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1本の牛乳瓶の向こうに

家の大掃除で珍しく身体を動かしたら、疲れすぎて頭が働かなくなった。じゃあ珍しく頭を動かしたら身体が働かなくなることもあるんだろうか。それはただ頭を強打して気絶しただけだと思う。とりあえずこのnoteにポディマハッタヤさんは登場しない。

お風呂に入りながら牛乳瓶について考えていた。ぼくは今日頭を強打したりはしていない。

幼稚園のお昼ご飯はお弁当だった。教室の前の縁側に並んで座ってみんなで食べる。今思うと禅の修行みたいな光景なのだが、飲み物だけは園側で温かいお茶を支給してくれていた。縁側だけに。つまらなさすぎてこのnoteを最後まで書ききれる自信を既に失いつつある。

年長組に上がるとお茶は牛乳瓶になった。それは人生で初めての昇格であった。

プラスチックのコップではなくてビンである。6歳の園児に割れものを委ねる信頼は、6年目の社会人に難事案を委ねる信頼をはるかに凌駕する。次の昇格は小学校3年生で国語と算数の教科書のサイズが小さくなったときだから、牛乳瓶で味わった達成感は代えがたいものがある。牛乳瓶で一体何を達成したのかは知らない。

小学校の給食で牛乳瓶が割れるのはありふれた光景である。配膳中にうっかり。食事中にうっかり。ぼくは給食の配膳カートを走行中、廊下の柱に激突して多重事故を発生させたこともある。もちろんそれもうっかりである。牛乳瓶は割れるために存在する。

ある日、給食の配膳を終えて席についていたTさんの牛乳瓶が机から落ちた。机を4人でくっつけていたのでぼくはTさんと同じ島で向かい合っている状態だった。小学校の教室で「島」とか絶対言わない。でもとりあえずぼくはTさんと向かい合っていた。そして牛乳瓶は落ちた。

が、牛乳瓶は割れなかった。給食当番でまだ立って配膳をしていたMくんがヘッドスライディングでキャッチしたのだ。運動神経のよかったMくんが見せた床上数cmの奇跡だった。

これにはぼくの島の同僚、じゃない、クラスメイトも拍手喝采である。Tさんからも惜しみない賛辞が贈られる。当時Tさんのことが好きだったぼくはあと3本ぐらい牛乳瓶を落とそうかと思ったのだがかろうじて思いとどまった。

そんな牛乳瓶のメーカーはメイトーだった。ぼくはこのブランド名をずっと「首里城」のアクセントで理解したまま卒業するという大罪を犯した。どうやら一般的なアクセントは「斎藤」形式だったらしい。「お前んとこの牛乳、どこよ?」「メイトー」みたいな会話を他校の者から仕掛けられていたら羞恥心で爆死していた可能性がある。

牛乳は嫌いじゃなかったが、給食の献立が和食の日は嫌だった。何が嬉しくて白米、さんまのみりん干し、切り干し大根、みそ汁の純ジャパな布陣を前にぬるい牛乳を飲まねばならんのだ。一流ソムリエでも瓶を割りたくなるほどの絶望的なマリアージュである。

お彼岸の日の給食におはぎが出たことがあったのだが、残暑で牛乳は完全に常温に戻っていた。日本酒は常温でもいいが牛乳の常温は断じて許せない。「今日の牛乳、やさしい味だね」なんて微笑む小学男児がいるわけないのだ。

でもいただきますから5秒後、牛乳瓶を倒して即席あんこミルクリゾットを作る小学男児はいるのだ。地獄の体現である。あまりのショックで気を失ったのか、この日のぼくの給食の記憶はそこで途切れている。


これを書きながらホットミルクを飲んでいた。マグカップはほとぼりを失ってやさしい味になっている。大人になったのだ。もはや地獄ではない。地獄は月曜日である。

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