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夏のパリに探したショパンの幻影

連日の37℃に至る酷暑の東京を出て、最低気温18℃のパリに着いた夏のある日、私は前後の事情からほんのわずかの時間でしかなくなったパリの滞在時間で、ショパンの居所(跡)を探す小さな旅に出た。
F.F.ショパン(1810-1849)のピアノ曲の作曲年を手掛かりに「この場所であの曲が書かれたのか」と気ままな想像をする事で、次にその曲を弾く時に訪れるであろう、頬に感じるわずかな風の色合いの変化を期待したいのである。


⬜️ ヴァンドーム広場

ショパンの住んだ時期 : 1849年

▶️広場南西角から東側を見る

無計画な旅は何故か彼の終焉の地から始まった。
オペラ・ガルニエ(旧オペラ座)の南端に立つと、放射状に伸びた道はもちろん一つはルーブル宮の外翼に通じるのだが、ヴァンドーム広場に至る道もまた、緑青に光るそこの巨大な記念碑が旅人を引き寄せる。

その昔、ナポレオンが戦勝記念に敵の大砲を溶かして作らせたという、おどろおどろしい由来の記念碑のある広大な広場に面する最高級邸宅群。ショパンの終の住処はその一角にあり、現在ではそこに100年以上居をそこに構える高級宝飾店になっているのだが、恐れ多くて近づく事さえできなかった。

ただ、この広場の立地の良さと明るく開けた感じが、ショパンが最後に、信頼のおける友人や家族とともに過ごす場所として、選んだ事はなんとなく理解ができた。


⬜️ マドレーヌ寺院

ショパンの葬儀の執り行われた場所

▶️アテネの神殿の様な外観とは裏腹に中身は堅実な教会なのだそう

ヴァンドーム広場からいったんセーヌ川方面へ向かい、コンコルド広場に出る。ここはフランス革命時代の断頭台の跡にエジプトから贈られたオベリスクが聳え立つのだが、正面にエトワール凱旋門、後ろ正面にカルーセル凱旋門(ルーブル宮)という絶景の地でもある。左手にはセーヌ川が望めるが、右手にその威容を見せるのが、マドレーヌ寺院である。

▶️コンコルド広場のオベリスク、左手奥に見えるのがエトワール凱旋門

ショパンの命日や葬儀の様子の話は5年に1回のショパン国際ピアノコンクールのたびに振り返られるので、ここでは触れないが、ショパン自身の作曲した前奏曲集から第4番(Op.28-4)が葬送のためにマドレーヌ寺院で演奏されたという事を改めて噛み締めた。


⬜️ ショセ・ダンタン

ショパンの住んだ時期 : 1833〜1839年

▶️オペラ・ガルニエ 西側
▶️オペラ・ガルニエから見上げたギャラリー・ラファイエット

シャンゼリゼ通りがまだ田舎であったというショパンの住んだ時代のパリは、パリ一番の繁華街がショセ・ダンタン周辺だったと思われる。
ショパンの居所のあった辺りは今ではギャラリー・ラファイエットというパリ最大の老舗デパートが立地する。
(このデパートの屋上は展望用に開放されているが、ガラス張りの柵になっていて、そこから見るガルニエ宮が一番美しいガルニエ宮のように思うし、その右手遠景にエッフェル塔が見える様も素晴らしい)

バラード第1番(Op.23)はおそらくここで作曲されているのだが、中間部にとても華やかな部分があり『これこそパリ』と思って聴いて弾いていたのですが、まさにここ、ショセ・ダンタンがその場所、と納得した。
それ以外の曲でも、ポロネーズ第1〜3番(Op.26-1,2 , Op.40-1)やワルツ第2番・第4番(Op.34-1,3)もこの頃書かれており、ショセ・ダンタンの華やかさを知ってしまうと今までよりももっと歯切れよく元気に弾いても良いのではないかとヒントを得た。
(自分の技量に合わせて弾き直してみたい、の意)

