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悪人が赦され続けたドラゴン桜と、不寛容な私とソーシャルメディア



(8月29日、記事の最後に追記しました)

久しぶりに民放の連ドラを観た。『ドラゴン桜2』。

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日曜劇場『ドラゴン桜』(TBS)より


前作が放送されたときはちょうど高校3年生で、受験勉強中の唯一のご褒美のように楽しんでいた世代ど真ん中(サエコが好きだったなぁ)。父が週刊モーニングを買っていたので原作もみっちり読み込んでいたし、大人になってからはドラゴン桜の編集者、佐渡島庸平さんが立ち上げたコルクの仕事を手伝うようになり、ドラゴン桜を盛り上げる東大生インターンチームにSNSのアドバイスをしたりなんかもしていた。と、何かと縁深いドラマなのです。

前回は「バカ」が勉強で努力を知り、更生していく……という極めてシンプルなストーリーだったけれども、16年を経て、内容はめちゃくちゃ複雑化していた(※以降ネタバレを含みます)。


秀才ながらも他人を否定しなければアイデンティティを確保できない藤井遼、否定されず大切に育てられてきたからこそ飽き性で努力できない早瀬奈緒、大人は子どもを叱れないからと強気になり、何でもネット炎上のネタに使って動画の再生回数を稼ぐヤンキー2人組……といった生徒像は非常に、というか過剰に「今っぽい」登場人物だ。

そしてTikTokさながらのスピード感で次から次へと事件が畳み掛けるように発生していくストーリー構成は、1秒たりとも待てないスマホ世代の視聴者に最適化されたものであり、脳汁がドバドバと出てしまう刺激物。韓国ドラマのスピード感にも似ている。

という具合で、「わぁ、今っぽいドラマだなぁ〜…」と(わざわざVPN接続してアメリカからTverで)脳汁を垂れ流しながら楽しんでいる中で、毎話もやもやとした違和感を残してしまったのが、悪人が赦され続けるという点だった。悪行をした人間は、阿部寛演じる桜木先生によるド迫力説教はかまされるものの、最終的には赦される。赦され続けるのだ。


──


生徒役の中でも中心的存在である、平手友梨奈演じるバドミントンのオリンピック選手候補の岩崎楓は、しょっぱなから万引と放火という犯罪を立て続けに起こす。しかしそれは赦される。

そして選手として超有望だった岩崎楓の身体とメンタルを壊しにかかった陰湿なダブルスペアの女子生徒も赦される。彼女はまだ子どもだからいいとしても、その女子生徒に手を出して共に岩崎を潰そうとしていた男性コーチも岩崎による「指導者としては必要」みたいな理由で赦される。まじか。

娘をDVし続けていた父親も、離婚という結末にはなるものの、しかるべき機関には報告されずに娘によって赦される。最終回では、桜木の社会的地位と仕事を奪い、さらには元生徒を自殺にまで追い込んだ悪徳弁護士も赦される。(そういう奴は復習せずとも、いずれ破滅していくから……と桜木は言う)


案の定、Twitterでは「それは許しちゃ駄目」「犯罪は犯罪」「奴らはまた繰り返すから被害者が増えてしまう」という否定的な意見が散見された。内容詰め込みまくりの連ドラでは悪人の顛末や更生まで描くキャパシティがないのはわかるけれど、さすがにちょっと雑に赦しすぎなんでない? という点には私もモヤモヤした。中でもセクハラコーチは教育現場から今すぐ撤退させるべきだし、そして彼らを野放しにするのは最近の時流とも異なるように思うのだ。

けれども同時に、短い尺の中でなんとか描かれていたのは、「悪事を働く人にも、そこに至るだけの理由がある」という背景だ(残念ながら描かれない人もいるけれど)。

最近はディズニーも、もっぱらこうした物語作りに熱心だ。ヴィランス(悪役)であるマレフィセント(from眠れる森の美女)や、クルエラ(from101匹ワンちゃん)がいかにして闇落ちしたのか、というサイドストーリーが次々と公開されている。

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https://disneyplus.disney.co.jp より

過去の名作を受け継いでいくためにも、善vs悪で描かれ続けてきた偏った視点と権力構造に、現代的な解釈を付加しておかなきゃならない。

こちらにも正義があるが、あちらにだって理由がある。…というところを描くのが現代エンタティンメントのお作法にもなっているよなぁ。過去作をリバイバルするならば尚のこと。


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ドラマや映画の話はさておき。私は「赦す」ことについて、ここ数年とても頭を悩ませている。

SNSで何かが悪だとなるとき、悪行の中心人物は私刑に処される。パクり疑惑で炎上したあの人。信頼性のない医療メディアで炎上したあの人。部下へのパワハラで炎上したあの人……。私刑に処された人たちの「その後」を、私は知らない。みんな、姿を消してしまうから。

もちろん、彼ら彼女らがしたことを、赦しましょうと呼びかける立場にはいない。被害者からすれば、そうした人が何の悪びれもなく活躍している現実は、人生を苦しめ続ける。そして社会構造を変えなければ、別のところで似たような被害者は増え続けてしまう。

