針仕事は女の牙城? テキスタイルアートとフェミニズム
自分のやっていることが、好きでやっているのか、社会規範がある故にやってしまっていることなのか、わからなくなることは多々ある。
料理をする、家の中を整える、衣類にあいた穴を繕う……どれも好きなこととも言えるが、異性と暮らすようになると、頼まれてもいないのに相手のぶんまで「やっておかなきゃ」という思いに駆られてしまうこともある。これらは女の役割だという自分の中のバイアスがそうさせているのだろうか? いや、掃除や料理は夫も尽力しているけれど、それでも裁縫だけは完全に私の担当領域だ。それは付き合い始めた頃、彼の縫い付けたボタンが今にも外れてしまいそうなのを見て、「やるから貸して!」とお節介を焼いてしまったことに端を発するのだけれど。
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思い返せば、私は父が針に糸を通している姿を見たことがない。父はお好み焼きを焼くのが上手だし、「風呂、洗っといたで!」といつも言っているけれど、たとえば破れた靴下を繕うとか、発表会用のドレスを仕立てるとか、こと裁縫に関してはその全てが母の領域だった。とはいえ親の世代は、中学で女子は家庭科を、男子は技術を……と科目が別れていたのだから、得意不得意や好き嫌いの前に「そういうもの」だったんだろう。
さらに上の世代まで遡ると、その男女差はどうなるのか。歴史学者、姫岡とし子氏の『ジェンダー化する社会』(2004年 岩波書店)では、かつて日本の製織労働の担い手の殆どが女性であったこと、そして労働者が男であった場合との価値の高低差などが論じられている。以下、機業地域……それはつまり日本の広範囲に渡って存在した地域での、主に戦前の価値観を伺い知れる箇所を紹介したい。
織物のスキルが、ここまで女の一生を左右していた……という昔話に仰天してしまうけれど、こうした価値観は私のたった3世代程上に確かに存在したのだ。
ここで、かつて家計を支えた糸引きや機織と、今日の私たちが家庭科で習うような裁縫を並べて論じるのは申し訳無さがあるけれど、糸や布にまつわる仕事は確かに、曾祖母の世代、そして祖母、母……と先細りながらも受け継がれてきている。もっとも、今では既製品がなんでも安く手に入るし、裁縫箱を開ける機会すら限りなく少なくなっているのだから、ついにその文化が途絶える時なのかもしれない。それでも今日の私がときどき針に糸を通すのは、そうした下地が理由の一つにあるようにも思う。
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先日、知人に誘われて富士吉田市を訪れた。そこは平安時代からの織物の名産地であり、今でもその産業が受け継がれている町である。そんな町で布の芸術祭、FUJI TEXTILE WEEKが開催されるとのことで、内覧会に伺うことになった。
11月23日。友人と待ち合わせて、朝の新宿駅から山梨方面へ。車内は日本語話者を探すほうが難しい……という程に海外からの観光客で満たされていた。多くの旅人が目指す先も我々と同じく富士吉田市。五重塔越しに、もしくは商店街越しに荘厳な富士山が望めることで、指折りの観光地になっているのだそう。
SNSでバズりまくっているこうした景色に加えて、今は紅葉の美しい盛り。撮影スポットは立派なカメラを構えた訪日外国人たちで満員電車状態だった。
「これがオーバーツーリズム……」と呟きながらも自分もそこに並んでしっかり撮影しつつ、本来の目的であるFuji Textile Weekへ向かう。
展示会場は富士吉田市内の10箇所に点在しており、その全てを徒歩で、もしくはレンタサイクルなどで巡ることが出来る。現在は使われなくなった織物関連の工場や倉庫、空き店舗などが舞台だ。
かつての機織機の工場跡地である「旧 山叶(やまかの)」。戦後、この地で生産していた布地の需要の高さから生産体制を強化し、中二階を増設したらしい。そんな中二階では、背筋を伸ばして歩くことすら難しかった。この空間に、「織姫」と呼ばれた女工たちが肩を寄せ合い働いていたであろう景色を想像する。
この展示は旧文化服装学院の一室にて。文化服装……と聞くとファッションデザイナー輩出学校という印象を持つけれど、その関連施設であるここは織物産地を担う女性たちの職業訓練の場であった。工場に働きに出る前の若い女性たちが通った教室だ。
今回のFuji Textile Week。出展作家の内訳を見ると、その約8割が女性であった(一方、実行委員長やキュレーターは男性)。
家族のために針仕事をしなければならない……という時代ではなくなりつつある今も、テキスタイルアートの領域は女性が多い。「テキスタイルアートは女性の牙城」と言う美術関係者もいる。
