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9年前のこの日、ぼくはシアトルへ旅立った。

毎年8月4日になると思い出す。あと1年待てばちょうど10年だけど、書くことはきっと同じだと思うから、今日書いておくことにした。

当時ぼくは大学3年生だった。文転して迎えた浪人時代を何とか気力でやり過ごし、大学へ入った。嫌いではないけど夢中になることもない法律を専攻し、友人とお酒ばっかり飲んでいた。かけがえのない自由を謳歌したけれど、何かが流れ出ていくだけの無為な時間だった。

入学して間もない時期は学業への熱がたぎっていて、英語の上のクラスに入るための選抜試験を受けた。受験科目の中では英語が割と得意だったというだけで、完全なる勢いだった。

拍子で受かってしまったクラスは、ぼく以外の全員が帰国子女だった。最初の授業で「過去に滞在していた国を書いてください」と紙を配られた。海外経験はないのですがと教授に声をかけたら、小さなため息の後に「None(なし)」と書いてくださいという言葉が返ってきた。

英語のクラスはスピーキングが中心だった。リーディングとリスニングばかりやってきた典型的な「高校時代ちょっと英語が得意だった大学生」にとっては、苦痛でしかない90分間だった。気付けば英語が嫌いになっていた。

無為が無為だと気付き始めた大学2年生の冬、就職活動という言葉を耳にすることが増えた。働く自分を想像し始めたと言えば聞こえはいいが、就職活動というゲームに参加しなければいけないと知ったぐらいが関の山だろう。攻略本さえ見れば何とかなる。楽観もいいところだった。

それでも、自分は何かをしなくちゃいけないんじゃないかという、いっぱしの大学生なりの強迫観念だけはあった。初めのうちは真面目に勉強した法律も、それで食っていこうなんて思えない。他の可能性を探すほどのモチベーションもない。社会で求められるもの。何だろう。

このときの自分に出せた解が、英語だった。

奇しくも、大学に入ってからは嫌で仕方がなかった英語は、「話せない」という悔しさだけを燃料にして息長く学習を続けていた。目標があったわけじゃない。英語を話せなくて悔しい。それだけだった。毎日音読やシャドーイングをして、舌の筋トレには余力がなかったのが幸いした。

気付いたときには、留学することを決めていた。大学の制度である交換留学の試験にはことごとく落ち、見いだしたのは私費留学という活路だった。行先は米国シアトルのワシントン大学(University of Washington)。まだイチローがマリナーズにいた頃だ。

シアトルは米国北西部最大の都市で、ワシントン大学はアジアからの留学生も多い、活気に満ちた美しい大学だった。キャンパス(Quad)には桜の木が立ち並び、春にはここでお花見をする学生も多い(帰国のタイミング的に、生憎ぼくは桜を見ることは叶わなかった。下は冬に撮った写真)。

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私費留学だから、親には負担をかける。そんなわけで留年はしない約束になっていたから、進級に必要な単位は3年生の前期にすべて取る必要があった。必修の法律と他学部の授業をいい塩梅に組み合わせて作り上げたカリキュラムは決して楽ではなかったが、進級に必要な条件は渡米前に調えることができた。密度の高い勉強をしたという感覚はあまりなかったけれど。

そんな慌ただしい時間を過ごし、2011年8月4日、ぼくは成田空港からシアトルへ旅立った。

入国手続きでは質問責めに遭った。私費留学ではあるのだけど留学形態がやや特殊だったこともあって、ビザの発行時期が入国後だったからだと思う。一人だけ足止めされ、あわや帰国させられるところだった。事前に連絡を取っていた現地の学生(後に留学中で一番仲良くなる友人)を随分と空港で待たせてしまったが、彼と無事会えて胸をなでおろしたときのことは、きっと一生忘れない。

留学中は、もちろん色々なことがあった。アパートのシャワー室を開けっぱなしにして、全館に火災報知機を轟かせ、慌てふためいてパンツ一丁で廊下に出たこと(もちろんオートロックで鍵は部屋の中に忘れた)。行先の違う終バスに乗って10km歩いて帰ったこと。ルームメイトが共有キッチンで食べ散らかす骨付きチキンの残骸を日々掃除し続け、異臭に耐えられず消臭剤を10個ぐらい購入したこと。自炊で親子丼を作ったのに三つ葉が無かったので、代わりにバジルを添えたら何故かこの世の食べ物じゃなくなったこと。無理をして大学院生のゼミを履修したら、案の定、キャパオーバーになって泣きそうになったこと。

そして、翌春の帰国後まもなく始まる就職活動に向けて、留学中からエントリーシートの提出などをする傍ら、現地での思い出作りに全身全霊を投じられない自分が悔しくて仕方がなかったこと。

シアトルを発つ日のFacebookの投稿が、まだ残っていた。

I’m leaving Seattle in five hours.

I don’t remember how many times I have said good-bye to my friends since last week. I have to say thank-you again here to my friends who came see me all the way and who spent time with me to hang out. I’m really glad I had a great time with you.

