正しさについて思うこと。

おっす、おら、のいさん。
以前とっても大事な話があったので部分的にかいつまんで。

まぁ、多分人間一人一人異なる自分にとって正しいと思うこと的なものを持ってると思うんですね。
合理的な意味での正しさとか
自分の考え思想を貫く上で誇示する必要がある正しさとか
まぁ、いろいろ。

なんというか、色々な人と接触してきて、いろんな人の心中に描く正しさに触れてきたんだけどさ、
あ、この人のいさんと同じだって人がびっくりするほどいなくて、
ていうか一人も出会ったことがなくて、
実はそういう環境に身を投じてないだけなのかもしれないけど。
そこは投じたかったらとっくに探して投じてるので、至って興味はなしと。
それだけにいつもこういう話をするときは回りくどく難しくトゲトゲしく
本気で読む気がある方以外を避けてるような〜。
まぁそんなのはいいし何度も言ってるけど。

でも今回の内容は回りくどいのはカットして話します。
ストレート。はい。本題。

のいさんは思います。まぁ、まずその正しさについてのいさんの思い描く定義ってなんなのかっていうと、間違ってないということなんですけど。

いやそんな対偶みたいなこと言われても…いや結局回りくどいじゃねぇか!って思ったらすんませんw
でもこれが一番回りくどくない言い方だと思います。

のいさんの正しいに対する考え方を原文ママってぐらいに書き綴るとこうなります。(また難しい話になるけどごめんがんばってよんで)

(ライトな言い回し)
どうせ究極的な正しさなんかいまは証明できない上に、
正しさを追い求めれば傲るリスクもあるんだから、
正しいと言い切ったり正しさだけを求めるより、
間違ってるかもしれない部分を潰して行った方が、
正しさを求めやすくない?
(がっつり)
革新的な観点の生誕により、今まで正しいと思っていたものが、
根本がひっくり返されたりすることがあるかもしれない。
あくまで我々の思い描く正しいというのは、
完璧な正答に近似することはあれど、到達することは適わず、
最適化の範疇を凌駕することはない。

正しいと思うことを現時点の最適解と認知し、
その回答の精度を上げることのみが正しさに最も近い土壌となる。

転じて正しいという言葉を軽率に乱用し固執することはただの学習放棄であり、
正確性を問うことが正しいに最も近い正しいとなる。

英霊が作り上げてきた技術開発や文化の上で得られる情報だけをベースに、
この悪魔の証明から解脱した瞬間、初めて世界に正しいが誕生する。

その瞬間を証明することが現時点適ってない以上、
確からしいに過ぎない概念を、正しいと換言しているだけということを
完全否定することは不可能である。

要は、正しいと思ってることでも、いっぱい勉強すれば
粗探しができて、もっと精度の高い正しいになるよねってはなし。

粗探しができるってことは間違ってる可能性があるってことじゃん。
まぁ、なんであれ真の意味で手前の持つ考え方が正しいのであれば、
考え方が変わることは一生ありえない。
考え方が変わるかもしれないマージンを残していたり、
実際に考え方が、潜在意識レベルでも変位が発生した時点で、
その口から出る正しいは全てただの嘘になる。

まぁ、現代の定義済メソッドに則れば正しいとかいう前置があればそれはある意味真の意味で正しいになるんだけどね。
そこを飛躍して正しいと言ってしまえば上のような条件を満たした瞬間に、全てただの嘘になる。

だからさ、正しいことを追求するより、間違ってないことを追求する方が、
正しいと思うことの正しさを担保しやすくない?

正しい!と言い切るんじゃなくて、間違ってる部分もあるかもしれない!と素直にマージン残しとけばいいんじゃないかな?
これは人に対してでもそうだし自分に対してでもそうかな。

人に対して言うとすれば、完全なる究極の意味で正しいことでもない限り必ず修正が入る以上、正しいと言い切るのはなしかなと。
はっきり言い切っておきながらここ間違ってましたー!って修正したりするのもやりづらくなるじゃん。
意識的に間違った正しいへの固執が働いたり、社会的立場へのなんちゃ〜らが働いたりしてやりづらくなるだろってこと。