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1970年代、世界の第二波フェミニズムの中では、男性中心のアート業界の中で、「刺繍や編み物、かぎ針編みなどの女性たちが担ってきた創造的実践」が適切に評価されていないことがフェミニストたちによって批判された。
1976年にオーストラリアのフェミニストかつアーティスト、マリー・マクマホンとフランシス・フェニックスによって設立された"Women's Domestic Needlework Group"は、女性たちを集めて針仕事に関する知識を共有し、そのアーカイブを作ることで芸術的価値を高めようとしたそうだ。また、日本のテキスタイルアーティストである青山悟氏は、自身が卒業したロンドンのGoldsmiths University of Londonのテキスタイル科は、男性中心のアート業界に対して、フェミニストたちが連帯して始められたものであった(その中で男性である自らは大変に浮いていた)とインタビューで語っている。
テキスタイルアートという領域、その女性率の高さには、女たちが自分たちが家の中でやってきたことの芸術的価値を認めさせようとした、戦いの痕跡が確かに残る。針や糸は女たちにとって好むと好まざるとにかかわらず使いこなさなければならなかった道具ではあるが、彼女たちはそれらを「画材」に変えることで闘ってきたのだ。
内覧会中「他のアートイベントに比べて、出展作家に女性が多いよね」という声を聞いた。かつてそこを切り拓いてきた女たちの存在が語られなくなる程度には、先人たちの開拓した道は太く大きなものになったのだろう。
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政治や科学、経済の場に、女性の数を増やすべきだと、さまざまな政策やアファーマティブ・アクションが実施されている(私はAAの条件によって賛成 /反対と立場を変えるけれど、その話をすると長くなるのでここでは割愛しておく)。
一方、女性率の高いテキスタイルアートの領域において、「もっと男性を」という声はあまり聞かない。もっとも政治や科学、経済といった諸分野に比べてしまうと、権威性が低く、さらに一般市民への影響が多いとは言えない業界だから……ということはあるのだろうけれど。
しかしそうしたテキスタイルの世界でも、男性が過半数を占める場所がある。姫岡とし子氏の『ジェンダー化する社会』にその詳細が書かれているので引き続き紹介したい。
西陣織といえば日本が誇る高級絹織物。そうした世界に限定して言えば、男性が多かった……というのはなんとも複雑な気持ちになる話だ。
同書の中で紹介されていた、ジャーナリストの横山源之助氏によって書かれた以下の文章を読んでも、その当時の社会が女性の技術力を大変低く見積もっていたことがよくわかる。
過去の言動を現代の価値観を持って批判するのはナンセンスであると先に断っておくけれど、読むだけで涙が出てしまいそうになる恨めしい文章である。家計のために、当時工場で布を織っていた女たちは、こうした意見をどう受け取っていたのだろうか。
ただ現代に置いては、佐竹美都子氏が手掛ける西陣ブランド「かはひらこ」など、西陣織の分野でも女性の活躍が増えている。同時にテキスタイルアートの分野にも、布や糸、そのファッション性に惹かれて参入してくる男性は少なからず存在する。たった3世代程でここまで変わってきたのだ……と思うと、今を生きる作家たちの作品を見る感情も違ったものになってくる。
昭和の終わりに生まれた私は嫁入りの条件として織物の技術を求められたことはないし、職業訓練校で機織技術の習得をしなさい、と言われることもなかった。自らに見合った仕事を選び、着たい服を来て、こうして自由に発言している。それでも、家族の靴下にあいた穴を繕うことくらいはあるけれど。
けれども私はこの文章の中で、「今では既製品がなんでも安く手に入るし」と書いていた。その安く手に入る既製品を作っているのはどこの誰なのか。女工たちが大勢働いた機織機の工場跡地。そこにあった景色は、時代が変わって失われた……という訳ではなく、形を変えて遠い場所に移動したに過ぎない。現代を生きる作家たちの強い意思を表現するテキスタイルアートと、その場所の記憶が確かに残る展示会場は、強さと哀愁を綯い交ぜにしたような空気があった。
以下、『視点』購読者の方に向けたおまけ文章。斜に構えた私とその遠くにあるファッション業界について。
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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。