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旅立った空に映る色

週末、この夏に亡くなった伯母を親族で偲ぶ会があった。伯母に想いを馳せながら久々にゆっくり言葉を交わす時間があるといいね、と話していた葬儀が八月の終わり。もう、四ヶ月近くも経っていた。

雲ひとつない小春日和の中、最寄駅から川沿いを歩いて会場へ向かった。やわらかい日差しを浴びて心穏やかになったのも束の間、会場の入口を間違えていたことに気づいた。近くで迷っていた弟と鉢合わせ、小走りで到着した頃には兄弟そろって汗だくになっていた。

ぼくの従兄弟である、伯母の長男の乾杯で会は始まった。風邪気味だったので珍しくウーロン茶でグラスを交わした。やけに喉が渇くのが、テーブルの上に鎮座する石焼き用の溶岩のせいなのか、走ってきたからなのか、ここ数日続いている微熱のせいなのか、わからなかった。

伯母の長女、これまたぼくの従姉妹が、伯母の生涯をまとめた小冊子を用意してくれていた。雑誌風のデザインで、「海外と英語への憧れ」「典型的な晴れ女」「飄々としたミーハー」などと家族や姉弟にとっての伯母が綴られていた。食後にはショートムービーの投影。今まで知らなかった伯母のエピソードがたくさん描かれていた。

伯母は、旅好きだった。

大学時代に「旅の会」なるものに所属していて、登山が好きだったと初めて知った。数年前、伯父と二人で日本各地をドライブしていた話を父づてによく聞いていたのを思い出していた。

動画の後、従姉妹が伯母との最後のひと月について話をした。彼女は、この七月まで留学のためアメリカに滞在していた。帰国まもなく伯母の容態は悪くなり、従姉妹は母にアメリカの土産話を聞かせてあげることも叶わず、伯母は息を引き取った。

従姉妹は「都合のいい解釈かもしれないけど、母はわたしの帰国を待ってくれていたのだと思う」と語った。そういえば、兄の従兄弟も乾杯前に「勝手なことを言うと、この歳になってようやく母に似てきた気がする」と呟いていた。

二人とも、自由だった。
だが、誰よりも伯母に言葉を手向けていた。

会の終盤、夫である伯父によるスピーチがあった。確かな年月の記憶とともに刻まれていた、二人の出会いから今に至るまでの道のり。春先、伯母の体調に異変が起きた頃からの話は、まるでドキュメンタリーを観ているような語りだった。静かな部屋に響く啜り泣きの声に涙をこらえながら、伯父の声に、じっと耳を傾けていた。

伯父もまた、誰よりも伯母に言葉を捧げていた。伯母は、皆が語った言葉によって確かに姿を取り戻し、あの空間に皆と一緒にいたのだった。

帰らぬ人となれば言葉を交わすことも叶わない。だから、残されたぼくらは語るのだ。看取った最愛の人がもう伝えられない分、どれだけ勝手で、都合のいい話であっても。

従兄弟たちが会場に選んだ場所は、伯父と伯母が数年前に金婚式を挙げた場所だった。伯母の手帳には、この冬に、ここで伯父と二人でアフタヌーンティーをしにくる予定も書き込まれていた。二人でゆっくり過ごすはずの時間は、親族みんなで過ごす賑やかな食事会として叶ったのだった。

時が経てばモノクロームへと薄れる記憶も、語られる言葉の数だけ、彩り豊かな永遠とわとなる。伯父は最後の一瞬まで、愛する人の人生に色を添え続けた。

旅好きだった伯母はきっと、冬空に映る景色を楽しんでいる。夏に手向けた花のように、あの日、会場を囲んでいた庭園の木々もまた、とても鮮やかな色をしていた。


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