▶️メトロ ショセ・ダンタン駅

⬜️ ポワソニエール大通り

ショパンの住んだ時期 : 1831〜1832年

▶️文献には「今は家はなく門だけがある」とあるが、
青いトタンに覆われた工事中の度合いが厳しく
ココがそうだという確信は得難い

上記写真のショセ・ダンタン駅から少し東(ガルニエ宮の反対側)にいくと急に街路樹の美しい道幅の広い落ち着いた道となる。西行きの一方通行でゆったり車が3〜4列で流れていて、ショパンの時代には馬車が走っていた事を想像しても違和感のない通りである。

そこからもう少し東にいくと、その大通りに面して「ショパンのパリでの最初の家」を何とか探し当てる事ができた。今ではここは少し俗っぽい賑わいと汚さのある街角であるが、ポーランドから何ヶ月もかけてパリに来たショパンが、エチュードOp.10やピアノコンチェルトOp.11、あるいはワルツ第1番(Op.18)を、もう、小脇に抱えていて最後の推敲を経て出版・演奏の機会を待っていた、そんな大志と不安に満ちた時期をこの大通りに面した小さなアパートで抱えていたかと思うと感慨深い。

《後日追記》
この地を訪れる約1ヶ月前に弾いた Op.11 の録音を改めて聴いて、訪問への期待感からのショパン愛あふれる演奏をしていたのだと気付きを得た。

《追記終わり》

いずれにせよ、この地で彼の華々しいキャリアはスタートするわけだが、この『門』を前にして感じた孤独感と望郷の念、そして言いようのない明日への不安を感じていたからこそ、ショパンが好んで自分の為に弾いたというワルツ第3番(Op.34-2)のイ短調...ショパンの作曲にイ短調は珍しい...が、なおいっそう、重く、深く感じられるようになった。


⬜️ スクワール・ドルレアン

ショパンの住んだ時期 : 1842〜1849年

▶️通りに面したこの大きな扉の向こうに噴水のある広場を囲んだアパート群がある
▶️パリ市公式の観光名所の看板があり、サンドとショパンの名がある

健康を徐々に失っていったショパンが、マヨルカ島での静養に失敗し(ただ、そのお陰で前奏曲集の中でそれを描写したのではないかと言われるOp.28-15のような名曲も生まれたわけだが)パリに戻ってから再度居所を転々とした後、長い期間住んだのがスクワール・ドルレアンである。

ジョルジュ・サンドとショパンが中庭を挟んだ別室でお互いの距離感を掴みながら暮らした様子が窺えるかもしれないと期待して行ったが、あいにく扉は施錠され、中庭に入る事はできなかった。どうも現役の住宅のようで住人の方が鍵を掛けておられるっぽかった。それは逆らえない道理です。
また、ここはショセ・ダンタンから北に(郊外に)10分ほど歩いただけしか離れていないが、人通りはまばらでひとり身の観光客が長居できる雰囲気ではなかった。

ただ、ショセ・ダンタン時代の1930年代とは明らかに異なり、スクワール・ドルレアンで1940年代に作曲された曲たちは、バラード第4番(Op.52)らの晩年の大曲(Op.60以降)をはじめ、寂寥という言葉しか浮かばないワルツ第7番(Op.64-2)に至るまで、曲たちの大きさや重さが、この閑散とした通りと大きな扉を見た事で、ずっしりと私の心を大きく打った。

帰国したら、ゆっくりこれらの曲をまた、噛み締めてみようと思った。


以上、
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
文中で取り上げた曲は基本的に私が趣味ピアノで習ったことのある曲から選んでいるので、あの名曲もこの名曲も含まれていませんが、ピアノレッスンと譜面からだけでは想像しきれなかった事にもうひと塗り、モノトーンの色彩を加える事ができるような気がする体験でした。

誤記などありましたら、随時改訂しておきます。

掲載写真:著者撮影(2023年8月)
引用動画 : 著者演奏
参考文献:文藝別冊「ショパン-パリの異邦人」