○○(←詳細忘れた)、と、やたらと「世は無常」がでてくる。

世は無常…これって現代人が一番忘れがちなことなのではないかと…。

テクノロジーの発達がすさまじいとか、世の移り変わりは早いとか、時が経つのは早いとか、そういう意味での「無常」さはわかっている。が、一方で、例えば加齢が受け入れられない…昔できていたことができなくて落ち込むとか…のは、「世は無常」であることを忘れているからではないか。
いつまでも若いつもりでいたり…例えば親世代を見ていると、70代になっても若いつもり(気分は50代くらい?)でいるので認知症じみた脳機能の衰えがあっても全然それを認めないということがある…広く言えば、アンチエイジングなんかもそうだ。いつまでも「美魔女」だのいって、年を取ることを許さない空気について酒井順子さんはエッセイで書いていた。

これって、「世は無常」であることを忘れ、それに抗う、もしくは「無常」で「なく」できると勘違いしている、現代人の傲慢さから来ているのではないか。

『死の壁』で養老孟司さんが書いていたんだっけか、現代人は「死」が身近でなくなってしまったので、多摩ニュータウンあたりのマンションでは、棺桶をエレベーターに載せることができなかったと。(←これまたうろ覚えだけど…)つまり人が死ぬという前提が忘れられて設計されていたと。

これも根っこは同じで、人は死ぬ、人は老いる、世は無常である…ということを忘れている、というところから来ているのではなかろうか?

そして、世は無常である、という前提で生きていけば、もう少し人生も楽になる気がする…

やはり、古典から学ぶことは多いな。

と思いながら今日も顔ヨガに励む私なのであった。

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