要はダセーじゃんってこと。
ていうかこういうことやるときだいたいダブルスタンダードが発動してるんだよね。
ダブスタやらんために最終バージョンとはっきり言い切らずに、
バージョンいくつ程度にとどめとけばよくない。 ダセーじゃん。

自分に対して間違ってる部分があるかもしれない!と考えるとすれば
それこそ間違った正しいへの固執がいらなくなるよね。

正しいと思って突っ走った先が実は間違ってた。その時どう思うか。
どこかでも言ったし何度も言ってるし、これについて多分同じこと言ってる人いそうな気もするけど
こういう間違ってたことに気づいた時、引き返せることが大事。
でも可能性を想定しながら歩を進めていれば、
わざわざ引き返せるなんて可能みたいなこと言う必要ない。
間違っている部分があるかもしれない!という前提が脳内にあれば、
間違っていたら引き返すという前提が出来上がってるわけですよ。

そう言う前提があればなんの根拠もなしに退路を断つようなこともしなければ、
しょーもないコンコルド効果に脳みそ侵されずに済むんじゃないすか?
要は、後悔が生まれない。
生まれなければ後悔を不幸と換言して誤魔化す必要もない。

本当に正しいのか?とか、正しいと思う根拠はこうです!ってはっきりした抑止力読解力分析力が働いていれば良いのよってはなし。

手前がそんな無知蒙昧を脱却する意識があり、努力を積み重ねているのであれば、手前の学習に正しさを適用するメリットはひとつもないんよってはなし。

その根拠ない断言から無駄な不幸が生まれるんよってはなし。
急いては事を仕損じるなんて言葉もあるけど、それは手だけでなく口もまた同じねってはなし。
手も口も結局動かすのは脳なので口が悪けりゃ全て悪しってはなし。

と条件を切り捨てていけば、正しいとはっきり断言するメリットは、
屈服服従ぐらいでしかまともに学習できない人を懐柔する時くらいじゃない?しらんけど。


ほい、その人の思う正しいがより正しいになれば良いなぁという余計なお節介みたいなことを思ってそれとなくてろてろ書かせていただきました。

このことは長らく思ってたけどタイミングがないなぁと思ってたところで、
小規模ながら良い機会になったので。

どうせこの記事は読むべき人が読んで衝撃が走れば良いやと思ってて書いてるので。
別に。異論は認める。ていうか異論は喜んで。
なお、論でお願いしたく、勝手に手前自信の中で思い込む手前都合の正しいを押し付けようとする可能性が一切ない上ことを前提としていただきたく、
可能性がないこれすなわちその可能性がない前提を証明完了したものをここでは論として狭義的に定義させていただければと思います。

何言ってるのかわかんない人はわかるまでエヴァでも進撃でも観てきて(??????

あ、完全に余談だけど、のいさんツイ垢で時々
この辺の作品については、観点の根幹が一致していないと、
議論として成立しないから話をしたくない、
あるいはされてもはぐらかしますみたいなこと言ってるけど、

その観点の根幹ってこれですね。

要は、正誤を等しく見つめ、誤を突き詰めれば正に磨きがかかる。
正しいに飛びつくな。 正しいを誇示するな。

当たり前は口にしなくなってようやく当たり前になる。
口にしなくなるまで正しいを突き詰めてから、
正しいを口にしませんか。 ってはなし。

まぁ、多分そう言い切ってしまった場合、
正しいを口にするのは非常に厳しいというか、

それが実現しているとき、
人間の頭の中を完全再現した人工知能が作れることが証明された時、
その理論の枝分かれで既に正しいという概念の定義が
定義済メソッドとして完全証明が完了していることになる。

それはまた別の話だけど、はて、そんな未来はあるのかね。

まぁ、過去に賢者偉人が生み出してきた様々なものを通じ、
できっこないができるようになるというのを実現してきたので

もしかすると。

おもしろいね、その時人類にとってアカシックレコードはオワコンになってそうだ。
おそろしいね。

おお、そうだそうだ。
のいさんこういう前提が脳裏に常にあるから、
スピリチュアルは大好きで研究対象でありながら、
普遍的な定義不足に対する焦燥感みたいなものを、
感じ続けているわけであり。 まぁ、それもまた別の話ですね。

今日はこの辺で。

あ、真実を疑うってマガジン作ってますけど要は…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?