がらんどう

「自分がない」そんな自覚があるときから頭によぎり続けている。

子どものころから周りの大人たちがどういう返答を待っていて、その望まれた返答をなんとなく分かっていた。望みに答えるとその人たちは喜んでくれるし褒めてくれるので、僕は発注通りに望まれた返答を続けるようになっていた。

発注に答えるため、なんとなくの答えを探すうちに1つ特技ができた。他人の真似事だ。

僕が面白いなと思った人やかっこいいなと思った人をトレースするようになった。でも「影響受けてるな」とか「こいつ真似してくるな」と思われるのも恥ずかしいのでやんわりとトレースすることにしていた。

そして真似をした人が答えていたことや答えそうなこと、その人の視点感覚を手持ちのカードにし、その時々の状況に合わせて使うようになった。当然面白い人の二番煎じなので”ウケ”をとることもできた。

僕はそんな本質的でない”ウケ”がとれることに甘えて、自分で何も考えないただただ飲み込んでは吐き出すだけの人間になっていた。

頭のいい人には「○○っぽい」とか「○○も言っていた」と指摘されてとても恥ずかしい気持ちになることもあった。

そんなだから「自分がない」のである。日々の生活も視聴者として映像を見ているだけのようにすら感じる。

そんな僕も「自分がある」と自覚できることもある。それは美しいものを見たり感じたりして心が震えることや、人と接するなかで訳もなく楽しかったり心地よかったりする瞬間だ。

そんな感情も仕事を始めて失いつつあった。何をみても空虚で雑音で、何にも意味を見いだせず、何も味気ない。そんなわずかな自分を失いかけて、失ってしまっていたからこそ、僕は逃げた。

自分がある人は自信のある人だと思う。僕は自分がないから自信がないのだ。

「自分をもてばいいじゃん!好きなことしなよ!」なんてアドバイスをしてくださる方もいらっしゃいます。

それができていたらこんな文章は書いてないです。

それと相手の意見を否定する”自分”はいるみたいです。






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