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制作につきまとう危険なテーマ

ある一定のラインから、作品を作る時に「テーマ」を求められるようになる。
私の場合は、短大に入ってから。
その頃はそんなもんクソ食らえと思っていた。 ただこれが中々厄介で。
ある人が言うには「おでんの串」みたいなもの。
今時っぽく説明すると、Instagramで食べ物から、風景、ファッションまでゴチャゴチャとしたのはテーマがない状態。厳密に言えば違うのだが。
今の私のInstagramもこの状態。
そのうちリセットしなければとは思っているのだけれど。
食べ物を中心にのせているならテーマは食べ物だし、ファッション中心ならファッションがテーマになる。

上記の、厳密に言えばテーマがない状態ではないというのは、それらの場合は「私」をテーマとする場合があるから。
芸能人なんかの「ちょっと私生活晒しちゃうよ」ってのがコレ。

つまりテーマが無いと、どうにも纏まりがなくなってしまう、ということ。
この纏まりがない状態っていうのは厄介で、人から見れば「この人は結局何が売りなの?」と、なる訳で。
纏まりのない状態でも成立するのは「私」に価値がある場合だけ。
これが芸能人とかスターみたいな人たち。
この人たちは主たる需要以外の「私」も売りとなっているから成立する。

あと私が勘違いしていた事で「テーマは複数あっていい」というのがある。
どうにも「作品を創る上でテーマを決めろ」と言われると、それ以外の事をするのが悪いことのように思ったのが原因だ。
このシリーズは○○がテーマ。こっちのシリーズは□□がテーマ。別にこれで問題はない事だった。

さて、前置きと余談が長かったが、ここからがタイトルの本題である。
厳密に言えばテーマとは少し違う、もっと根元的なところの話なのだけれど。

この危険なテーマっていうのは、自分のルーツを探すこと。
色々作品を作っていると、どうにも自分の源流、何故これに執着するのかを考えるようになる。
これはこれで必要なことでもある。
そして辿れば昔の記憶の片隅に、気づけばあの頃から、色々な原因を見つける。 そうする内に「故に私はこれに執着する」と結論が出る。

これが大きな間違いである。
この記憶をたどる作業の厄介な所は、心理テストと同じで、どうやったって当てはまるようにできている部分である。
よくよく考えてみてほしい。興味のないものを作る作家はいない。
興味がないというのは、好きでも、嫌いでもない状態。
ネガティブであれ、ポジティブであれ、興味があるから作る。
そこにルーツを求めても、行き当たるのは同じような結果でしかない。
そしてその結果に沿うように行動をするようになる。
つまり、自分が見つけ出した(様な気がしている)ルーツに引っ張られる状態。

とまぁ、色々と書いたけれど、結局のところ自分の経験則なので。
こんなことになるのはもしかしたら私だけかもしれない。
それならそれで書き物のネタとなったのでよしとしよう。
もし、思い当たる節がある人は「それぞれでルーツが変わる、そういうもんだ。」という納得の仕方も別に悪くないだろう。
現状私も、この根元的テーマや、ステートメントは未だに確信するに至っていない。
そしてまた、それぞれがこの問題をどう消化しているのかを語らないのも、解決に至らない要因のひとつだろう。
人に聞くまでも無いことだ、と言われればそれまでだが。

では、また。

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