だから被害者やその痛みを知る人々が連帯して痛みを訴え、社会構造を是正していくことは必要なプロセスだ。


けれどもそのプロセスの中で、どのような美学を持つべきなのか、というのがここしばらくの悩みでもある。私自身、腸が煮えくり返るくらいの屈辱を受けていたこともあるけれど、だからといって、その証拠をかき集めて私刑に持ち込むことが「是」なのかどうかは、正直まだわからない。

私刑に持ち込まないために法律があるのだろうとも思うが、法律に忠実に裁くことが真の正義であるかも悩ましい。いや、正義正義と言ってるけれど、もっとも、我こそが正義であると信じているとき、相手にとって私は卑劣極まりない悪になっている…という側面は否定できない。



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SNSという自由な無法地帯では、ときに正義が暴走しがちだ。そしていち発信者としては、自分と異なる意見やイデオロギーをすぐさま「論破」しにかかってしまうような今のインターネットカルチャーはあまりにも息苦しいし、何かを発言しようという勇気や気概は減退していく。

結果、有料noteという要塞を築いて立てこもり、小さな声でコソコソ喋るようになってしまった。でもそうやって炎上回避のために小さな井戸を掘れば、井の中の蛙まっしぐらとなることもおっかない。


そうしたことを悩んでいる私だが、ブレイディみかこさんの新刊『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を読んでいると、フランス文学者の渡辺一夫氏が1951年に発表した『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』という本があらためて紹介されていて、三度読み返した。以下、ブレイディさんの文章を引用したい。

 渡辺一夫は、不寛容に報いるために不寛容を以てなすことは、「寛容の自殺」だと書いた。
 自らも不寛容に転べば、不寛容を肥大させるだけなのである。そしてそれは世の中全体の不寛容の増加に与することになる。
 それでも不寛容は、一見すると筋が通った純粋なことに映る。自分の思想や仲間に誠実な態度に見えるし、勇気あるブレない姿勢にも思える。だからこそ、そちら側を選ぶ人は後を絶たない。他方、寛容を実践するには忍耐力が要るし、困難なわりには卑怯な態度だと思われやすい。


寛容の自殺。なんというパワーワード。

そして確かに、「自らの正義を貫き通している」というのはかっこいいけれども、言い換えれば「不寛容である」ともいえる。一方で寛容な人は社会をなめらかにするけれど、第三者から見れば、「したたかにやってはりますなぁ〜」という感じに受け取られたりもする。自分は前者な気もするし、後者な気もするし、というかどっちつかずな気もするし……(悶々)。

と悩みつつ、後に続く文章も引用したい。

これについて、渡辺はこう書く。

 "だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。"

 この記述は、人間が想像力(コグニティヴ・エンパシー)を増し、更に高度な利害打算(真に自分のためになるのは何かを考えた利己主義)に長じるようになれば、人は必然的に寛容を選ぶようになると言っているようにわたしには読めた。
 第二次世界大戦という人的大災害が終わって6年後に記された渡辺のこの文章は、コロナ後の社会を照らすものでもあると思う。


想像力(コグニティヴ・エンパシー)というスキルを伸ばせば、結果として、人は寛容になっていくという。でもそれは、コグニティヴ・エンパシーをはたらかせていない側(そしてきっとこちらが多数派)から見れば「妥協や打算」に見えてしまうかもしれない。矛盾している、尊敬できない人間だとがっかりされてしまうかもしれない。


SNSという透明な部屋の中で見栄を張りながら暮らす現代人(というか私)にとって、そうした「ツッコミどころのある」姿勢に自らを近づけていくことは、容易なことだろうか。正直、自分を正義だと信じていたほうが、ずっと生きるのは楽である気もする。でもそれだと、正義感を暴走させて盲目的になり、社会を不寛容に満ちたものにしてしまうリスクがある。渡辺氏の言葉を借りれば「寛容の自殺」である。

そう思えば、ドラゴン桜で「寛容さ」がしつこく描かれていたのもまた、非常に今っぽいドラマであったなぁと思うのだ。(今のところ、私の正義感と異なる部分はあるけれど……)

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今の時代の息苦しさに疲れ、寛容でありたいと願いながらも、自らの正義も持ちたい、なんなら時に正義の力を振りかざしたいとも思ってしまう。

でもそうして正義感を抱く背景には、SNSが毛細血管のように脳や心を侵食されてしまっている私の、見栄っ張りな土壌が作用しているのかもしれない。


幸運なことに、金曜日の夜、ブレイディさんとお話できる機会を作ってもらった。これもまたインターネットという「透明な家」の中での会話になるから、見栄が邪魔してしまうかもしれない……けれども。正義と不寛容さが蔓延する世界の中で生きることの自己矛盾や息苦しさを、ブレイディさんはどう捉えているのか、色々と尋ねてみたい。

早朝のニューヨークから、お昼どきのイギリスに向けた尋ねごとの数々を、日本の夕食時のお供に、よければどうぞ。誰よりも私が楽しみです。


この先は要塞、有料ゾーンで日々のあれこれをお話してます。が、またしても書くのが間に合わなかったので(土下座…)のちほど更新させていただきます!

🌸


8月29日、追記。



「のちほど」更新と書きながら、2ヶ月も放置してしまいました………まっことに申し訳ございません! あんまり昔の記事の追記というのもおかしなものだよなぁと思いつつ、せっかくなのでこの記事本体の内容に即しつつ、ブレイディみかこさんとの対談を思い出しながら、あの日の感想を書いていきたいなと。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。