This quarter I have been struggling to attain the three goals: making the best of the rest of my time in Seattle with my friends, having a successful end of my classes, and writing my application papers to companies. I’m not sure if I achieved all of them, but I want to say that I achieved at least the first one.

Even though I spent just seven and half a months in Seattle, I would like you all to remember that I was here with you.

Hope I can see you Japan, Seattle or somewhere on the earth.
See you around.

2012年3月末、ぼくは帰国した。翌週には最初の企業の面接を控えていた。空いているかぎりの時間を使ってOB訪問をしたり、テストセンターを受けたりしながら、勢いのまま就職活動本番に臨んだ。留学の準備期間も含めて、本当に勢いでばかり過ごしていたなと改めて思う。

留学先での思い出をまだ鮮明に語れたことが奏功したのか、入りたかった企業から内定をもらい、親との約束は果たすことができた。一目会って、電流が流れるように憧れた先輩社員がいたのが決め手だった。ぼくは今も、その会社で働いている。あのとき憧れた先輩社員のようなカッコいい働き方を目指して。何とも青臭い話なのだけど。

シアトルは夏こそ素晴らしい天候に恵まれるが、それ以外は小雨(現地ではシャワーと呼ぶ)が降り続ける曇天の街だった。小雨を吹き飛ばすために、ぼくはあの街をよく Rainy Kingdom と呼んで友人と笑っていた。

そんな天候もあってか、留学中は何かと後ろ向きになることが多かった。

どうして親日のシアトル、ワシントン大学を選んだのだろう。英語漬けの生活を送りたいなら、もっと日本から、日本語から疎遠になれる僻地に行けばよかったのに。どうして国際関係学を選んだのだろう。他に勉強したいことはあったはずなのに。どうしてこんな時期に留学したんだろう。ちゃんと考えて時期を選べば、中途半端な就職活動に追われることもなく、もっと充実した留学生活を過ごすことができたかもしれないのに。

でもあるときから、正しい道を選ぶことじゃなくて、選んだ道を正しいと思うほうが、人生はずっと豊かになると思えるようになった。

留学先での就職活動という名目で、縁会ってお会いしたシアトル駐在の大先輩がいた。その人は、働くということ、人生をどう生きるかということに五里霧中だったぼくにこう言った。

自分の大切にしていることを、100回、口に出して言ってみなさい。それがあなたの哲学になる。

思考は言葉となった瞬間、自分から離れた一つの存在になる。口から発した言葉は耳に入り、書いた言葉は目に入る。100回自分から出ていった言葉は、100回自分と向き合うことになる。それだけの出会いから、何も感じない人はいないだろう。

留学先でエントリーシートをたくさん書いた。そこでぼくはいつも「逆境こそ成長の機会」と書いていた。それは、選んだ道の正しさを信じられなくなったときに、正しいと思えるだけの努力をするという意味だった。

思い返せば、英語のクラスで自分だけが英語を話せないという悔しさを覚えたのも、自分が選んだ道の否定だった。上に書いたような留学先での数々の後悔の念も、選んだ道の正しさへの疑いでしかなかった。すべて、自分で自分を信じられるほどの努力をしていないということの証だった。

大学入学直後に受けた英語クラスの選抜試験。無為な生活を一変させて選んだ留学とその行先。慌ただしく帰国して突入した就職活動。今振り返ると、すべてが中途半端で行き当たりばったりだった。もっと本気で英語を学んだり、もっと本格的な留学生活の中で大変な苦労をされている人たちに対して向ける顔がないぐらい、適当だった。

でもその大先輩の言葉は、確実にぼくの意識を変えた。シアトルは親日の学生が多くて、英語と日本語の違いついて語れる友人がたくさんできた。国際関係学の中でも、今まで自分が興味をなかった分野の授業を英語で学んでみたら、新しい発見が多かった。普通とは違う留学形態も、自分にしか経験できない貴重な機会かもしれない。そんな風に思えるようになった。

人生の航海図なんてないのだから、読み返したときに胸を張れる航海日誌を書いていけばいい。そのためには、船の進路にずっと気を揉んでいるより、どんな風が吹いてきても帆をしっかりと張り続けられるよう、ロープで支えることが大切なのではないかと考えるようになった。

詭弁かもしれない。航海図も持たずに海に出るなんて常識外れもいいところだ。大学生ならまだしも、この歳になってまだそんな風に考えているなんて大丈夫か。いい加減に目を覚ませ。そんな声もたまに聞こえる。

だけど先行き不透明な未来だからこそ、大きく踏み外していないのであれば前に進めばいいと思う。叶わない後戻りを悔んだり、先の見えない進路に想いを巡らしすぎる時間があるなら、足を進めてみたい。

人生の航海図はないが、羅針盤はある。それは、自分を疑わない強さであり、選んだ道を自分で正しいと思えることから始まる。どんな道を進んでもいい。道が間違っていないことの証明は、自分だけができるのだから。

この文章は航海日誌の1ページであり、今日も羅針盤の針は左右に振れることなく先を示している。

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