こういう人が1人、2人いてもいいんじゃないですかね
noteには、思考のヒントがたくさんあって楽しい。
広く浅く集めるなら、twitterのほうが勝手が良い。でも140字という限られたフィールドでは、強い言葉ばかりが交錯している。「コンビニでつまみ探してて、2分くらい眺めてたのがペットフードの棚だった。」みたいな友人の世迷い言も混ざるけど。スレッドで投稿という手段も含め、どこまでいっても読み物としての「文章」という形でのアウトプットじゃない。
twitterでシェアされているnoteを探せばよいのでは?と自問自答する。それもなんか違う。シェアされているのはごく一部だし、コメント付きリツイートであるかどうかにかかわらず、何より「誰かの評価(レビュー)」の結果であって、生身の文章じゃない。
あれか、noteをあちこち巡るのは、本屋の棚をあてもなく眺めているのに近いのかもしれない。気になった本は手に取ってじっくり読むこともできる。立ち読み。きっとそうだ。だから楽しいんだ。とりあえずそういうことにしよう。そういうことにした。
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昨日、プロフィールをほんのり書き換えた。
考えていることを「文章」という輪郭のある形に落とし込むのが好きです。
文章を書くとすっきりすることが多いのは、自分のもやもやした思考が目の前に1つの形あるものとして現れるから。柴咲コウが一瞬よぎった。そこには「ああじゃない」「でもこうかもしれない」とか、アウトプットまでのプロセスが見える。自分以外の誰かの思考錯誤を追随できるから楽しいんだと思う。とりあえずそういうことにしよう。そういうことにした。
他者の思考を追随するなら本だ。本は好きだ。でも今や必ず本である必要もない。noteには、本にはない距離感がある。この距離感がインプットとアウトプットのサイクルを速める。でも、どこかゆったりとしている。
そのサイクルを回しながら、何を書きたいのかを最近よく考えている。きっと答えは無い。無いほうが書ける。そんな気がする。
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この記事のタイトルは、去年の夏にたまたま観た「プロフェッショナル仕事の流儀」で聞いた言葉だ。
舞台は、三重の山深い里にポツリとたたずむ小さな電器屋さん。そこに、修理を断られ、見放された家電たちが全国各地から続々とやってくる。店主・今井和美(60)に命を再び吹き込んでもらうためだ。今井の修理成功率はなんと95%超!依頼者の「使いたい」に応えるため、半世紀にわたって数え切れない家電と向き合ってきた。その驚くべき修理技術と、貫く流儀に迫る。
今井さんは、36年前のPCを直す。ぼくは生まれてすらいないので、機械の名前は聞いたことがある程度。そんなんまだ使ってる人いんの!じゃなくて、その修理部品の在庫をまだ大切に持っていて、真摯に一人ひとりの声に応えようとしている姿にとても惹かれた。ひたすらカッコいい。
もう1年近く前の番組だから忘れていたことも多かったのだけど、ぼくのおぼろげな記憶よりずっと確かな言葉で、今井さんの魅力を語ってくださっているnoteを見つけた(藤川さくらさん、ご挨拶も無しに引用してごめんなさい。でも同じことを素敵だと思っている方がいて嬉しかったです)。
「こういう人が1人、2人いてもいいんじゃないですかね。」
1時間の番組の中で、この言葉だけ耳に残って離れなかった。技術を磨き、選ばれるための理由、自分の存在価値を、疑わずに確立してきた生き様に響くものを感じた。自分を疑わない強さ。誰にでも真似できることじゃない。
今井さんのこの言葉は、自分が何かを続けようとしているときに背中を押してくれる。自分の経験に裏打ちされた技術だけを信じて、自分を他人と比べない。何かを愛する、夢中になるってこういうことなんだと思った。
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この記事は何だか、今まで書いてきたものと違う。
書いていて元気になった。思っていたことをそのまま言葉にできた。今までもしてたけど。もっとなんかこう、自然な文章。生きている。今まで死んでたわけじゃないけど。
見方によっちゃこの方が、自分の思考に素直な輪郭を与えられている気もする。それを書きたいのかどうかは別として、勢いで書くのも悪くない。とりあえずそういうことにしよう。そういうことにした。
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