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他人の仕事は褒めなければいかんのです。

何年も前、仕事をご一緒した方がくれたこの言葉を忘れられない。

7月。上下にスーツを着込み、外に立っているだけで汗が滝のように流れてくるほどの真夏日。仕事で九州に出張していて、その日はお客さんの御宅に赴いて難しい説明をしなければいけない日だった。

難しいというのはこちらの見方でしかない。お客さんのご不満に耳を傾け、「できない」という結論を再度提示しなくてはいけなかった。そして、その結論が変わらないであろうことは訪問前から既に予想がついていた。

その方は白髪のよく似合う小柄な男性だった。この道何十年のベテランで、まだ経験の浅かった当時のぼくには心強いパートナーだった。今回の案件のために出張で来ていて、普段はぼくと同じく東京で仕事をしているという。うちの会社とも過去に何回かやり取りがあるらしかったが、ぼくは初対面だった。タクシー乗り場で落ち合って、名刺交換から始まった。


訪問の結果は思っていたとおり「できない」だった。

数日前、お客さんはたまたま居合わせた別の業者から「もう一度その会社を呼んで調べてもらったほうがいい。これはド素人の仕事だ。肝心な部分を見落としてる。」と言われていた。専門家にそう言われれば誰だって「じゃあもう一度」となる。今日ぼくらがここに来たのはそういう経緯だ。

だが結果は当初と変わらず「できない」だった。技術があればできるというものでもないから、別の業者がお客さんに耳打ちした内容は正しくなかったということになる。かといってお客さんに対して言い訳をするなんてもってのほかだ。ご要望にお応えできない理由をひたすら丁寧に説明するしかなかった。スーツの内側に、蒸し暑さとは違う汗がにじむのを感じた。

お客さんの御宅にどれほどの時間いたかは覚えていない。気付けばぼくらは帰りのタクシーの中に座っていた。ご理解をいただけたのか見放されてしまったのかわからないしこりのようなものが、後部座席に漂っていた。


信号待ちの静かになった車内で、彼はおもむろに口を開いた。

「今日のお客さんのご不満の原因は何にあると思いますか。」

ぼくが窓の外に向いていた視線を戻してきょとんとしていると、彼は静かにこう続けた。

「わたしはこの業界で長く勤めていますが、働き始めて間もなく上司にこう言われました。他人の仕事は必ず褒めなければいけない。誰かの仕事にケチをつけてはいけない。社会の中で巡り巡って自分の仕事がけなされるだけだ。良い循環を作らなければいけない、と。」
「今日の件だってそうです。お客さんのご不満の原因は、何日か前にやってきた別の業者にあります。業者はお客さんを唆すようなことを言ったようですが、ちゃんと調べてそう言ったわけではなかったはずです。憶測で他人の仕事を卑下するなんてとんでもないことです。他人の仕事は褒めなければいかんのです。そうして良い仕事の連鎖ができるのです。」

緊張の糸が切れて頭の芯から弛緩しきっていたぼくは、このとき「そうですね」と相槌を打っただけでそれ以上彼と多くの言葉は交わさなかった。

しかし彼のこの言葉は、月日を重ねるごとにぼくの心の中で木霊するようになった。幾度となく。確かな余韻をまとって。


翌年ぼくは部署を異動し、現場とは距離を置く生活が続いている。以来彼とは会ってもいなければ連絡を取ったこともない。業務内容が変わったこともあり、彼と仕事をともにする機会は当面、あるいはもうずっとないと思う。

ぼくは、他人の仕事を褒められているだろうか。

あの日彼の放った言葉がすべて正しいとは思っていない。褒めるばかりでは共感のぬるま湯につかって淀みがあることに気付けない。誤りや不備があるのなら適切に指摘すべきだし、それで関係者が全員報われることもある。

だがそれはとても難しいことだったりする。有限な時間の中で自分の仕事ですら十分な点数を取れていないのに、誰かの仕事に点数をつけるだなんて。自分が取った点数だって誰かのおかげかもしれないのに。誰かが点数を取れていないのはもしかしたら自分のせいかもしれないのに。

そう。かもしれないのに、かもしれないを安易に捨てている。

仕事は選択と捨象の連続だ。捨てることが必要なのはわかっている。でも簡単に捨てちゃいけないものがある。それに、ポイ捨てする人はポイ捨てされる。それがわかっていてもなお、簡単に放り投げようとする。


仕事に限らず、彼の言葉を思い出す機会は時を経るごとに増えてきた。それはもしかしたらこの言葉を反芻すべきような場面が増えたということなのかもしれなくて、ぼくは今日もあの日のタクシーの自分を省みながら背筋を正そうと必死になっている。

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