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仲間というのものの認識と境界について

近頃、どうにも困っているのが仲間というもので。
ここでいう仲間というのは別に馴れ合うような存在ではないことは最初に断っておく。
今まであまり欲しいと感じたことはなかったのだけれど、最近は必要性を感じている。
だからといってどこで出会えばいいのかがわからず。
個展とか行って話しかければいいじゃないか?全くその通りだけど、そこから交流が始まる予感が一切しないのは何故だろう。
交わして一言、二言。それで終わり。そこから先がない。

結局のところ、聞きたいことなど無いのだ。相手も話したい事などないのだろう。
モノの良し悪しは別として、私はあまり他人に興味が持てないみたいだ。

また話が逸れかけた。
まぁ、こんな奴が仲間を求めても、どうしようもない訳で。
ただ、自分が今どの位置にいるのかを知るためには必要なものであるとは思っている。
島ひとつ、船一つ無い大海原は不安になるものだ。

そもそもこの仲間というのも難しいもので、何かが拮抗していなければいけない。
片方が飛び抜けると、片方は疎外されていく。
ワンピースのルフィとウソップがこんな感じで揉めたエピソードがあった気がする。
仲違いの焦点がそこじゃなかったから、その部分は解決してないままだったと思う。
数段上の人間に仲間意識なんて芽生える訳もなく、どちらかというと先生に近い存在になってしまう。
かといって、明らかに自分より程度が下の人には与えることが過多になってしまう。

自分と同程度の人というのは見つけにくいもので。
どうしても上か下かに見えてしまう。
目に見えるバロメーターがないとどうにも分かりにくい。
ふと思ったのは、嫌悪感を抱いたものは、同程度なんじゃないかということ。
ただ、あれらと自分が同程度かと思うと、自己嫌悪に陥るので、この考察は当たっていて欲しくない。

ただ、こんな嫌悪感や優劣の感情は自分と同じジャンルの人にだけ抱く感情だろう。
画家が、別の画家に対抗心を抱くことはあっても、格闘家に対抗心は燃やさないのと同じだ。
このような存在を言葉にするならば「好敵手」となるのだろう。

好敵手と仲間の違いもなんだか曖昧だ。
刺激しあうという意味ならどちらもそうだろう。
助け合うのが仲間なのかもしれないが、現実は誰かが誰かに寄りかかっているだけだ。

だとすれば、ジャンルの違う人間にこそ仲間を求めるべきなのだろうか。
自分とは違うことをしているが、物を見る好みが合う(もしくは理解できる)、そんな人たちの方が、干渉し過ぎない距離を保てるのではないか。
だが、それで自分の現在位置を認識できるかは分からない。

こんなことをぐるぐると考えている。
仲間の必要性と不必要性を行ったり来たり。
ただ少なからず、今の所それらに該当する人には出会っていない。

ではまた。

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